【1】


 どこの店先から転がり落ちたものか、ひからびて縮んだ水瓜が、カラカラと音を立てながら通りを横切っていった。

「スイカだ。多分店先から落ちたのが気付かれずにああなったんだな。砂漠でも、自生しているものがよくあんなふうに転がってるんだ」
 思わず、という態で足を止めた母に、ルークは苦笑して説明した。
 知らなければちょっとどきっとしてしまう不気味な光景だ。ルークは砂丘を転がってゆく水瓜の中に、同じようにひからびた本物の人の頭が一つだけ混じっているのを実際に見たことがある。今通りを転がっていった水瓜は、ルークにそれを強く思い出させた。

 それは悲惨で、薄気味が悪く、少しばかり滑稽な光景でもあった。
 砂漠のどこかで乾き死にした死体からもげたのだろうと呟いたのは、たまたま立ち寄ったオアシスで、たまたま出会ったアッシュだった。イオンが逝ってしまった、すぐあとのころのことだったと思う。あのときルークはもちろん気付いてなどいなかったが、ルークのことを好きだとアッシュが自覚したという時分からは、だいぶあとのことだ。
 瓜と一緒に転がってゆく、かつて人だったものの一部を見て、すでに死を覚悟していたアッシュは何を思ったのだろう。聞くなり、砂を蹴散らして駆け寄って、もつれたかさかさの髪が絡んだ軽い頭部を拾い上げ、ぽっかりと虚ろに空いた眼窩に怯えながらルークがそれをふわふわのタオルで包むのを、アッシュはじっと見ていた。どうするつもりだと問われ、オアシスの傍に埋めるのだと答えた。ルークには、その頭部が男のものか女のものかすらわからない。だがそこなら、もしかしたら死者の縁者が通りかかることもあるかもしれない。いつか砕けて砂になるまで砂漠を転がり続けるよりも、死者が慰められるかもしれない……。
 あのとき、アッシュがなんと返したか、どんな顔をしていたか、ルークはまるで憶えていない。あるいは、見てすらいなかったのかも。良い考えですわとナタリアが賛同してくれたことも、ティアが笑顔で頷いてくれたことも、まるで昨日のことのように思い出せるのに。
 おれを認めて欲しいと切望しながら、自分自身はどれだけアッシュを見ていなかったのだろう。今、ことあるごとにアッシュを関連づけて思い出してしまうのは、その罪悪感を払拭するための本能ででもあるのだろうか。

「まあ。店先から……」
 ルークに手を引かれて歩きながら、シュザンヌが日干し煉瓦の壁と閉ざされた扉、人通りのない通りを戸惑ったように見回す気配がした。侍女は不気味に思ってでもいるのか、少しへっぴり腰になっている。主従二人とも目の部分だけが薄布になった日よけの黒いマントをすっぽりかぶっていたが、一体どこに店があるのだろうと疑問に思っていることは容易にわかった。バチカルでも下層の下町へ行けば、簡単に折り畳みできるテントの下にさまざまな物売りが店を開いているものだが、もしもシュザンヌが自ら店に赴いて何かを選ぶ機会があったとしたら、それは上層で贅沢な店舗を構える貴族階級相手の一流店以外にあるはずがなく、店のようすが想像できないでいるのだろう。
「この通りには普段、港から運ばれた魚や果物や野菜、香辛料といった食料品や、キムラスカ、マルクト、両国から入ってきたいろんな品の市が立ってるんだ。こう、左右にだーっと、あの辺りまで」
 ルークは手振りで市の終わりの建物を示したが、実際に屋台の出ていない今、境界ははっきり見ることができず、シュザンヌも曖昧に頷いただけだった。

 今日、ケセドニアでは何か事件があったようで、ルークたちの乗った船は、入港許可が出るまで数時間を沖に停泊して待たねばならなかった。夏期のケセドニアに、午後入港する船など本来はない。午前中にホテルに入っている予定だったのに、こんな時間にうろつくはめになっているのはそんなわけだった。
 港にほど近い宿は立って湯を浴びる小さな浴室が付いているだけの安宿が多い。ルーク一人ならそこで十分だが、今は母と、母の侍女ハイディがいるため、選んだのはマルクト側にあるケセドニアで最も格式の高いホテルだ。設備も良く、街の中心地の側で観光や買い物には便利だが、港からは多少ある。値も張るせいで同じ船の乗客に利用者はいないらしく、通りを歩くのはルークたち三人きりだった。本当なら母の体調を考えて馬車を利用したいところだが、この時間に営業しているはずもない。
 母の身体に負担をかけずにホテルへいくため、何か出来ることはないかと周囲を見回しても、視界には野良犬の一匹すら映らない。
 ほかに動くものといえば、乾燥しきった通りにたまに舞い上がる砂埃くらいのもの。世界で最も活気のある都市と言われるケセドニアは、今やまるで人の死に絶えた廃墟のようだ。
 華氏百二十度を越えた午後三時、ケセドニアの通りからはおよそ人影と言うものが消え失せていた。

「イフリートデーカンに入ると、この時間はみんな店仕舞いするんだ。役所や学校も午前中しかやってない。領事館も、キムラスカじゃなくここのやり方に合わせてる。店は夕方気温が落ち着いたらまた営業するとこもあるけど、生鮮品の店はこのまま閉めるところも多いから、市を見るなら早朝だ。果物や野菜や……織物やガラス瓶、宝飾品に武器や防具、色が溢れて、すげー綺麗なんだ。バチカルとは全然違う光景になるよ」
 あの活気と熱気、市井の人々のたくましさを目の当たりにして、母はどんな反応をするだろうとルークはケセドニアの市の様子を思い浮かべた。
「ノームリデーカンの終わりまでは、早朝と、日が落ちてからが生活時間みたいなもんなんだ。冬期の夜は三二度以下氷点下になることもざらだけど、今は夏だし、六八度を下ることはまずないしな。その時間帯はキムラスカの夏より過ごしやすいと思う」
「ルークのおすすめなのですね。それはぜひ見てみたいわ。明日は早起きしましょうか」
 マントを被ったシュザンヌの頭が、まるでその光景を見ているかのように動いた。きっと、この廃墟のような街がどのように変わるのか、想像してわくわくしているのだろう。
 きっと、想像以上のものを見せることが出来ると確信して、ルークは口元を綻ばせた。
 早くホテルで休ませたいと焦る気持ちがないではないが、こんなことにでもならなければ、母がその落差を目にする機会もなかっただろう。ルークは馬車に乗ってもらう気でいたのだから。母は旅に出てから一度も発作を起こさないし、ほんのちょっぴりふくよかになったようにすら見える。意外に元気そうなのだが、むろん油断する気はない。

 ケセドニアに戻るというルークに、シュザンヌが付き添うと言い出したときには、ルークのみならずクリムゾンも仰天したし、反対もした。
 世界を股にかけて飛び回った自分に保護者が付くなど、当初は少し煩わしく感じ、反対するクリムゾンに同調してこれから夏期に入るケセドニアの恐ろしさを話し、控えめに反対意見を述べてもみたものだが、三年もの間離ればなれになっていた息子──戸籍上では孫だが──ともう少し一緒にいたいという気持ちのほか、おそらくはもうこの家に帰ってくる気のないアッシュに、それならばこちらから会いに行こうという必死な気持ちが透けて見え、最終的にクリムゾンが折れると、ルークにはもう否やを言う権利がなかった。
 だが、気が重い、と思っていたのも、バチカル港までの短い間のことだった。
 これまでシュザンヌはキムラスカどころかバチカルから──それも貴族階級の住む最上階から出たことがなかったのだ。上品に澄ましている風を装ってはいるが、母が昇降機に興奮していることはすぐにわかった。下層について町中を通り抜けながら、香ばしい匂いを撒いている揚げパンの屋台に並ぶ人々を、どこか羨望を込めた目で見つめるシュザンヌに、ルークははっとした。
 シュザンヌはルークと理由は違えど、狭い世界に閉じ込められてきたということでは全く同じ立場なのだった。ルークが永遠だと感じた七年などより、もっとずっと長い間、シュザンヌが見上げたのもルークと同じく切り取られた四角い空だ。
 それまでアッシュに早く会わねばと気が急いていたルークだったが、その瞬間、この旅の目的が一つ追加された。母にできるだけたくさんのものを見せ、楽しませたい、と。
 そこからは観光と食べ歩きの日々だ。ケセドニア直通の船をキャンセルし、ベルケンド、シェリダン、ダアト、ユリアシティと大きな遠回りをし、ようやくのケセドニア入りだ。ベルケンドでは最後の数日、遅れて領地入りしたクリムゾンと共に、シュザンヌは生まれて初めて夫の領地を見て回ったのだ。クリムゾンはケセドニアに向かったはずの妻子が領地の城に滞在していることにのけぞるほど驚愕したが、思いのほか妻が元気で活き活きしていることに気付いて息子の勝手な思いつきに文句を付けなかった。
 今は息子が二人揃った喜びで、実際の体力以上のものが母を突き動かしているとルークは思う。だが、シュザンヌの身体のことを思えば、バチカルを出て旅をするのは、母にとってこれが最初で最後になってしまう可能性もあり得た。だとすれば、気力の満ちている今、母に最高の旅の思い出を作ってあげたかった。

「同じオールドラントの大地で、これほど気候の差があるなんて……。本を読んで知ってはいましたが、聞くと見るとでは大違い」
「まだイフリートデーカンに入ったばっかだし、本格的な夏はまだまだこれからなんだよ。でも前の──えー、三年前? 前の今ごろはここまで暑いと思わなかったんだけどな……。母上、頭痛や眩暈がしませんか? 気持ちが悪いとか」
「今のところなんともありませんよ。とても暑いですけれど……。ルーク、こんなマントを着ているから余計に暑いのではありませんか?」
 いかにも暑そうにマントの裾をばさばさとしてみせる母の子どもっぽさに、ルークは声を上げて笑った。上流の婦人が見たら眉を顰めるかもしれない仕草だが、育ちの良い母がやるとそんな仕草も品が良く、なんとも可愛らしい。
「この日差しでは、マントで肌を覆ってないとおれたちは火傷してしまうんだ。ケセドニアの人たちはもともと肌の色が濃いからおれたちほど弱くはないようだけど、それでもこの時期には肌を全部覆うよ」
「まああ……。お日さまの光で火傷をするのですか?」
「そうだよ」
 ルークも薄布越しに空を仰いだ。
 雲一つなく晴れ渡り、遮る物もなく、直射日光が強烈な槍となって降り注ぐ。ケセドニアは一年で最も暑い時期に入ったところだが、本来なら多少なりと涼しく感じる日陰でさえ百度を超えていると思われる今日のこの暑さは、夏期に入ったばかりにしては異常と言って良かった。暑いと言うより熱いため、この時間に屋外で働くのは文字通り命がけだった。そのため、この時期は午後五時ごろまで屋内に引きこもって身を横たえ、できるだけ動かずに暑さをやりすごすのが普通だった。夏期には場合によって一日で数キロ体重が落ちることもあり、あまり精力的に動くのは、下手をすれば命に関わるのだ。

 だが、何事にも例外と言うものがある。
 人通りが絶え、監視の目がなくなるこの時期、この時間。人々は暑さに倦んで注意力がなくなり、動きも緩慢になる。悪事を働くものにとっては、これ以上ない好条件が揃う格好の仕事日和だ。
 そしてまた、そういった不心得者を取り締まる側にとってものんびりと昼寝の時間をとることは不可能なのだった。


(2013.08.07)