【3】


 身体が弱く、屋敷から出られないはずの母が突然現れたことをアッシュがまだ理解出来ずにいる間に、特務師団の兵がルークに事情を説明してくれた。事件の概要を聞いているうち、ルーク以上に蒼白になったシュザンヌが、それでもルークを何かから庇うように前に出る。
「……母上。おれ、大丈夫だから。こっちのほうが想像してたのに近いしな」
 慰めるように、ルークは母の背を優しく叩いた。やはりこの世界はレプリカと被験者が仲良く手を取って暮らすおとぎ話の国なんかじゃないのだ。第七音素を諦めきれないものたちが、非道な真似をするかもしれないというのは、ルークにとってむしろ想定内のことだった。だが戻って来てすぐに会った人々の多くが、レプリカと被験者を区別しなかったせいで、世界がレプリカに優しい場所になったような、そんな勘違いをしかけていた。
「仕事が終わりそうなら夕食を一緒にどうかって、駐屯所に誘いに行ったんだ。レプリカ保護施設にいるはずって言われて、終わってねえならいいやって思ったんだけど、ワインハウスさんからおれならレプリカの気持ちも解せるかもって言われてさ。もしかしたらおれに何か手伝えることがあるのかなと思って来てみたんだ」

 まだ少し狼狽えていたアッシュだったが、ルークの申し出にすぐ気を引き締めて頷いた。「ありがてえ。──もう大丈夫なんだと、生き延びたんだと、彼らを安心させてやってくれ」
 レプリカの命を奪うために売買する、そんな事件の渦中に彼らはいた。いつ自分が「屠殺」される番になるかもわからなかった。その恐怖もさめやらぬ間に、被験者がいかに言葉を尽くしたところで、すぐに彼らを安堵させるのは難しい。だが同じレプリカの言葉なら、案外届くかもしれない。
「わかった」ルークは頷いて、アッシュの脇をするりと通り抜け、部屋の真ん中で胡座をかいた。

「あれはお前の被験者の血縁か? お前によく似ているが」
 レプリカの少年がアッシュとルークに視線を往復させて言った。レプリカ同士は検知器など使わずとも、互いの第七音素をなんとなく感じ取る。挨拶も自己紹介もなく、疑問だけをぶつけてくるところは、刷り込み教育のあと人間と接触していないレプリカの多くに共通した特徴だった。
 アッシュは戸口まで後退し、壁に背を預け、腕を組んで立っていた。話し声が聞こえないほど離れてはいないが、話の邪魔はしないと態度で示したわけだ。
「彼はおれの被験者本人だ。名前はアッシュ。歳がずれてるのは──」
 ルークはくるっと視線を動かしてアッシュを示そうとし、途中で固まった。隅で膝を抱えている黒髪の少女と目があったのだ。ぽかんと口を開け、魂を抜かれたように少女の美貌に魅入ってしまっている。今年の始めにエルドラントで助けたときよりは焼けたとはいえ、まだまだ白く透き通った雪花石膏の肌が、サンドローズの桃色にぽうっと染まった。
「あ──えっと、一年。いや、三年? ずれて、あの、おれとは──や、年上に見えるけど、違くて。……違わねーのか、いや、おれ、何を」

 まあなんて綺麗なお嬢さんなんでしょうと、シュザンヌが室内を覗き込んで感心している傍で、アッシュはため息を付いた。
 レプリカと被験者の好みが似ているのは仕方がない。自分でさえ見蕩れてしまったのだから、女というものにあまり免疫のないルークが瞬きもできないありさまになっているのは仕方のないことなのだろう。俺の顔はルークになんの感銘も与えはしないのに、と少々面白くない気分になるのは惚れていればこそ、だ。
 元々アッシュが最初に好きになったのはルークの顔だった。──いや。同じはずなのに違う、俺はあんな顔をして笑わないとぐずぐず批判の種を探しながら一つとて共通点のない表情にどんどん引き込まれていったのだから、顔というより表情と言うべきかもしれない。その表情を形作る素直な心のありようを快いものだと思い、可愛いと思い始めたころには、容姿の類似などどうでも良くなっていた。
 なんとも悔しいことに、今自分ではないものに見蕩れて間の抜けた顔を晒しているのも、また可愛いと思ってしまう。
 実年齢的にはルークのほうが年上だが、刷り込み教育のせいで黒髪の少女のほうが精神年齢が高く、大人びて見える。ナタリアに引っ張り回されるルークを見ていて三年前も思ったことだが、きっとルークに似合いなのはこういうタイプなのだろう。かつてルークを虐げた、愚かで傲慢な同性の被験者などではなく。もしもルークが父母の望み通りにファブレ家を継ぐことになれば、レプリカである夫を侮らないレプリカの娘が支えることになる可能性もありうる。父母はルークの妻を迎えるにあたって、身分や出自にこだわらないはずだ。

 複雑な想いはあれど、怒りや哀しみは沸かない。
 もうそうそう会うこともないと思っていただけに、むしろ思いがけない喜びに疲れが吹き飛んだ気がした。人の欲望の醜さに当てられ、自覚できるほどささくれていた感情も、すっと和らいでくるのがわかる。
「ところで、母上はなぜケセドニアに? ここは母上のお体によい気候の土地とは思えませんが……」
 ふと、キムラスカに帰ったはずのルークのみならずシュザンヌがいることも思い出し、慌てて問いかけた。シュザンヌはにこにことルークを見ていた表情のまま、アッシュを見上げた。
「ケセドニアだけではないのです。ユリアシティや、ダアトにも行ったのですよ。シェリダンで大きなオルゴールの演奏を聴いたし、そうそう、初めてベルケンドに入って、お父様とご一緒にファブレの領地を見て回ったの」
「無茶を……」
 驚いて目を見張る息子に、シュザンヌは首を振った。「ルークも気にしてくれているのだけど、それがなんともないの。わたくしはただ、あまり健康でないということに甘えていただけなのかもしれません。初めての旅行に、毎日が楽しくて仕方がないのです。ちょっぴりですけど体重も増えて、お父様もルークも大喜び」
 シュザンヌは自慢げに微笑んだあと、ふいに真顔になってまじまじと息子を見つめた。
「母上?」
「あ、いえ。わたくしのお腹の中から出て来たあの小さな赤ちゃんが、こんなに大きくなったのですね。ルークには可哀想なのですけれど……ほら? あの子はそれほど威圧感がないものですから」
 くすくす笑う母に、アッシュも苦笑いを返した。「私がこれだけ伸びたのですから、ルークももう少し伸びるでしょう」
「そうでしょうか? そうだといいんですけれど。あの子、気にしていますものね。ここだけのお話ですが──絶対内緒ですよ? ……少しサバを読んでいるみたいなの。──可哀想に、あの子はわたくしに似てしまったのかもしれません」
「相変わらず食べ物の好き嫌いが激しいようですし、自業自得とも言えます。母上のせいではありませんよ」ルークがこの自分のレプリカだということをもはや忘れ去ってでもいるかのような母の言い草にアッシュは噴き出しそうになるのをなんとか堪え、母を見下ろした。見下ろす──確かに、この小さな女性の腹から己が出て来たことが信じがたい。なんと小さく、弱々しく見えるのだろう。子どものころは、父も、病弱な母でさえ、大きく、万能に見えたものだが。
 だからこそ、心の中で助けを求めている自分に気付いてくれないことに腹を立てたのだ……。

 母上、と呼びかけようとしたとき、小さくアッシュの名を呼ぶ声が聞こえた。見るとルークが部屋を振り返り、小さく手を振っているところだった。
「この中に、互いに親しい人はいないから、そっちの都合で好きなように組み分けしてくれていいってさ。で……一緒に捕まった人の消息を知りたがってる人が何人かいるんだけど」
「わかった。ご苦労さん」
「アッシュはまだ仕事終わんねえんだよな?」
「ああ」
「そっか。しょうがねえよな。明日の夜ならどうだ? 一緒に食える?」
 アッシュは少しだけ考えて頷いた。「なんとかする。で、お前、明日の午前中また少し顔出してくれねえか? お前がいると、彼らが少し落ち着くようだ」
「早朝、市に行くんだ。そのあとでいいなら。いいよな、母上」
「もちろん。お手伝いしてあげて」
「すみません。──ありがとう、ルーク」
 アッシュはルークに軽く頷いてみせ、シュザンヌにはかがみ込んでキスをした。
 それを見たとたん、心臓が一度、大きく跳ねた。
 けれどもアッシュは、そのまま母をエスコートするように動き出す。正面玄関まで送ってくれる気でいるのだろう。
 ルークにはキスがなかったことが、ほんの少し引っかかった。まだアッシュの気持ちを受け入れると決めたわけじゃないのに、こんな風に思うのは間違っているのだろうか。だけど男の兄弟間だって、頬をくっつけたり、キスの真似事くらいはするんじゃないかな……。
 だが、アッシュがルークとしたいのは、家族みたいなキスじゃない。この場で、そういうキスをしないのは正しい。
 ルークがアッシュとしたいのも、家族みたいなキスじゃない。……多分。ずっとアッシュには憎まれていると思っていたから、そういうのも悪くないと思うけれども。

 ルークは一瞬だけ目を閉じて、軽く頭を振った。
 同じレプリカの仲間たちが惨い目に遭い、今なお落ち着かない気分で座り込んでいるというのに、こんな時になんて浮ついたことを考えているんだろう。ルークにとってはアッシュに好きだと言われたことも、特別な人とするキスをしたことも、また剣術のため──自分自身の身勝手な希望のために、再びアッシュの居場所を荒らそうとしていることも、それに伴ってうちにいて欲しいと望んでいる父母の気持ちを挫いたこと、なにもかもが一大事なのだが、命を脅かされることに比べればくだらない悩みだ。

 母に腕を取られて歩いて行くアッシュの背中を、ルークはじっと見つめた。改めて見ると、肩幅が広くて、とても大きい。かといって筋肉の塊というわけでもない。余計なものをすべて削ぎ落とし、研ぎ澄ました、戦うための身体。小さな母が横に並んでいるからかもしれないが、顔と同じくその背にも少年の名残はみじんもなく、大きく、頼もしい、大人の男の背中に見える。あの夜、酔っぱらったルークを危なげなく背負ってくれた。大きくて、温かくて……優しかった。
 秘預言のキーマンとして、また神託の盾の士官として、ただでさえいろんなものを背負い続けてきただろうその背に、更にルークを背負ってくれなんて、本当に言っていいものかと、ルークは未だ悩んでいた。ルークにはまだ、アッシュが抱え込んでいるものを分かち合う力がないのに。
 でも、それでも──。 

 ホテルの最上階にあるレストランは、シュザンヌのみならずルークも初めての利用だった。デザートが凝っているという話を聞いていたが、どの料理もあまりにおいしくて、母と二人レストラン自慢のデザートを今からわくわくと想像し、あれこれと話し合うのが楽しかった。
「アッシュはいつでも来られてうらやましいわ」
「アッシュ? ──うーん、アッシュはこういうとこで食事したりしないような気がするな」
「まあ。なぜですか?」
「あいつ、こういう気取った……違う、格式張ったところは苦手なような気がする。レムデーカンに戻って来たとき連れてってくれたところ、すっげーおいしかったけど、こういうとこと全然違うんだ。手づかみで食うんだよ」
 日に焼けた手首を伝う油。それを舐めとる仕草を思い出す。
「まあ。手づかみで……」
「あ、でも! それが普通の店なんだ。カトラリーもナイフ、フォーク、スプーンが一種類ずつ付いてくるくらい。下町の人たちが行くようなとこで、料理も一皿に山盛り乗ってくる。賑やかでさ、飲んで騒いで大合唱! アッシュはワインを飲まないんだ。でもビールを水みたいにぐいぐい飲む。……すごく気に入ってて、ケセドニアにいるときは頻繁に食ってたって……」
 公爵家の子息がそんなところに出入りしているなんて、母には快い話じゃない。
 気付いて、語尾が力なく消えて行った。
 だが恐る恐る母を窺うと、確かにシュザンヌは戸惑ったような顔をしてはいたものの、恐れたように嫌悪感を浮かべてはいなかった。
「あの子が家を出て、もう十年も経つのですもの。あの子を取り巻く環境も、わたくしが知っているものとは違っていることは承知しているつもりですよ。……それでも、今日は驚いてしまいましたけど。あの子は声を荒げたことなど一度もなかったの。あの子が、あんな風に怒鳴ることができるなんて」
「や──やっぱショックだよな……」
「それはそうですけれど」シュザンヌはルークを落ち着かせるような笑顔を向けた。「でも多分、あなたの想像しているようなショックとは違うと思いますよ」
「……そっか。あのさ……おれもアニスからの又聞きなんだけどさ。アニスが聞いた話じゃ、アッシュはもともとあんな話し方じゃなかったらしいんだ。もっと丁寧で理屈っぽくて……想像つかねーけど」初めて会ったころのアッシュに、どれほど口汚く罵られたか、ルークは思い出して苦笑した。
「とても大人びた口を聞く子でした。子どもなのに、感情のままに発言するということのない子で」
「今と全然逆だな! あいつ、母上の前では猫被ってる」ルークは笑ったが、今度の笑みもやはり苦いものを含んではいた。今のアッシュが本人が言うよう自然体なのだとしたら、子どものころのアッシュは常に自分の立場を心得、それらしく演出していたということになる。
「神託の盾騎士団には、キムラスカやマルクトの軍と違って貴族がいない。そりゃ、アッシュみたいになんらかの事情があって紛れ込んでる奴もいるかもしれないけど、大抵は貧しい人たちが食いっぱぐれないように入るんだよ。そういうところは単純に力がある人が一番なんだ。強いというのはもちろん基本だけど、武力があればいいってもんでもない」
 シュザンヌが得たりと頷いた。「侮ら、いえ、『舐められては負け』ということですね」
「えええー母上。その通りだけど、なんでそんな乱暴な言葉知ってんの」
「小説に書いてありますよ」
 意外に面白そうなものを読んでいる、とルークは興味を引かれたが、とりあえずは話を続けることにする。「でさ、アッシュは子どものころから年齢にそぐわない地位にいたもんで、最初は……なんてーの、その。ヴァン師匠のお稚児さんって噂も立ったらしいんだよな」
「……今、なんと?」
「噂だぜ?! 庇うわけじゃねーけど、ヴァン師匠は……実力主義だから。アッシュに要求をこなせる能力がなければ、仕事を任せたりなんかしないでどっかでぼんやりさせといたと思う。いや、ほんと、まじで」
 顔色を変えた母に、ルークは必死で両手を振った。「アッシュはさ、お坊ちゃんとかお稚児さんとか、そういう噂を払拭するために言葉遣いを荒くれ仕様に変えたんだと思う。──舐められねえように。でも今はそれが地になっちまってんだな。ほんとすげーもん。おれも……大概人のこと言えねーけど」
 バツが悪そうに付け加えられた一言に、シュザンヌは表情を和らげて苦笑した。
「貴族らしくはないのでしょうけど、わたくしはあなたが元気一杯の普通の男の子のように感じられて嬉しかったのですよ。一度も叱ったことがないでしょう?」
「う、うん……。ラムダスには叱られっぱなしだったけど」ルークは嬉しさにうずうずする口元を引き締めて頷いた。
「でも、そうですか……。苦労、と言ったら叱られるでしょうか、あの子も色々考えて生きてきたのですね。どんな生活をしていたのか、傍で見守ることができなかったことが悔やまれます」
「あーあのさ。それなら、アッシュの部屋見てみねえ? ずっと生活してたダアトの部屋じゃないけど……。おれ、あの部屋、アッシュの性格がすごく出てると思うんだ。なんていうか……ほっとする? あの部屋見たら、母上も今よりもっと安心できるんじゃないかな……」
 どんな生活をしているのか、どんな精神状態なのか、それを知るには部屋を見るのが一番とルークが提案すると、少しばかり影が差していたシュザンヌの瞳が、きらっと輝いた。


(2013.08.19)