【2】
ようやく日が傾き始めた午後六時。
とあるマルクト船籍の商船に詰め寄せていた神託の盾第四師団の兵も、今はほとんどが引き上げていた。哨戒に立つ兵の間を、あれこれと指示を出しながら走り回る人影も、ずいぶんまばらになってきている。だがその誰もが、非常に不機嫌で、せかせかと歩き、物騒な殺気を放つ。
それもそのはず、彼らは誰もが屋内に引きこもり、少しでも涼しい日陰で昼寝をしているあいだ、気力と体力と汗を絞りながら逃れようとするものを捕らえ、大きな船の中を隅々まで調べて回っていたのだ。その暴力的なまでの暑さのせいか、双方共に予想以上の死傷者を出し、決して少なくない数の敵を取り逃してしまった。
兵たちはさらに苛立ち、抵抗したものへの扱いは苛烈を極め、投降者への扱いも普段より三割増乱暴で陰険になりがちだった。だがきっちりと着込んだ法衣に白く塩を浮かせた第四師団師団長、特務師団師団長の両名は咎める気もないようで、暑さと暴力に倦んだ目を向けることさえしなかった。
先日、半年以上ものあいだレプリカ売買の下部組織に潜入していた特務師団の一名が、とうとうその母体とも言える組織の本拠地がグランコクマにあり、商品であるレプリカたちを乗せた船がケセドニアに向かっていることを突き止めたのだ。船がケセドニアに入港し、荷が降ろされる時機を見計らって、ケセドニアでは駐留中の神託の盾騎士団から一個大隊が、グランコクマではマルクト軍がほぼ同時に突入を果たした。
──その時間が、ケセドニアでは午後十二時半という最悪の時間帯であり、午前中から船の到着を待ってひっそりと待機し続けた兵たちの気力体力を奪い尽くした。神託の盾の隙を突くためにわざとその時間に入港したのだという事実が、彼らの怒りに油を注ぐ結果になったのだ。
「お疲れさん。七ヶ月間良く耐えたな、マティアス “奏手” 」
アッシュは正面に直立不動する部下を労い、その物問いたげな顔を見つめた。服装は派手で品がなく、真新しい服にぴしりと身を包んでいるのにどこか不潔なだらしなさが漂う。肌は荒れた生活で乾き、白目の部分は飲酒、あるいはなにがしかの薬物のせいか、うっすらと黄ばんでいる。レプリカを人とも思わず虐げてきた一味の男たちと、どこといって変わったようすはない。
だがまっすぐにアッシュを見つめる表情は静謐で、どこかほっと弛緩しているようにも見えた。「一階級昇進だそうだ。おめでとう」
「ありがとうございます、閣下」マティアスの表情がわずかに綻んだ。
「痩せたな」
ほんの少しです、と答えるマティアスにアッシュは頷いた。「お前の努力に完璧に報いることができず、すまない。助けられなかったものが大勢いる。船底から、かなり濃い第七音素が検出された」
「おおよそ何人分かはわかるのですから、証拠を消すことにはならないのに……」マティアスは悔しげに唇を噛んだ。「でも、助かったものもいるんですね。良かった。こっちのレプリカは、下手すれば全滅もありうると覚悟していたので」
「十名くらいは無事だと聞いている」
「そんなに? ……それは私が思っていたより多いです」マティアスの頬に少しだけ赤みが差す。「良かった……」
レプリカを鹿や猪を狩るように狩り、資源に変える。そういう輩は捕らえても捕らえても雲霞のようにあちこちから湧いてきた。
資源とは、レプリカそのもののことだ。何がしかの労働に奴隷として従事させよう、などというものはまだましなほうで、多くの場合、彼らは希少な第七音素の詰まったただの皮袋と見なされていた。
今後増えることのない第七音素の使用は、各国家において厳重に管理されている。私用での利用は認められていない。どれだけ身分が高く、大金持ちだとしてもだ。キムラスカ国王、マルクト皇帝とて、それは例外ではない。
だが、金の使い道に困っているものたちの中には、時代が変わりつつあることを受け入れることができないものも少なくなかった──例えば、ほんのちょっぴり生活を快適にするために、こっそりと預言を詠んでもらうとか。あるいは多くの犯罪者が仕事中に負った傷を未だ第七音譜術士に手当てさせている、とか。
文字通りの資源──減少の一途をたどる第七音素補給のため、彼らは人間どころか家畜の扱いすらされずに殺されていくのだ。
レプリカは被験者同様全員きちんと登録され、戸籍と住まいを用意されているのだが、それはあくまで保護されたものに関してのみ。未だに人を信じることができず、山野に隠れ住んで共同体を作り上げ、独自の社会を築いて生きるものも多い。『密猟者』が狩るのは、そういうレプリカだ。
マティアスは七ヶ月前から件の組織に潜入し、時にレプリカの隠れ里を襲って彼らを攫い、時に貴族の奥方のために彼らの殺害を行って来た。預言を知りたい理由は、夫に気付かれずに愛人との逢瀬を楽しむためだったり、夜会で一番目立つドレスを選ぶためだった。
心を殺し、冷酷に命令に従いながら、脳に彼らの人数、容姿、通名を刻み込み、次第に信頼を勝ち得て首謀者、本拠地、組織の構成人数、協力者を探り出したのだ。
「レプリカたちの間にも、レプリカ狩りの噂は届いています。隠れ里は次第に巧妙なものになっているので、やつらも簡単には探し出せなくなってきていますが、それでも私が知っているだけで四十名以上殺された。実際の被害者はそれより多いはずです」
「だが予測していたよりゃ少ねえんだよ。お前のお陰で、今後の被害は激減するだろう。賢明にも狩られるよりましだと保護を願って来た共同体も出てきた。ああいう犯罪組織は執拗で狡猾だ。逃げ隠れしても、一度においを嗅ぎ付けたらどこまでもつきまとってきやがる」
マティアスが深く頷いた。「素人では逃げ切るのは難しいですね。ましてや、世間知らずのレプリカたちなら」
「未登録のレプリカが手に入り難くなれば、いずれはすでに保護を得ているレプリカにも手を伸ばしてきたんだろうがな。今回最大手の売買組織が潰せたのはレプリカたちとの関係上大きなプラスだ。大手柄だぞ」
アッシュは船の中から数珠つなぎに縛られた一団がぞろぞろと降りてくるのを、目をすがめて見やった。第四師団が引き上げにかかるまで、船室に縛られたまま突っ込まれていた彼らのほとんどは意識も朦朧としたようすだ。だがのろのろしようものなら、疲れに苛立った兵が憤りをぶつけるように容赦なく蹴り飛ばしている。
「あのようすでは、取り調べまでにさらに死人が増えそうですね」
「こっちにいるのは、下っ端の実行犯ばかりだろ。拷問にかけたところで、どうせなにも聞き出せやしねえ。上のもんだけ残しといてくれりゃいい。──ほとんどはグランコクマだろうがな。そっちはマルクトに任せるさ」
疲れた目を擦りながら力なく呟く上司に、マティアスが呆れたのか同意したのか、肩を竦めた。
「そういえば、ラスムス・ランツの姿を何度か見ました。雇われ『密猟者』の一人でしたが、実際に隠れ里を見つけ出してきたのはほとんど奴でしょう。重宝はされていましたが下っ端扱いでしたので、奴らには正体を隠していたのかもしれません。この船に乗っていた一味で大物と言えるのは正直奴くらいですが、入港前から姿が見えなくなりました」
「ランツ?」アッシュはがりがりと後頭部を掻いてため息をついた。「久しぶりに名を聞いたが──あの寄生虫! 被害が増えたのは奴のせいなんじゃねえか」
「レプリカに関してはまず間違いなく。突入時の抵抗に関しては、閣下がケセドニアに駐在しておられるのを知っているかいないかで答えは変わりましょう。知らなかったとしてもそろそろ気付いているでしょうが。残念ながら、すでに逃走しているものと思われます」
「逃げ足は早えからな」
周辺に潜んでいるはずもなかったが、アッシュは鋭い目で周囲を見回した。互いに似たような生業で生きてきたものであり、そのため手を読みやすくもあるが、捕縛するにはやっかいな相手だ。マティアスの言う通り、神託の盾が突入するまでぼんやり船に居残っていたというのは考えがたい。
「今回は奴の宿主を潰せたわけだが……。また同じような仕事に手をつけられると少々厄介だな。早急にマルクトに連絡しておこう。……なにかやらかすなら、できるだけケセドニアは避けてもらいてえんだが……」
ずっと追って来た事件が今回一応の解決を見せたわけだが、ケセドニアでは特異な事件が多いこともあり、アッシュの赴任が一時的なものではなく長期になるかもしれないという話も出てきていた。だからこそできるだけ面倒ごとは避けたいのだ。
「ランツとは何度かやりあったと聞いています。好敵手、というとご不快でしょうが、奴にしても閣下は面倒な敵でしょう。ここでは事件を起こすこともないと思いますね」
マティアスが苦笑一つ残して退去したあとで、アッシュは右往左往している兵たちの間を縫って、レプリカの保護施設へと向かった。ここはあくまで一時的な保護を行う施設だが、彼らの健康状態を調べてくれる専門の医者はいるし、フェレス島に残されていた被験者の遺伝子記録と照合して、99パーセント以上と言う極めて高い確率で被験者を割り出すこともできる。通常のレプリカは被験者と同じ音素振動数ではないし、遺伝子も双子のように同じではないので百パーセントとはいえないのだが、その確率ならほぼ間違いはないはずだ。
とりあえず彼らはそこで検査を受け、治療の必要のあるものは手当てや栄養剤の点滴も受けたうえ、食べ物を与えられて身を休めていた。船の捜索や逮捕は、現在第六師団と交代でケセドニアに駐屯している第四師団の仕事だったが、特務師団の仕事はこれからもまだある。本格的な事情聴取は明日以降になるだろうが、今日のうちに聞き取り調査しておかなければならないこともあった。
朝、マティアスからの第一報が届いて以来、アッシュはまともに食事をとる間もなく、極暑の中を走り回ってくたくただった。だが、彼らがそれぞれ身を休める場所へ収容されるのを見届けるまでは宿舎に引き上げることもできない。
軽いノックのあと扉を開けると、そこにいたレプリカたちが一斉に虚ろな視線を向けてくる。疲れ、絶望しているからなのか、あるいは刷り込みが行われたレプリカの多くがそうであるようにただ感情の揺らぎがないだけなのか判別がつかないまま、アッシュは彼らを見回した。
その視線が、一人の少女の上で止まった。
外見年齢は十六、七といったところか。ゆるやかに波打った漆黒の髪は、淡い翠の光沢を持って輝いている。まっすぐに射抜く大きな瞳は凍えそうなほど冷たいアイスブルー。薄汚れてはいても、その肌が陶器のように真っ白でなめらかなのがわかる。化粧をしているわけでもないのに赤い唇は、なにかを誘うようにふっくらと艶やかだ。
──息を飲むほど美しい少女だった。
アッシュにはすでに想う人がいる。その想いには単純な恋慕や情欲だけではないさまざまな不純物もこびりついていて、もはや前進も後退もできないほど強くがんじがらめに彼を縛っている。だからそういう意味で心を動かされることはなかったが、それでも感嘆の吐息を止めることはできなかった。
呼吸も忘れてしばらく見入ったあと、非常に苦労して少女から視線を剥がした。おとなしくベッドに横たわっているものはおらず、全員が壁際や四隅で膝を抱えている。報告通り十人にも満たない数ではあったが、それでも生きていてくれたことにどこか救われた思いがする。
「疲れさせてすまない。調べが済めば各人の希望に添って住まいや仕事なんかを見つけることになるだろうが、とりあえず落ち着いて休める部屋を用意した。全員一緒とはいかねえが、仲の良いものはできるだけ同じところになるよう善処するから、希望があれば今申し出てもらいたい」
戦いの場で指揮を取るのに慣れた声は、特に張り上げずとも部屋中に聞こえたはずだが、彼らは全員少しずつ互いから距離を取ってうずくまったまま、無言でアッシュを見つめ返す。
「アッシュ師団長」
双方が互いの出方を窺っているところで、控えめなノックと呼びかけがかけられた。
「なんだ」
「閣下にお客さまが見えてます」
「客……?」
アッシュは眉を寄せ、入ってきた兵に唸った。神託の盾の駐屯所は、別に役所のように解放時間が決まっているわけではない。それこそ面倒ごとの持ち込みは756日朝から晩まで行われる。が、駐屯所にいないアッシュをわざわざ探して客が個人的に訪ねてくるとなると、どうあってもこの件に関する面倒ごととしか思えない。
ますます食事からもシャワーからも遠ざかると、アッシュはため息をついた。
「すぐに行く。どっか適当なところで待っていただけ」
「しかし閣下」
レプリカたちに視線をやったまま答えると、兵は戸惑ったように身じろぎし、背後を窺う気配を見せた。
せっかちな客らしいと、舌打ちした。今日の事件のことで、ケセドニアの有力者がなにか言って来たのかもしれない。ケセドニア最大の有力者アスターがレプリカ保護に力を入れているため、表立ってレプリカ差別を唱うのは良識のあるもののすることではないという風潮があるが、富裕層になればなるほどなぜか根深い差別意識があるものだ。
「俺はまだ仕事中で手が放せんと言え」
「え……と、でも、良ければ協力を」
「待たせとけと言ってんだ!! 復唱どうした?! ちゃんと耳くそほじってやがるのか?!」
八割はこんなところまでのこのこ入り込んで来たのだろう客に聞かせるための怒号だった。
「あ……っと、ごめん。やっぱまずかったんだな。じゃ、また出直すよ」
よく似ていながら、少しだけ高く、それでいて柔らかく通る声に、アッシュのみならず、兵もそちらに目を向けた。視界の端にレプリカたちがそろって顔を上げたのが映る。
「ルー……っ?!」
「耳のお掃除はしているつもりなんですけれども……」
まんまるに目を見開いて、呆然と呟くシュザンヌの隣で、ルークが頭痛を堪えるように額を押さえていた。