【4】


「──ったく、ケセドニアに来るなら来ると連絡ぐらい寄越せ」
 出勤前に紅茶を淹れ、読みかけの本をのんびり読んでいるときにノックの音がした。来ると予想していたわけではないが、ドアを開けるまえには訪問者の正体がわかっていたような気がする。実際確認もせずにドアを開け、ルークの顔を見て最初に出たのがその台詞だった。
「母上に観光もして欲しくてさ。バチカルを出てまっすぐに来たんじゃないんだ。ケセドニアに着くのがいつになるかわかんなかったし」
「それでも向かっていますの一言くらい飛ばせるだろうが」
「まあ、そうだな。ごめん。忘れてた」
 悪びれもせず堂々と言い放つルークを見て、連絡をしなかったのは意図してのことだと気付いた。
 アッシュは片眉を上げてルークを見下ろし、ため息を付いた。身体をずらし、中に入るよう身振りで示す。「市は見に行ったのか?」
「ああ、隅から隅までな! 母上もハイディも張り切りすぎて、五時前に起こされたんだぜ?! まだ店が全部出てないうちから、あの長い通りを何往復したことか……」
 と、言うわりにはルークの顔は充実感溢れている。指摘すると、ルークはへへへっと嬉しそうに笑った。「すげー楽しんでもらえたんだ。迷子にならないように何度も注意したんだけど、二人とも全然聞いてなくてさ。見張ってるのがちょっと大変だったぐらいだ。ハイディを掴んでると母上がふらふらどっか行っちまうし、母上を見張ってるとハイディがいきなり駆け出すし!」
 あれこれ見せてやりたい、きっと喜ぶだろうと考えたことを相手が思い切り楽しんでくれたのなら、それは計画した側にもとても嬉しいことだろう。
 母がはしゃいであのごみごみした通りを精力的に何往復もする様子がまるで思い浮かばなかったが、アッシュはルークの表情に笑んで手振りで小さなテーブルに付くよう勧めた。
「メシは食ったのか?」
「へっへっへー、市で食ってきた。母上、ヒヨコ豆のコロッケサンドを二つも食べたんだぜ!」
「……母上がか?」アッシュは少しだけ目を見張った。それは薄い種無しのパンに野菜とコロッケを挟んでヨーグルトソースをかけたもので、うまいが庶民の食い物だ。間違っても公爵夫人がかぶりつくようなものではない。じきに八時半になろうという時間なのだから食べて来ただろうとは思っていたが、母たちもいるのだし、まさか買い食いとは思ってもみなかったのだ。しかもあの食の細い母が二つも?
「うん。やってみたかったんだってさ。──もっと早く気付いてたら、いろいろあったのにな。うあー、あの揚げパンも今なら勧められるのに」ルークは呻くように言い、話しながらアッシュが淹れた紅茶のカップを受け取った。「あ、ありがと。……なんか……なに、これ? なんか良い匂いがすんな。あ、うまい。うまいよこれ!」
「そりゃ良かった。貰い物なんだが、バニラと果物のフレーバーティーらしい。良かったら持ってって母上にも差し上げてくれ」
「母上の口にも合いそうだ。きっと喜ぶと思うけど……。貰い物なんだろ? いいのか?」
 アッシュの口には合わず、残りをどうしようかと思っていたところだったので、アッシュは頷いた。こいつは女子供の喜びそうなものを好むんだな、と思い、実際ルークがまだ子どもなのに気付いて苦笑する。
「出るまでまだ少し時間がある。もう一杯淹れてやるよ。疲れたろう、女性の買い物に付き合うのは」
「何言ってんだよ、おれ、ずっとあいつらの買い物に付き合ってたんだぜ?! 母上なんか、まだおれに気を遣ってくれてたほうだ」
 ルークは口を尖らせてそう言ってから、ふっとアッシュの顔を見つめ直して笑った。
「なんだ?」
「いや。相変わらず貰い物が多いんだなって思ってさ」
 そう言うルークの目が薄気味の悪い置物に吸い寄せられて微妙な感じに和んでいるのを見、アッシュは咳払いした。「ところで、こんな時間にどうした? レプリカたちが気になるのか?」
 レプリカ、と総称しつつも、アッシュが思い浮かべたのは黒髪の少女のことだった。ほとんど崇めんばかりだったルークの表情も。
「うん、もちろんそれもある。同じレプリカだし、彼らが今後どうなるのか結末を見届けるまでは引けねえ、って気がするんだ。でもお前が出勤する前に会わなきゃと思ったのはさ、」ルークはそこでくるりと部屋中を見回して、頷いた。「お前のことだから、片付いてるだろうとは思ってたけど、これならまあ……大丈夫だよな」
「何がだ。話が見えん」
「今日、食事行くじゃん。その前に母上がお前の部屋見てえっていうから、片付いてないなら手伝ってやろうと思ったんだよ」
 唖然としてアッシュはルークの得意満面と言った顔を見つめた。そしてのろのろと部屋を見回した。

 軍、というのはおおむね整理整頓が基本である。異動が多かったり、入隊して間もないころは己の占有スペースが非常に狭いからでもあるが、アッシュは剣の素養があったこと、おそらくは超振動をそれなりにコントロールして作戦を有利に導くことができると言う特異能力のため、昇進が非常に早く、一人部屋を貰うのも早かった。だからおそらく整理整頓の精神を完璧には学び損ねたのだ。加えてもともと細かい性格ではないのと、物を溜め込む癖のせいで、決して散らかっているわけではないのに、なぜか雑然とした印象の部屋になる。
「冗談だろう──」
「え? 違うよ──あのさ。おれたち本当はまっすぐケセドニアに来るつもりだったんだよ。だけど母上はこれまでバチカルを出たことがなくて、って言うか、昇降機にも乗ったことがなかったんだよな。この際だから一大観光旅行にしちまえって思ったのはおれの勝手なんだ。母上はそもそもお前に会うためにケセドニアへ行こうって頑張ったんだよ。お前が、自分の知らないところでどんな生活してんのか気にしてるんだ。自分で確認して、安心したいんだよ。そういう気持ちはわかるだろ? だからおれ、お前の部屋見てみればって言ったんだ。お前のことが一発でわかるからって」
 親不孝をしている自覚はあったため、ルークの言い分にアッシュは怯み、ややあってがりがりと頭を掻いて大きくため息をついた。ちらりと時間を確認して顎をしゃくる。「あと三十分はある。手伝え」
「え、どこを?」
「どこでもいいから!」
 とりあえず窓を全開にして、大きな革袋──相変わらず重宝しているのだった──の中に棚の上にごたごた置かれた雑多なものを突っ込んでいく。良い機会だから、この際全部処分してしまおうかと出来もしないことが頭をよぎった瞬間、横合いから革袋を引ったくられた。
「何だ」
「こういうとこはこのままじゃないと意味ねーの! この部屋は窓拭いたり埃払ったりするだけで綺麗じゃん」
 ルークは小さい子にものを言い聞かせるような口調でアッシュを叱り、革袋に突っ込まれた置物を慎重に並べ直していく。乱暴に扱われたそれらのものを労るような手つきに、やる気が急に削がれた。ただでさえどうしようもない息子の評価に、また一つ自堕落だという評価が加わったところでなんだって言うんだ。
「これでおっけ。あとは……本棚を整理していいかな」
「そこはいいだろ」
「綺麗に収まってるけど、ジャンルも作家もバラバラじゃん。続き物とかはきちんと順番に並べたいんだよな、おれ」
「細けえ奴だな」
 幅が足らなくなって、本の上に本を重ねている。買った順、読んだ順に重ねていくのだから、昔読んだものを読み返したいときには面倒くさい。探すのも面倒で、結局読み返すのを諦めたりもする。とはいえ、ここには赴任してまだ一年ちょっとだから、ダアトの部屋ほど混沌としてはいない。
「アッシュ、手、止まってるぜ!」
 指摘されて、自分がルークを凝視していたことに気付いた。自分の部屋にルークがいる、その違和感。にもかかわらず、前回と同じように、ルークはまったく気を張ったようすもなくゆったりとした笑みを浮かべて背表紙を確かめている。
 被験者とレプリカで、なぜこうも違うのだろう。アッシュは万事おおらか──と言えば聞こえは良いが、基本おおざっぱだ。物はきちんと仕舞われていれば良いと考えるほうで、見栄えになど頓着しない。貰い物の紅茶にしても、アッシュはもう一度飲みたいとは思わなかった。だがルークはおかわりまで喜んだ。
 ちまちまと本の順番をいじっているルークを、アッシュは違和感と面映さのないまぜになった心地で見つめた。自分の生活空間に、ずっとそうしてきたみたいに馴染んでいるルークの姿は、なんだか──そう、悪くない。
 シーツでも変えとくか、とアッシュはのろのろと動き出した。自分ではもうわからないが、一人暮らしの男の部屋のにおいなどろくな物ではないはずだ。

 昨夜のうちにレプリカ全員の被験者の名が判明した。姓名をすでに使用している二名を除き、名だけは持っているもの、それすら無い残りのものは書類では便宜上『通名あるいは被験者姓名/R』と記される。今はこのように少人数がぽつりぽつりとやってくるようになっただけだが、当初は登録しなくてはならないレプリカが大勢いて、そのほとんどが名など持ってはいなかった時期の名残である。名前は自分で考えてもいいし、人に付けてもらってもいい。時には職員が相談に乗ったりもして、名前が決まったら正式に戸籍が作られることになる。
 保護施設の会議室に集められたレプリカたちは、良く眠れたかどうかは別として、昨日よりは顔色がいい。とりあえずはゆっくりベッドに横になれて、食べ物もちゃんと食べることができたからなのだろう。
 だが、その表情はどこか険しい。いっそ敵意さえ感じるほどだ。昨日は突然の境遇の変化にただ呆然としていただけで、狩られる立場のレプリカとしてはこれが常なのかも知れないが、ルークはわけがわからず狼狽えた。
「何かあったのか?」ルークは意識して少女に目を向けず、四十がらみの壮年の男に声をかけた。実年齢がどうであれ、年頃の男を自称するルークにとって、昨日のような醜態を晒すのはもう勘弁なのだ。
「今朝、この建物の中であいつらの仲間を見つけた」
「えっ?!」
「仲間を殺したやつだ。拘束もされず、似たような服を着たやつと話していた」
 男は、ルークから目を離さないままアッシュのほうへ顎をしゃくった。被験者など見たくもないという意思表示にも見え、ルークは助けを求めてアッシュを振り向いた。
「彼はマティアス・オーグレーン奏手。七ヶ月間組織に潜入し、やつらの仲間になりきって首謀者や本拠地を探っていた。精神的、肉体的な疲労を考慮してしばらくは休むように命じておいたんだが、あなたがたのことを彼は非常に心配していたので、様子を尋ねに来たようだ」
「……良くわからない。彼はお前の仲間なのに、それを隠して我々を殺すのに手を貸していた、ということか?」少年がアッシュに問いかけた。
「そうだ。敵陣営に深く入り込み、信用させ、機密を漏らさせるのは、我ら特務師団の十八番だ。彼はその最も優秀な一人で、だからこそ今回の任務に抜擢された。あなたがたが捕らえられていたレプリカ売買組織は似たような組織の元締と言えるほど大きく、重要な組織だった。それだけになかなか尻尾を掴ませてくれず、いたずらに犠牲者を増やしてしまったことは深くお詫びする。だが、彼がこれほど完璧に仕事をやり遂げていなければ、あなたがたは誰一人生きてここに辿り着いてはいないだろう」
 少年はわかった、と頷いた。「ならば、彼がここで我々を殺すことはないのだな」
「マティアスが好んでレプリカを殺すことはあり得ない」
 ルークは、少年のみならずレプリカ全員がふっと身体から力を抜くのに気付いて、何かを言おうと開けた口を閉じた。アッシュの今の説明で、彼らは本当に納得したのだろうか。ルーク自身は、その人が例え最終的にレプリカを救うためとはいえ同じレプリカを殺して来たということに、なんだかもやもやした思いがするのに。
「お前はアッシュというのだったな。その名は聞いたことがある」十を越したかどうかという歳の少年がアッシュに確認すると、別の男から声がかかった。
「シンダーとルクスのモデルになった人物か。多くの同胞と共に、レムの塔で障気を払ったという」
「あ……う、観たのかよ、お芝居」驚くルークに、幾人かが居心地が悪くなるほどルークを凝視して首を振った。
「観てはいない。だがあらすじは知っている。旅をしながらレプリカの隠れ里に情報を撒いて歩いている同胞がいる。彼らから聞いた」
「『英雄ルーク・フォン・ファブレ』か。お前がそうなのか?」
 口々に語られる話で、少女はルークの正体を悟ったらしい。凍り付いたように動かない表情に、少しだけ驚きの色が混じった。
 ルークは問いかけに反応してまっすぐに少女を見てしまい、慌てて下を向いた。さすがに二度目ともなれば、顔を逸らすことくらいはできるようだ。
 レプリカたちは、みんな非礼すれすれなまでに人を凝視する。他人との距離の取り方をまだ学んでいないせいだ。少女の視線が、まっすぐルークに向いているのがわかり、恥ずかしさと居たたまれなさで顔に血が上って行く。
「レ……っ、レムの塔のことを知ってるなら、おれが大勢のレプリカを殺して自分だけ助かったことも知ってるだろ……。英雄なんかじゃねえよ」
「お前がその場にいながら助かったのは、シンダー……お前の被験者が手を貸したからではないのか」
 少年が、変声期前の澄んだ声で重々しく言った。ルークが『英雄ルーク・フォン・ファブレ』と呼ばれているからそう口にしたのであって、実際にルークが英雄であろうがなかろうが気にしているようすもなければ、レムの塔での出来事を良くも悪くも思っていないという、感情のこもらない声だった。驚いて少年を見やるルークに、柔らかく幼い顔立ちながら、痛々しいほどに表情のない顔が映る。
「三年前に死んだと聞いたが……」少女がもう一度アッシュに視線を移した。「──だが、ちょうどそのくらいの歳の開きがあるように見える。昨日、お前は何か言いかけていたな」
「あ、ああ……。ローレライを解放して……おれは乖離した……はずだったんだ。この間目が覚めた。おれには寝て、起きたって感覚だったんだけど、実際は三年経ってて、おれは当時のまんま、成長してなかったから」
「そうか」
 少女を初め、全員が納得したというように頷いた。なにか感じるところがあるのか、以前から二人を知っていた人を除いてあまり信じてもらえないアッシュとルークの繋がりをあっさりと認めたようだった。
「そうか……って。おれは大勢のレプリカを、」
 ルークは平然と流されたことに抗議の呟きを漏らしたが、レプリカたちは無言のままルークを見つめた。

「勘違いするな。残りのレプリカの保護を条件に、障気を晴らすため死んでくれるよう提案したのは俺だ。実行にも手を貸した。半分は俺が責めを負うべき罪だ。だが実行犯の俺たち以上に、キムラスカ・ランバルディア王国、マルクト帝国、両国の為政者が罪の大部分を負っている」

 遠巻きにしながらも話を聞いていたらしいアッシュが不機嫌そうに腕組みしたまま言った。ルークに向けられた言葉なのだが、実際はレプリカたちに聞かせるためだったのだろう、反駁を許す気のないきつい視線が、レプリカたちを射抜いていた。


(2013.08.26)