Close your eyes if you feel it 03

 わかった、と言ったものの、アッシュは温くなった額のタオルを換えてみたり肩口までブランケットを掛け直したり、水差しやグラスを手の届くところに持って来たりと、去り難い様子を見せる。

 意外に面倒見のいいアッシュに、小さな頃に熱を出したら、メイドたちがそんな風に面倒を見てくれたことを思い出していると、アッシュの大きな手がまた頬に触れ、指の甲で優しく撫でた。
 ──眉間の皺は、一体どこへやってしまったのだろう。それに、なんでこんなに優しい顔になっちゃったんだろう、とルークはアッシュの顔をじっと見つめた。本当にここは、知人に良く似た人物がいる異世界などではないのだろうか? アッシュは似ていると言われたことなどないと言っていたが、その愛情に満ちた表情は、シュザンヌに良く似ている気がする。

「ルーク」
「ん?」
「……キスしていいか?」
「えっ? ……ウン」
 わざわざ断ることでもないだろうに、と頷くと、さっきと同じようにベッドの縁に腰掛けたアッシュが、ゆっくりと上体を倒して覆いかぶさってきた。
(えっ? そこ??)
 長い、真紅の髪がさらりと頬をくすぐり、熱っぽいルークの唇に、アッシュのそれが触れた。

 さすがのルークも、唇へのキスが特別なものだと知っている。普通は、家族とか、友達同士ではしないもののはずだ。

 アッシュの唇は、軽く触れたままルークの上下の唇をそれぞれ、或は一度に食むように動いた。と思うと、今度は濡れた舌先が丁寧にルークの唇のかたちを辿り、熱で乾いた肌を濡らしていく。今度は少し強く押し付けられて、再び何度もついばむように食んだり、軽く噛んだり。
 驚いて目をぱちぱちさせていると、触れたままのアッシュの唇がふと笑ったのが分かった。なぜ、と思う間もなく、アッシュの乾いた手のひらが、ルークの両目を覆い隠す。
 目を閉じるものなのか、とおとなしく目を閉じると、掌の下で、閉じる睫毛の動きを感じたらしいアッシュの舌先が、ルークの唇と歯を、押し開くように入ってきた。
 驚いて、思わずアッシュの両袖を縋るように掴むと、目を塞いでいた手が額を撫でるように落ちて髪に差し込まれ、安心させるようにとんとん、と指先で二度叩き、撫でる。逃げようと勝手に縮まる舌を強引に絡めとられたあとは、口づけはどんどん深くなり、舌先はルークの想像を超えたところまで執拗に愛撫していった。袖を握る手に、ますます力が籠る。
「ルーク、息を、」
 軽く触れたまま、アッシュが囁くのに、
「ど、やって」と声にならないいらえを返す。
「普通に、鼻ですりゃいい」
 再び深くなっていく口づけにどう答えればいいのかも分からないまま、ルークは呼吸のやり方を思い出そうと必死だった。息を、息をしなくちゃ……。いつもどうやって息をしてたっけ? 思い出せない。そもそもルークは呼吸の仕方なんか知らない。だっていつも何も考えずにしていることなんだから……。──だったら、何も考えなければ出来るはず。ああ、でも、この距離だとみっともなく鼻息とか、アッシュにかかっちゃうんじゃねーのか……?

 アッシュの舌はそれ自体が一つの生き物のように、自在にルークの口内の敏感な部分を撫で、絡まり、舌を、唇を吸い立てる。溢れ出す唾液を飲み込むことさえ許されずにただ一方的に翻弄されながら、オールドラントに戻って来た時になぜ唇がちりちりと痛んでいたのか、やっと理解したルークだった。

 ルークが上手く呼吸をしていないことに気付いて、アッシュがやっと彼を解放すると、ルークはアッシュの袖を握りしめたまま、陸に上げられた魚のように喘いだ。アッシュが髪を梳くようにルークの頭を撫で「やべえな……勃っちまった」と眉を寄せ、切なげに目を閉じて、ルークの肩口に頭をすり寄せる。
「……なに? いまの……なに? これ、キス?」
 酸欠か衝撃か、或はその両方でか、とろんとした目つきでアッシュを見上げ、子どもに戻ったような辿々しい口調で問いかけるルークに、怪訝そうな声がああ、と返す。ルークはなおもぼんやりしたまま力なく頭を振った。
「アッシュ、おれ、なんか変だよ? 身体が……」
「身体? ……ああ」
 上体を起こして、ちらりとルークの下腹を確認すると、アッシュはちょっと頭を整理しよう、とさして乱れてもいない前髪を掻き揚げた。「しばらく放っておけば、治まる。──こういうキスは初めてだったのか?」
「う、うん。あ、いや、唇のキスはしたことある。ナタリアと……もっとガキのころ。あとは、額とか、ほっぺたとか……。でも、こういう、ふつーじゃねえのは、しねえ」
「普通じゃねえってこたねえだろ」
「ふつーじゃなくね? 普通、ベロとか入れたりしねーよ?」
 驚きのあまりまんまるになった目で、ルークはぺろりとあっかんべーをするようにアッシュに舌を見せた。その仕草の、あまりの子供っぽさに、
「……お前がガキだっていうのは、分かっていたつもりなんだが。身体がこうだと、どうも忘れちまうもんだな」
 とアッシュは呟き、くしゃりと前髪を掴んだ。
「──悪かった。それは、すぐに元に戻るから、おとなしく寝ていろ。終わったらまたくる。お前の調子が悪くねえようなら、出かけよう」
「う、うん。──今日は、寝ちまってても、起こしてくれよな」
「分かった」
 話しながらルークの額のタオルを換えて、出て行こうとするアッシュの後ろ姿を見て、ルークはふと彼を呼び止めた。「アッシュ」
「なんだ」
 呼び止めてみたものの、何故自分が呼びとめたのかも分からず、ルークは混乱したままアッシュを見つめた。
 アッシュもしばらくは辛抱強く続きを待っていてくれたのだが、ルークが言葉を持たないことに気付くと、苦笑してドアに手をかけた。

 あ。

「おれ、今みたいなキス、好きだ」
 出て行ってしまう、と気付いた瞬間、詰まっていた言葉が、やっと外へ転がり出た。ルークの視線の先で、アッシュの動きが止まる。
「そうか」
 アッシュはルークを見ずにそのまま外へ出て行ってしまったが、退室の直前に、いつもはきつく結ばれた口元が綻んだのが、確かに見えた。




 扉が閉まる音が聞こえても、ルークはしばらくの間ぼんやりと天井を見上げていた。呆然としていたといった方がいいかも知れない。
 ややあって、恐る恐る両手の指で唇に触れた。皮膚がみんなどこかに行ってしまって、内側の柔らかい部分が剥き出しになっているような感触がする。そんなはずないのに……。ちりちりとした微かな痛み、腫れたようにぷっくりとふくらんで、熱を持った──。
 ぎゅっと唇を両方の掌で覆って、うつぶせになった。

 特別な人とするキスって、ただ唇にするだけのものじゃなかったのか?
 普通のキスは、苦しかったり、痛かったり、しないよな。
 あんな風に、べ、ベロを入れたりとか……しないよな?
 あんなの、みんな普通にやってること? 普通に知ってることなのか?

 ──アッシュは、怖い。

 ルークは身を震わせる。
 シュザンヌから贈られた服を──きっと、気に入っていただろう、だってルークもその対のような服をとても気に入ってた──何度も袖を通しながらも、決戦の地へ行く前には荷物から外していたアッシュ。
 人に、ものに、場所に、激しい愛情と執着心を持つからこそ、奪われたという憎しみも半端ではなかったことが、今になって、すごく良く分かる。

 その、アッシュが、今ルークを好きだと言う意味が。その愛情深さと、重みが。
 ──怖い、と思う。もの凄く。身体が震えてどうしようもないほどに……。
 海辺で、無邪気に喜ぶルークに、アッシュが複雑な顔をした意味が、なぜあのとき分からなかったのだろう。アッシュが聞いて来たように、気持ち悪いとは今も思わないが、今なら、今のルークなら、きっと怖いと告げたのではないだろうか。

 それは、でも、嫌だとか、逃げ出したいとか、そう言った負の感情とは全く違うところから沸き上がる気持ちだった。 

 なにか不満を持った子どもがするように、んーともうーともつかない呻きをもらしながら、ルークはじたじたと身体を捩らせる。自分の気持ちも、どうしていいのかも、分からないもどかしさで頭は一杯で、うまく働かない。いろんな思いが出口のない狭い場所でひしめき合って、もう自分でもなにがなんだか分からない。

 まるで当たり前のことのようにもの慣れた感じだったアッシュを思い返すと、彼にとってはキスというものは、ああいったおよそ普通ではないものが当たり前なのだろう。当然のようにルークもそうだと思っていたのに、そうではないと知ってとても驚いていたようだった。
(唇のキスは特別な人とするキスだって、ガイは言ってたよな。アッシュにとっておれは特別だからここにしたってことだよな? でも、これまでにもしたことがあるみたいだ……ってことは、特別な人が他にもいる? 特別な人って、一人じゃなくてもいいのか? それとも、前はいたけど今はいないってこと? ……分かんねえ)

 普通に暮らしていれば、毎日のように誰かと交わすキスのことを、これほど真剣に考えたことは、且つてのルークにはなかった。クリムゾンやシュザンヌ、ガイ、ナタリアを初め、旅の仲間たちの誰一人、口の中に舌まで入れてくるようなことはしない。頬や目尻に軽く触れるくらいのものだ。だって、それが普通だろう? ただ一人、まだまだうんと小さなころにナタリアがしてくれた唇へのキスだって、ちょん、と唇同士が軽く触れ合う程度のものだった──それだって、その時のルークはものすごくドキドキしたのだけれども。
(特別な人とするキスって……そういえばどんなキスなのか、ガイに聞いたことなかったな……ナタリアとしたのがそうだと思ってたけど、違うのか……?)
 特別な人……ルークにとって特別な人とは、やはりガイやナタリア、ティアが該当するのだと思うが、今みたいなキスを彼らとしてみたいかというと……どうなんだろう?
(アッシュは、誰としたのかな……)

 この深く、激しく、恐ろしく、そして重たい愛情を、アッシュが今までにどこかで誰かに向けていたのかも知れないと思うと、そしてその人と今のようなキスを交わしていたのかと思うと、なんだか胸の内側でもやもやというかざわざわとした胸苦しくなるものがわき起こってくる。

 アッシュに好きだと言ってもらえて、ルークはとても嬉しかった。ルークだって、アッシュのことは好きだから……。アクゼリュスを崩落させたあのとき、誰もが彼を見捨て、見ないように顔を背けて通り過ぎて行く中、ただ一人、アッシュだけがルークの側で足を止めてくれた。引き上げてくれた。憎まれていると思っていたのが、なんのかんの言いながら手助けをしてくれたり、期待をかけてくれていたり、信頼してくれていたり。あのとき、ルークを先に行かせてくれたのは、そう、きっとルークなら師匠を止めて、ローレライを解放することが出来ると信頼してくれたからだ。ガイが、最近アッシュはお前に優しい、と言っていた。そうかな、と返しながら、ルークも最近ではそう感じるようになっていたのだ。
 あの頃、アッシュはもう、ルークのことを好きだと思っていてくれたのだろうか。もしもアッシュに、他にも特別な人がいたのだとしたら、それはそれよりも前のことなのだろうか? そして──その人を今はどう思っているのだろう?


 色々と思いめぐらせている間に、アッシュの言ったように、おかしな変化が起こっていた身体はいつもと同じように戻っていて、ルークはほっと息をついた。今までこんな風になったことがなかったから、もしもアッシュがなんでもないことのように流さなかったら、きっとものすごく恐ろしい思いをしたかもしれない。
 アッシュの態度を見る限り、それは良くあることのようだったし、おそらく、病気の類いではないのだろう。どうしてそんなふうになるのか、ルークには良く分からなかったけれど……。ただ、アッシュとキスをしている間、身体をぎゅうっと搾られるような、苦痛にも似た衝動がそこから沸き起こっていたような気はする。

 やわやわとして頼りない感触の唇を指で何度も押さえていると、さっきアッシュにされたことが、一つずつ順番に思い出されて来た。
 すると途端に、さっきのような──苦痛のような、でもそれだけもないような、これまでに覚えたことのない衝動が漣のように沸き起こり、ぴくり、と治まったばかりのそこが小さく脈打つのを感じて、ルークは慌てて枕に顔を押し付けたまま首を振った。
 分かった。
 それをしたり、考えたりしたらまたさっきのようになってしまうらしい。
 排泄の時にしか使わないところが固くなって膨らんでくるなんて、本当におかしな病気ではないのだろうか。
 アッシュのいないところで同じことが起こるのがなんだか恐ろしくなって、取り敢えずこれがなんなのか、はっきり分かるまではそうならないようにしようと、ルークは一旦反芻を止めた。

 ただ一つ確かなことは、特別な人としかしないはずの、唇へのキスをアッシュとするのは嫌ではないということ。──ちょっと普通じゃないっぽいキスだったけど──それを考えたら、なんだか身体が変になってしまうということ。アッシュの「ルークが好き」はルークの「アッシュが好き」というのとは、意味が違ったようだということ。

 だが、ここに至ってもなお、アッシュの「好き」がどんな「好き」なのか、さすがに全く分からないほどルークも子どもではない。実年齢は十歳──アッシュの言う通りであるならばまだ七歳なのか──かもしれないが、周囲から見た目通りに扱われ、自分もそうならんと努力して来たのだから、精神年齢はもう少し上のはずだ。
(芝居……ちゃんと観てれば良かったな。アッシュの気持ちはあのまんまだって、アッシュは言ってたんだし、明日ノワールに謝って、もう一度観られないか聞いてみよう……)
 そう考えながら、ルークはゆっくりと、深いまどろみの中へ落ちていった。






2011.04.19