【7】
食事をする店を選ぶにあたって、シュザンヌからはアッシュが普段よく利用するところがいいという要望があった。だがそういったところは常に常連がたむろして騒々しく騒いでいたりするようなところだ。彼らは間違っても貴族の奥方などと隣り合って食事するのが似合う連中ではない。
そんなわけでアッシュが選んだのは中の上クラスのレストランだった。一年近くケセドニアにいて、母を連れて行けるような店を知らずに首を捻っているアッシュに、ここだあそこだと特務師団の面々が薦めてくれた中から選んでみた店で、庶民的に過ぎず、かといって気取りすぎていない、二人にごちそうしてもそう懐が痛むわけでもないランクで、内装も料理もまずまずといったところだった。ルークはシュザンヌやアッシュに気を使わせないよう明るく振る舞ってはいるものの明らかに今朝の一件からずっとふさぎ込んでおり、「この間連れてってくれたところじゃ駄目なのか」と控えめに述べただけで、鼻からあんな店は選択肢にないと拒絶するアッシュに何か言いたげな視線を向けただけでなにも言わなかった。
食事を終え、忘れていてくれればいいのにという願いも空しく、シュザンヌは遠慮がちにアッシュの住んでいるところが見てみたいと言いだした。狭くて汚いところですよと忠告したあと宿舎に移動している途中、保護施設の復旧を手伝っていたらしいマティアスにばったりと会った。
「爆発物の扱いに関しては俺より上のやつはいない」とランツが嘯く通り、派手に崩れていたのはレプリカたちがいた部屋の出入り口、廊下の一部とランツ自身が人質を連れて脱出した通り側の壁の一部のみで、後は音機関を利用した時限式の小規模な物で、爆発によって建物を崩し、人を殺傷するのが目的と言うより、内部にいる人々や兵を引きつけるための陽動として利用されたと思われる。だから建物の修理は後日入るとして、瓦礫の片付けは日中の休憩を入れても滞りなく終了した。
にも関わらず今の時間まで保護施設にいたというのは、残されたレプリカたちを気にしているというのもあるのだろうが、十中八九はあの少女のことが気になっているからなのだろう。特務師団では追って捕らえよという命令を出さなかったが、第四師団の兵らがランツを手配し、あちこちに検問を設けて捕縛の手はずを整えている。にも関わらずしばらくは休暇で自由に動けるはずのマティアスが追っていないのは──むろんランツを知る特務師団の面々はそれが無駄な行為だと知っているという理由のほか、おそらくはアッシュと同じ結論に達したからなのだろう。
たった一日でくたびれきったようすのマティアスに、ルークがおずおずと気遣いの声をかけた。朝には潜入捜査を行ったものに対して隔意あるようだったのに、疲れ、絶望した男の姿にはほだされる物があったようだ。
ルークはそのままマティアスと少しだけレプリカたちの様子を見てくると言い、連れ立って行ってしまった。彼らが仮宿に収まったところを回ってくるらしい。事件のあとだからルークが一人になることにシュザンヌは良い顔をしなかったが、意外に頑固なところのあるルークが意思を撤回しないことも、またわかっていたようだ。
自分の部屋だと言うのに居場所のない思いで、アッシュは隅に身を寄せてシュザンヌが興味津々にあちこち検分する様子を窺っていた。
「……本当にルークの言う通り。お部屋を見て、わたくしの心配や不安は的外れな杞憂だとわかりました」シュザンヌは目を細めて気味の悪い顔の木彫り人形を見つめ、ほっそりした指先でそっとその頬を撫でてくすりと笑った。「男の子は、女性には理解出来ない物を集める習性があるとどこかで読みましたが……」
「それは貰い物で……」
こんなものを土産に買って来た女性団員の顔を恨みがましく思い浮かべ、言い訳をしかけたところで男らしくないと気付き口を閉じる。
「そうなの。お顔が、あなたにとても似ています。贈り主も、きっとそう思ったのね」
はあ?! と頓狂な声を上げそうになり、アッシュはぐっと奥歯を噛み締めて堪えた。シュザンヌは愛らしくて仕方ないという顔で、その気味の悪い置物の頭を撫でている。
アッシュは横目で置物を見やり、どこがどのように自分に似ているというのか見極めようとしたが、すぐにげんなりと頭を垂れた。
「気難しそうだけれど、良いお顔ですよ」シュザンヌは笑った。「ルークも同じことを言っていました」
「……」
どうしても恨みがましい顔つきになってしまうのか、シュザンヌが口元に手を当てておかしそうに笑った。記憶の中の母はどこか寂しげに笑う人だったが、食事の間からよくしゃべり、楽しそうによく笑う。ルークは母の前でははしゃいでしゃべって母を良く笑わせていたが、次第に無理しているようすもなく自然に楽しんでいたようだから、短い旅の間にすでに何度もそんなふうに打ち解けていたのだろう。三年前は、引きずるようにアッシュを屋敷に連れ戻したくせに、己自身の居場所はないといったようすで部屋の隅で曖昧な笑みを浮かべていたものを。
「……旅に出てから、あの子はどんどん素のままのあの子をわたくしに見せてくれるようになったのです。わたくしは自分がレプリカだと知ってからのあの子の遠慮が心配でならなかったのですが、最近は前のように駄々をこねたりするのですよ」
「……そうですか」
アッシュは微笑み、頷いた。
居場所を盗られたなどとは、とうに思わない。父母を激しく慕っているのに──実年齢を思えば、それは当然のことなのだが──被験者に遠慮し、まるで托卵されたかのように父母に罪悪感を抱いて率直にそれを表現できなくなっていたルークが、自分の居場所を定め、少しずつ構築しているという知らせは素直に喜ばしいと思える。
「わたくしは、あのとき……。記憶を失くし、赤ん坊のようになって戻って来た『あなた』を、喜んだの」
シュザンヌはルークが焼け石に水のような態ではあるが整理した本棚に並ぶ雑多な背表紙を撫でながら唐突に言った。その横顔には薄らと笑みが浮かび、アッシュに対する罪悪感などは見られない。
無言で話を促すアッシュの怪訝そうな顔を見、シュザンヌはするりとアッシュの正面に立つと、顎の先にも頭が届かない大きな息子をそっと抱きしめた。
「ははうえ……?」
「あなたもご存知の通り、貴族の女性は手元で子どもを育てられません。ましてや、あなたは公爵家の跡取り息子。女の子や、二人目、三人目の子どもならともかく、あなただけはわたくし手ずから育てることは許されていなかったの」
アッシュにとって、母に抱きしめられた記憶はとても遠いものだった。いつ、どのようにと問われると憶えていないとしか答えられない。ただ、このようにふんわりと抱きしめられたぬくもりと、甘い匂いが遠い記憶を刺激するような気がするだけだ。
どうしていいかわからず、アッシュは両手を母の肩あたりに上げたまま、混乱して母の頭を見下ろした。
良く手入れされた、美しい紅の髪。目立たないが、数本白いものが見える。
「別人のようになって戻った『あなた』はすぐに音素振動数を調べられましたが、それは決して別人であることを疑ったからだけではなかったのでしょう。今から思えば、赤子のようになってしまった『あなた』が超振動の力を未だ使えるのか。預言通りにキムラスカを繁栄に導く贄として使えるのか……それを確かめるためだったのかも知れません。ですが、誰も同じ音素振動数を持つものが三人存在するとは思いもしない。戻って来た子どもは間違いなく『ルーク・フォン・ファブレ』であると証明され──わたくしに戻されたのです」
「……」
レプリカ技術は一部の科学者の間では知られた理論だったかもしれないが、一般には広まっていなかった。すぐに封印されたことを思えば、知るものは皆無といって良かっただろう。戻ってきたルークを見てレプリカを疑うものなどいるはずがなかった。例えいたとしても、音素振動数の完全一致を見てはその疑いも霧散したはずだ。
ルークが『俺』ではないことを、見抜けるはずもなかったのだと、今ならアッシュもわかっている。決して自分が愛されていなかったわけではないことも。
「わたくしは、嬉しくてなりませんでした」
本当に嬉しそうな母の声に、アッシュは当惑し、ついではっと息を飲んだ。
「わたくしのたった一人の子。わたくしの、最初で最後の子どもを、今度こそ手元で育てられる。下々の民のように、自分でお乳をやることは叶いませんでしたが、毎日が刺激的で、幸せで……。これも『あなた』がこんなふうになって戻ったお陰だと。それほどに辛い思いをしたのだろうと心が痛まぬはずはないのに、わたくしはそれでも嬉しかった。あなたは非の打ち所のない子どもで、皆が口を揃えて褒めちぎるのを聞いて誇らしく思っていたはずなのに……。成長してもこのまま──誰のこともわからぬままかもしれないと思っても、それでもわたくしはそうなればずっとわたくしの傍にあなたを置いておけると思ったのです。身勝手でしょう?」
アッシュはそっと母の身体を抱きしめて、白髪の混じり始めた髪に頬を寄せた。──いや。そっと触れたつもりだったが、かすかに震える腕には予想外の力が籠っていた。母がアーッシュ? と子どもをあやすようなような声で呼びかける。
人の口に戸は立てられない。ファブレ家の嫡男が誘拐され、赤子のようになって戻ったと言うことは、さざ波のように貴族社会に広まったことだろう。だが、ファブレ家としては公にそれを認めるわけにはいかない。いわゆる貴族の面子と言うやつもある。将来、嫡子を国の贄に差し出すということで、身分以上に優遇されている面も色々とあっただろう。預言を知っているからこそそれを黙認している貴族もいる手前、ルークの面倒を見るための人材を新たに登用することは、おそらく出来なかった。
実際に母が育てたのは、アッシュではなく、ルークだ。だが母は、アッシュを──被験者ルークを育てているつもりでいた。市井の、大勢の母親のように、手元に置いて、話しかけ、抱きしめ、時に添い寝して子守唄を歌い、ただ──ただ、愛して。
母と顔を合わせるのは、主に夕食のときだけ。母の体調の良いとき、ごくたまにお茶をすることはあったが、いい歳をしてべたべた母親に甘えるのはみっともないという矜持があったし、アッシュは公爵家の跡取りとして相応しいだけの距離をきちんと置き、礼儀を持って対峙していたと思う。そんなアッシュを、母はどんな気持ちで見ていたのだろう。寂しそうな顔をしていなかっただろうか──思い出せない。
今母の気持ちを聞いて、それが母にとってどれほど寂しいことであったのか、アッシュは初めて気付いた。それは貴族の女性、公爵家の嫡男の母としては褒められた心のありようではなかったかもしれなかったが、手元で、自分で乳を含ませ、抱きしめて育てたかったのだと言われて気分を損なう子などいるはずがない。
誰にも心を開かずに、ただ高い矜持だけを無意味に抱いて自分勝手に振るまい、自分だけが世の中を憂いているような、そんな勘違いをしていた。周囲の大人がみな頼りなく、愚かに見えた。その癖自分は愛されていないと僻み、子どもじみた復讐心でヴァンの甘言に乗った。にもかかわらずすぐさま心折れ、なんの罪もないルークを憎みながらただ、歳だけを重ねた。十歳のころのまま、なんの成長もせずに。
母の手が、ゆっくりとアッシュの背を撫でている。己の身体ですっぽり隠してしまえる小さな母の胸の中は、どこまでも広く、大きく、温かだった。
──『居場所』
戻りたいと渇望し、ずっとこだわり続け、奪われたと恨み。そして最後にはもう俺には必要のないものだと苦笑とともに切り捨てた『居場所』は、バチカルの、あの屋敷などではなかった。自分には与えられなかったと思い込んでいた『ここ』こそが、アッシュがずっと帰りたかった場所なのだと、それは実のところこれまで一度も失われたことはなく、そして何があっても決して切り捨てることの出来ないものだったのだ。母は、己の身体を顧みず、馬鹿な息子にそれを教えに来てくれたのだ──決して見捨てることなく。
「……すみません、母上」
「なぜあなたが謝るのです」笑みを含んだ声が答え、細く柔らかな腕がアッシュの身体をかすかに揺さぶった。
「ずっと、うちに帰らなくて。──長い休暇の取れるときには、なるべく帰るようにします」
息を飲む気配があったが、シュザンヌは言葉を返さなかった。ただ、背を撫でる手が止まり、一度だけ鼻をすする音が聞こえた。
シュザンヌをホテルへ送り、アッシュは力尽きたようにベッドに身を投げ出した。一日で、いろいろなことがありすぎた。良いことも、あまり良くないことも。ランツのことは、正直考えたくなかった。突き詰めて考えると、自分が彼を見誤っているのではないかというところへ思考が行き着いてしまう。結局のところ、大勢の命を──ルークを救うために、少女一人を死地へ追いやっただけなのではないか、と。
眉間を揉んで大きくため息をついた瞬間に、かなり控えめなノックの音が聞こえた。ブーツも脱がずに寝転がったまま、アッシュは視線だけをドアに向け、息をひそめた。いっそ訪問者が誰だかわからないほうが良かった。
居留守を使いたい衝動を一瞬で押さえ込み、アッシュは唸りながら起き上がって無言のままドアを開け放った。部屋の主が眠ってしまっていることを気遣い、引き続きノックするかためらったようで、ノックをしたときのまま軽く握られた左手を右手で押さえ、ルークが所在なげに立ちすくんでいた。
場所を開けてやると、もごもごと礼らしきものを呟きながらルークが脇を通って部屋に入る。ふわっと鼻に触れた香りがシュザンヌのものとよく似ていて、少しだけささくれた気分が浮上した。
「──どうした」
マティアスと二人、気が済むまでレプリカたちを見舞ったら、そのままホテルへ戻るものと思っていた。逢えたのは嬉しいが、正直今夜だけはそうして欲しかった。「なぜ」と問われたところで、筋の通る説明など出来るはずがないのだ。
ルークはちらりとアッシュの顔を窺い、視線で椅子を示されたのを機にもぞもぞと収まり悪く書きもの机の椅子に収まった。
「う、うん。話があって……」
「なんだ?」
普通の紅茶葉の買い置きがないことに気付き、一瞬ためらったあとコーヒーの支度を始めた。正直、ルークのもてなしのためというよりは自分を落ち着かせるためだった。
ルークはなかなか話を始めようとしない。コーヒーが入ってからきちんと向き合って、ということなのだろうか。ことさらゆっくりと支度をしたがこういう日に限って湯が沸くのが早く感じる。
だが香ばしい粉の上に細く湯を落としていると、アロマのように馥郁たる香りが立ち上り、少しずつ気を落ち着かせてくれる。
緊張に顔を強ばらせたルークが、礼を言いながら慎重にカップを受け取る。香りが台無しだと思う一歩手前までミルクを注ぎ、ルークがカップに口をつけるのを待ってから、アッシュは覚悟を決めて再度話を促した。
「おれ、バチカルを出てここで、アッシュと暮らしたいんだ」
「ぐふっ」
予想とまるで違う展開に、アッシュは口に含んでいたコーヒーをカップの中に噴き戻した。