「それも答えてやれねえな」立ち上がり、足にくっついた草を払いながらアッシュが言った。「取り敢えず、眼鏡に診せてみねえと。俺たちには大爆発の問題もまだ残ってるかも知れねえんだし」
つられてルークも立ち上がろうとしたのだが、まるで生まれたばかりの子鹿かなにかのように上手く立ち上がることができず、両手でバランスを取りながらふらふらしているルークの体を、見かねたアッシュが支えてくれる。
「いつまでもこんなとこにいられねえ。もう昼を回って随分経った。とりあえず日が落ちる前にここを離れるぞ」
「どうやって?」
「小舟がある。少し歩くが、肩くらい貸してやる。ここは真水がねえんだ。対岸に渡ってからケセドニアに行く。そこからなら船に乗れんだろ」
「船? どこに行くんだ?」
「屑が。……屋敷に帰るに決まってんだろうが」
「ああ……そっか」
ルークの腕を自分の肩に回しながら、アッシュは呆れたような視線を寄こした。
「他に行きたい所があるにせよ、まずは父上と母上に挨拶をして、ベルケンドで検査を受けてからだ。それから許可を貰え。……母上がすぐに放してくれるかどうかは分からねえが」
「う、うん」
「……お前は、お二人を見くびっている。父上や母上がどれだけお前の帰りを待っているか、お前は知らねえ。──変な遠慮なんてするな」
内心どきりとしたルークだった。
戻る気がなかったから、戻ってはいけないと、あそこはアッシュの居場所だと、そう思っていたから。これから自分が何処へ行きどう生きればいいのか、その中の選択肢に「うちに帰る」が無かったことに、今更のように気が付いたからだった。
それがアッシュの本心なのかどうかルークには量りかねたが、だが他ならぬアッシュのその気遣いはひどく優しく、ルークの耳に届いた。そうだ、仲間たちだけじゃない、ルークはシュザンヌとも必ず帰るという約束をしていたのだった。
シュザンヌだけではない。最後に屋敷に帰ったとき、涙を堪えて充血した目のクリムゾンが「必ず兄弟二人で戻れ」といい、抱いてくれた。クリムゾンに抱きしめられたのはそれが最初で最後だったが、もしかしたら最後ではないのかも知れなかった。二人とも、ルークを二人目の息子だと、愛していると言ってくれた。初めからずっとそうだったのに、馬鹿なルークは気付かなかった。別れを覚悟するまで、ずっと。
思い出すと溢れかえるように慕わしさがこみ上げ、会いたくて矢も盾もたまらず、ふらふらしていた足にも力がこもった。それを受けて、支える腕をルークの腰に回し、アッシュも足並みを揃えて歩き出す。
「背、伸びたんだな、アッシュ。ガイとおんなじくらいか?」
「7ミリ届かなかった」
そのくらいなら同じくらいと言えようが、ささやかな差をセコく気にして悔しさを感じている様子がとてもアッシュらしくて、おかしみが湧いてくる。
「でも安心した! おれもこれからそんぐらい伸びるってことだもんなっ!」
「……とも限らねえぜ?」
「なんでだよ?!」
「ミルク嫌いだろ。魚も食わねえと聞いたが」
「ぐっ…」
弱っていると思われた体は、動くにつれ使い方を思い出したように滑らかに動くようになった。雑草に覆われた瓦礫の斜面を降りるころにはアッシュの手を借りなくとも一人で動けるようになっていたので、ここまでアッシュが乗って来た小さな船も一緒に漕ごうと申し出たのだが、櫂が二本しかないことを理由に断られてしまった。ここは素直に甘えて客に徹することにする。アッシュの向かいに膝を抱えて座り込み、自分のものらしくない黒いシャツの袖口に入った細かい刺繍なんかをぼんやり眺めていた。
「会いたいな、父上と母上に。今すげえ会いたい。お変わりないか」
「……最後に会った時にはお元気そうだったが。俺もそうしょっちゅうは屋敷に戻れねえ立場だ。何かあったって知らせもねえから、変わりはねえんだろ」
「そっか」
公爵もほとんど屋敷にいる暇もないほど忙しい人だった。跡継ぎのアッシュも同様なのだろう。
「みんなは元気かな」
「……アニス・タトリンがうぜえくらい元気なのだけは確かだ」
「プッ」
ぎゅっと寄せられた眉に、旅の間の数少ない遭遇で、アッシュがアニスに好き放題弄られていたことを思い出す。吹いてしまった。
「アニスに会ったのか?」
「…………ああ」
「みんなに会いたいな」
「ケセドニアに着いたらバチカルに鳩を飛ばしてやりゃあいい。ナタリアが知らせるだろ」
「……ハト……」
鳩を飛ばす。その台詞にルークは弾かれたようにアッシュの顔を見た。何故気付かなかったのだろう? あまりにもアッシュが自然に側にいたせいで、ルークは一番基本的な質問をしていなかったことに、今更のように気が付いたのだった。
「俺が還って来たこと、まだ誰も知らねえの? もしかしてアッシュ、お前おれを迎えに来てくれたのか?」
背後を振り返って進路を確認していたアッシュが、ルークに向き直って胡乱げに片眉をあげる。
「あたりまえだろうが。あんなところに一人でひなたぼっこしに来るほど俺は疲れて見えんのか?」
「ど、どうしてアッシュが? おれが帰ってくるの、分かったのか? あ、ローレライが?」
「ローレライとは帰ってきてから一度も接触がねえと言ったろうが。……なんとなく予感がしたってだけだ。回線は使えなくなってるみてえだし、気配がしたとしか言えねえ」
「え」ルークは驚いた。「回線使えなくなってんの?」
「そのようだな。……昨日の朝方早く、お前の気配を感じて目が覚めた。確実じゃねえがなんとなく場所も分かった。だが回線が繋がらなかったから、みんなをぬか喜びさせるのもアレで、誰にも言えなかった」
一旦話を切って、アッシュはルークをじっと見つめた。まっすぐな凝視にルークが居心地悪く身じろぎする頃、アッシュはふっと視線を落として首を振った。
「……今もだな。お前が起きりゃ、繋がるかとも思ったが」
「……おれも、なんも感じねえや……」
誰からも見捨てられ、罪の重さに壊れそうなルークを救ってくれた、細く、見えない鎖。仲間に見捨てられようと、世界中が彼に死んでくれと願おうと、その鎖は己の半身と常に繋がって、ルークを決して真の孤独にはさせなかった。決して外せないもののはずだったのに。
「なんで繋がらねえんだろ……? もしかして体が新しくなったから、同調フォンスロットが閉じた状態とか?? また開けば繋がるのかな……。なあ? 最初っから繋がってたわけでもねえのに、なんでこんな不安な気がすんだろう……」
愕然とした顔をしているルークを、アッシュは複雑そうな顔で見つめた。
「繋げる度に悲鳴あげて転げ回ってやがったくせに」
「見て来たようにしれっと嘘を言うなよな。悲鳴なんかあげてねーし、転げ回ってもいねーっつーの」
ルークは頬を染めて口を尖らせ、しばらくの間、再び膝を抱え込んでいたのだが、袖口の刺繍が目に入って思い出したように顔を上げた。
「服、アッシュの? ……だよな」
「素っ裸で連れ歩けねえからな」
「う。そっか。服まではローレライも面倒見てくれねーのか。……お前が還って来た時はどうしたんだ?」
「どうもしねえ。元の服を着ていた。血を吸ったところがだいぶ朽ちちゃいたがな」
苦虫を噛み潰したような表情が、さらりとした答えに全く合っていなかったので、ちょっと鈍いルークにもそんなに簡単な帰還ではなかったのかも……と悟らせた。すぐに差し出された水や食べ物も、そういえばアッシュは「経験済み」だと言っていた。自分にはアッシュという助けがあって何一つ苦労せず廃墟を脱出してきたが、アッシュの時はそうではなかったのかも知れない。
「アッシュ、ありがとう……」
唐突にかけられた礼の言葉にアッシュは肩をすくめることで答え、顎を背後にしゃくって「着いたぞ」と告げた。
アッシュは櫂をルークに押し付けると、身軽に船から飛び降りた。軽い飛沫が上がり、小舟は大きく揺れた。慌てて船縁にしがみつく。
まだアッシュの膝くらいまでは海水があったのだが、彼は気にした様子も無く小舟の舳先に手をかけると、浜に向かってぐいぐい引っぱり始めた。慌ててルークも飛び降りようとしたが、アッシュに「乗っていろ」と押しとどめられた。砂浜に小舟が乗り上がると、波に攫われないところまで後ろから押して行くのを手伝った。アッシュも今度は止めなかった。