The day of the dawn 01

 ふと、潮の匂いを感じて、周囲の環境が変わっていることに気がついた。潮の匂いに混じって、淡く控えめな、いつかどこかで嗅いだことのあるような花の香り。雨上がりの森にも似た、湿った土や露をはじいた緑の匂い。

 匂いの次は音だった。静かに寄せて返す波の音、風に擦れ合う草の音。リ、リ、リと鈴を振るような幽かな虫の鳴き声、キチキチキチ……という何かをこすり合わせた羽音のような、虫たちの競演。遠く、近く、高く、低く、長く、或は短く、澄んだ声で繰り返される鳥たちの求愛の合唱。
 小鳥の雛が餌をねだるような、必死さの漂う鳴き声も耳に入ってきて、ルークはふわりと笑んでゆっくりと目を開けた。

 音の次は色だった。

『真紅』

 他には表現のしようのない、真の赤が真っ先に目に飛び込んできて、ルークは瞬きを繰り返した。
「アッシュ……?」
 死んだはずの、この腕で冷たい骸を抱いたはずの被験者が、すぐ側に胡座を組んで座り込み、ルークの顔を覗き込んでいた。長い髪がルークの頬に触れ合わんばかりにこぼれ落ちていて、憶えのある仄かな洗髪剤の香りが彼の鼻孔をくすぐった。
「アッシュ……だよな?」
 問いかけの声が自信の欠けたものになったのは、彼の姿がルークの記憶にあるものとはいささか違っていたからかも知れない。
「ああ」

 アッシュらしき人物はルークの質問を短く肯定すると、ふらふらと上体を起こそうとしているルークに手を貸して、ついでにほんの少しだけ引きずるようにして側にあった岩に背をもたれかけさせてくれた。
 改めて周囲を見回してみると、ここは一面緑の丘のような場所だった。何か建物でもあった場所なのか、遠くには蔦様の植物に絡まった、柱らしきものが斜めに傾いで立っている。

 呆然と周囲を見回しているルークに、アッシュは手元に置いていた大きな革袋から取り出した水筒を押し付けた。
 戸惑いながらそれを受け取り、口に含むと、水は甘露のようにのどをすべり落ちていった。こんなに甘い水は飲んだことがないと驚いて、水筒が空になるまで夢中で飲み干して初めて、ルークはのどがとても乾いていたことに気付いたのだった。
「腹は?」
 アッシュが問いかけてきて、ひどく空腹であることにも気付く。
「あ、うん。……空いてるみてえ」
 腹に手をあてて答えると、水筒を出したのと同じ革袋から小さな包みを出してルークの手に乗せてくれた。開いてみるとそれは干したフルーツやナッツ類をぎっしり入れて、日持ちがするよう甘く焼き締めた焼き菓子だった。腹持ちもする。旅の間、アニスがたくさん作って小腹が減って摘むものが欲しいときのために常備してくれていたものに似ている。それが好物の一つであるルークの顔が思わずほころんだ。
「準備いいな」
「……経験済みだからな」
「?」

 口調や服装がどんなに貴族らしからぬものであったとしても、作法に厳しい公爵家で叩き込まれたマナーがルークの体に染み付いているようだった。食べ方はおっとりと品が良く、一口づつ、しっかりとよく噛んでから飲み込んでいるルークをアッシュは意外そうにしばらく眺めてから、ふと海の方へ視線を転じた。その横顔からは、最後に彼を見たときにはまだ残っていた、少年らしさの名残が綺麗に削ぎ落とされているように見えた。

 なんだかおかしな気分だった。被験者に体を明け渡して消えるはずの自分が、なぜ今生きているのか、そしてここがどこなのかも分からないまま、何故か甘いお菓子を食べていたりする。そしてそれが「とてもおいしい」と思ったりもする。打ち解けた、とはとても言えない間柄のアッシュはルークに嫌みを言ったり怒鳴ったりすることなく、淡々と会話して、当たり前のように側にいた。
「ここは何処なんだ? なんでおれ、生きてんの?」
 包みに入っていた菓子を綺麗に食べ終わって、落ちた粉を払い落としながら問いかけるとアッシュは海を見やったままで、エルドラントだ、と静かに告げた。
「エルドラント…?」
 言葉の意味が一瞬飲み込めず、鸚鵡のように言葉を返した。ややあって、それが最終決戦の地と知ると、ルークは愕然と周囲を見回した。
「ここが…?」
 エルドラントでローレライを解放したことは憶えている。足下が崩れ、足下に現れた譜陣とともにどこまでも沈んで行ったことも、アッシュの冷たい体を抱きとめたことも。ローレライの感嘆の台詞を聞きながら意識が拡散していったときのことも…。
 それはまるで眠りに落ちて行く時のような感覚でしかなかったので、ルークにとっては正直眠って起きたらここにいた、という程度の時間感覚なのだが。

 手元を探るとこぶし大の石が雑草の下いっぱいに積み重なっていて、拾い上げてみると元は何か建物の一部だったのだろう、細かい彫刻が一部施されている白いレンガのかけらだった。
「お前がここでローレライを解放してから、三年は経ってんだ。こんなザマになっててもおかしくはねえ」
「さんねん?!」

 呆然とアッシュを見やると、彼はようやくルークに視線を向けた。アッシュらしからぬ、困惑を全面に貼付けたような顔だった。
「……お前、3年前と全く変わってねえな……。まるでこれからエルドラントに乗り込もうってところみてえだ」
「おれは、変わってない……?」
 その表情と台詞で、ルークはやっと、アッシュに違和感を感じた原因に気付いたのだった。自分の知らないちょっとの間に、アッシュは三年分、大人になってしまっていた。
「さんねん……」
 怒鳴られるかと思いながら、腕を伸ばして頬に触れてみる。アッシュは一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに苦笑してしたいようにさせてくれたので、ルークは両手でアッシュの頬を包んだ。頬の肉はやはり削げたような気がする。頬骨が少し高くなったように見えるのはそのせいか。日によく焼けていて、触れる自分の手がほの白く浮いて見えた。
 ゆっくりと両手をすべらせて、輪郭に添わせると、指先に規則正しい脈動が感じられた。

「あったかいな」
「生きてるからな」
「アッシュ、生きて、大人になれたんだな」
「そうだな」
「今いくつになんの? ……二十? 二十一?」
「二十一になったばかりだ」
「なんか、信じらんねえけど……。だっておれ、ついさっき師匠を倒してローレライ解放して、落ちて来たお前の遺体を抱きとめたんだぜ?」

 パッと両手を離して、ルークはおどけた調子で言ったのだが、大きな翡翠の瞳は不安と困惑にゆらゆらと揺れた。

 今はもう、誰も同じ顔とは言わないであろうルークの頬を、アッシュの手の甲が慰めるようにするりとなでた。これまでルークが一度も見た事ないような、穏やかな顔をして。 
「俺は一年くらい前だな、やっぱりここに戻って来た。その時点であれから二年経ってると聞いて驚いたが……俺の場合、体が二年分成長してたからな」
「えっ、なんでアッシュだけ。……やっぱ体があったから? うらやましいけど、なんか死んでたのに歳だけ食って、二年分損した感じだな」とルークは笑った。
「アッシュが死んじまったとき、おれ、もうどうしようもないとこまで乖離が進んでたんだ。二人とも約束を破る事になっちまったと思ってた。お前だけでも生きててくれて、夢みたいな話なんだけど、なんでおれまで生きてんのかな? ほんとは夢だったりすんのかな」

 左手を日にかざしてみても、そこには確かな質量をもった自分の手があって、日差しを遮ってくれる。
「この一年、ローレライからは何の接触もねえ。何故死んだ俺が生きて戻って来ているのかも分からねえんだ」
 空になった水筒を革袋に仕舞い、袋の口をぐるぐる縛りながらアッシュは言った。
「……ただ俺は昨日からずっと、第七音素が半日かけてお前の体を創って行くのを見ていた。夢だとしたら、むしろ俺が見てんじゃねえか」
「……じゃ、やっぱ現実? ってゆーか、創って……? うおっ、剣ダコが消えてる!! あああやっぱりおれの体は乖離しちまったんだなあ……。じゃあこれはローレライのお礼かなんかなのかな。……おれ、もっと生きられるのかな」
 騒々しく騒いでみせながらも、ルークは心のどこか奥にひんやりとしたものを感じずにはいられなかった。元々持っていた自分の体で戻って来たアッシュと比べ、いらない服を着替えるように新しい体で還って来た自分。消えてしまった剣ダコや割れた腹筋など、元の体にはルークの七年間の努力や歴史があったはず。
(生きて……いいのかな……)
 あれほど死にたくないと思ったのに、足掻いたのに。新しい体を纏い直してまでして無いはずだった命を拾ってしまうと、抱え込んだたくさんの罪にまた一つ罪が積み重ねられたような気がした。