「残念ですが、私は公演がはじまったころすでにここにいましたからね。ですが新聞に載っている評論は読みましたし、おおよそのあらすじは知っていますよ」
 そっか、とルークは肩を落とした。ディストがどんなものを読んだのか知らないが、あらすじだけではシンダー……アッシュの気持ちまではわからないだろう。
「それを観ていないとわからない相談をしたかったのですか」
「そうだな……いや、説明しやすかったかもしれねーけど。あの……これから話すこと、誰にも、ジェイドにも、言わないでくれるかな」
「ジェイドなんかに言うわけありませんよ。なんです?」
 話す前提で前振りをすると、ディストは妙に嬉しそうな顔をして少し身を乗り出した。

他の何者も目に入らないくらいジェイドを意識していたのは、幼いころから刷り込みのように慕い続けたという単純な理由だけではなく、同じように慕っていた女性の復活を早々に諦めてしまったジェイドへの苛立ちもあったのではないだろうか。
 過去を取り戻そうと足掻き続けた日々に決別し、前を向いて歩き出したこの男は、もともと天才と呼ばれた男だった。劣等感や対抗心からくる自己顕示欲と、複雑な執着心から解放されれば、そこには自分の能力に自信をもった優秀な研究者がいるだけだ。──好敵手として意識せずにはいられないようではあるけれども。

「……このことでアッシュを苛めたり、からかったりもしねーって約束してくれる?」
「アッシュ?」ディストはその名に驚いて目を見張り、そのように素敵な機会を逃すことを悩んででもいるかのようにしばらく押し黙っていた。「……まあいいでしょう。彼が二度も面会に来るとは思えませんし」
 とりあえず、ルークの話への興味に軍配を上げたようだ。大事な口止めを済ませると、もう逃げ場はなく、ルークはようやっと覚悟を決めて口を開いた。

「あの、さ。バチカルに帰ってきたら、ファブレ家の一員として正式におれの戸籍が作られてたんだ」
「良かったじゃないですか」
 ルークの存在は、これまで元はアッシュのものである『ルーク・フォン・ファブレ』の戸籍上にあった。今はファブレの系図には『ルーク・フォン・ファブレ』と『アッシュ・フォン・ファブレ』二人の名が、別々の人間として記載されているはずだ。
 ルークはうん、と頷いた。悲しいことに、差別や暴力を恐れて隠れ住むレプリカも少なくなく、未だ精確なレプリカ人口がわからないありさまではあるが、今は保護されたすべてのレプリカに戸籍が作られている。
 だが、被験者、あるいは被験者の家族に受け入れられ、家族の一員として戸籍に名を記される例というと、それは決して多くはない。それを思えば、ルークは幸運なのだ。
「おれがもし帰ってきても、家に帰ろうとしないアッシュに遠慮してうちから逃げてしまうかも知れないからって、父上はそれを阻止するために戸籍を作っておいたんだって。──ディストの本、読んでさ。この手があるじゃん、って思ったらしくて」
 私の本がなにか、と呟きかけたディストの顔が、ルークが説明するより早く理解の色を浮かべ、はっと目が見ひらかれる。「……もしかして、」
「……普通に笑ったら?」
 ルークはむっと口元を引き締めた。以前のように高笑いされてもそれなりに傷ついただろうが、我慢されてもそれはそれで腹立たしい。
 ディストは黙っていれば美しいとも言える顔を、かなり個性的に歪めて肩を震わせていた。ルークは憮然としたが、自分だって当事者でなければ爆笑しただろうとわかっているだけに文句は言えなかった。
「くっくっく……。私が最後にアッシュに会ったのは、一年近く前ですからね。今会ったらどんな顔をしているのやら、見てみたい気がします。いや、ここに入ってから聞いた一番愉快なニュースですよ!」
「あっそ。良かったな!」ルークはふて腐れたままディストの顔を睨みつけた。「だけど、話したいのはそこじゃない、ディスト。おれ、アッシュに好きだって言われたんだ」
「はあ……」本当に愉快そうにディストは言った。「あのアッシュが? 良かったではありませんか!」
 ディストの記憶に残るアッシュが、己のレプリカなどに好意を持ち、しかもそれをわざわざ口に出すような人物でなかったことは確かだ。和解が出来たのなら何が不満なのかという疑問が透けて見える笑顔を驚愕に歪めてやりたい衝動に駆られて、ルークはなかば意地のようにきっぱりと言った。
「アッシュはおれと、口の中にベロ入れるようなキスしたり、夫婦とか、恋人同士がするようなことをおれとしたい『好き』だって言ったんだよ!」
 アッシュにしてみせたように、ルークが舌をぺろっと見せながら言うと、その子どもっぽい仕草に怯んだようにディストが仰け反った。次いで目が丸く大きく見ひらかれる。
「──なんですって」
 その顔をみて、ほんのちょっぴり溜飲が下がったが、すぐにそのことに対する問題を思い出し、昂揚していた気分はまたたくまにしぼんでいった。
「アッシュは答えは急がなくていいって言ってくれたし、おれもあんまり突然で……自分がどうしたいのかもわかんないでいる。けど、もしかしておれがアッシュの気持ちに応えるって結論が出たとき、それは──いや、そういう結論を出したらダメなことなんじゃないかって、おれ」
「ちょ。ちょっ、ちょっと待って下さい! ──アッシュがなんですって?」

 アッシュの告白から始まって、キスをされて驚いたこと、船乗りの歌を聞いて興味津々のルークにアッシュが言ってくれたこと、例の芝居を仕掛けたノワールとのやりとり、誰にも話せなかったことをすべて話し終えたルークに、ディストはしばらく唸っていたが、やがて艶のある薄紫の髪を掻き回して信じられない、というようにため息をついた。
「シンダーとルクス、ねえ。確かにそんなようなことを勘ぐる評論も見たような気がしますが鼻で笑ってしまってました……」
「みんなそうだよ」
「あなたもアッシュも男ですが、それは」
「それはいいんだ。そういう人もいるって知ってるし、おれも全然気になんなかった」
「むむ……。例えば、そう言ってきたのがジェイドだったり、何と言いましたか幼なじみの、そう、ガルディオス伯だったとしても?」
 見る見るうちに顔を強張らせたルークを見つめて、ディストがため息をついた。
「あなたにとって、あの二人はもう家族のようなものなんでしょう? 相手が女性であればまだしも、一般的には同性の疑似家族を相手にそういった気分にはなりにくいものです。ですが、単に彼らが同性だからいやだという可能性も否めません。……微妙なところですねえ」
「おれは」
「アッシュだけが特別である可能性もあるんですよ」ディストは彼らしくもなく、困り果てたように言った。「優位性の高い被験者にレプリカが魅かれてしまう、とか。あるいは被験者から長い間欠けていたレプリカ情報の記憶が、修復されて必要なくなった今でも、失われたものを手繰り寄せようとしているとか。ああ、いや。そんな悲壮な顔しないで下さいよ苛めてるみたいじゃありませんか! あれこれ可能性を考えているだけで、実際どうかはもっと調べてみないことにはわかりません」
 うつむいて黙り込んでしまったルークを、ディストはどこかおろおろと見つめ、ふと気付いたように首を傾げた。「あなたはむしろアッシュに応えたいと思ってます? だから戸籍を気にするのですか?」
「……え」
「あ、それも『アッシュが特別』に該当するじゃありませんか! アッシュと性行為を伴う関係になることはいやではないし、それを望むアッシュにむしろ良い返事を返したい! なんだもう悩むまでもないではありませんか!」
「え? え? え?」
「被験者とレプリカが血縁関係にあることなどあまり気にすることはありませんよ! 子どもを作ろうと言うのでもなし!」
 なにを言われているのか理解出来ないでいるルークに、ディストは簡単に近親者同士の交配によって起こるリスクを話して聞かせた。「つまりあなたがた二人が夫婦のように暮らしたところでまずいことはなんにもないってことです! 多少周りがなんか言ってくるかもしれませんが、あなたは好きなようになさい!」

 ルークは唖然と口を開き、ディストの顔を見つめ返した。どんどん顔が熱くなってきて、視線を落とす。無責任にルークを煽るディストの口調はふざけているように思えるが、この上なく真面目に言っているのがわかる。だから余計に居たたまれない。
「そ……そん、そんなこと、言われたって……」
 ディストが突きつけた問いかけは、ルークが鈍感に気付かないフリをし、避けてきた問いかけでもあった。そのことに急に──強制的に気付かされ、ルークはとうとう羞恥に耐えきれなくなり、膝の上の両手をぎゅっと握ってうつむいてしまった。
「被験者とレプリカは絶対に同性であるわけですし、私もそういった可能性をちらりとも考えていませんでしたが、これは研究する必要がありますねえ。……ある……のかな? どうなんでしょう??」
 何やら考え込み始めたディストをよそに、ルークはこっそりと視線だけ動かして部屋の隅にたたずむ兵士をうかがった。相変わらず無表情でまっすぐに虚空に視線を向けている。まるで飾り物の彫刻のようだが、彼に話が聞こえていないはずはない。ここから先には漏れないのだとしても、この兵士が内心どう思ったのかと考えると。
 おれはオールドラント史上、羞恥で死んだ初めてのレプリカになるに違いないと、ルークは低いテーブルにうつ伏せた。

 ファブレ家の戸籍に入り、名実ともにアッシュの血縁になってしまいました。そのことはアッシュの気持ちに真面目に向き合うのに、問題になりますか? なります。なりません。
 それが聞きたかっただけなのに、一体どうしてアッシュと性行為だの夫婦のように暮らすだの、そんな話になったのか。

 テーブルに伏せたままのルークの頭に、ぽん、と手が乗せられた。「もしかしたらあなたのアッシュへの好意は、さっきも言ったようにレプリカの習性のようなものかも知れません。アッシュがあなたに言ったように、最初に『好き』という感情を意識させたもの勝ちという単純な作戦によるものかもしれません。でもそんな気持ちをずっと維持していくのは難しいですよ。きっとどこかで違和感を感じるはずです。ですから余計なことは考えず、心の赴くままになさい」
 ルークは顔を上げて少し考え、頷いた。アッシュは自分の気持ちを知っておいて欲しいとは言ったが、ルークの結論が出るまでのんびり待つとも言ってくれた。ルークの気持ち次第で結論を出してもいいのだと分かった今、ゆっくりと自分の気持ちを整理していけばいい。
 だがどうにもルークがもやっとするのは、そう言いながらもアッシュが自分が受け入れられる可能性をほとんど見いだしていないように思えたからだった。アルビオールの発着場まで見送りに来たときだって、それはもちろん付き添いにアニスとティアがいたせいもあるが、ルークに指一本触れることはなかった。普通ああいう場では、別れのキスくらいはするのが当たり前だろう。ティアとアニスはこれまでの二人の関係を知っているからこそ、アッシュがルークにキスをしなかったことにも、必要以上によそよそしいことにも特に違和感を感じたようすはなかったが、タラップを上がりきり、機内に入るまえに振り向いたルークをまっすぐ見あげたアッシュの視線は、まるで今生の別れを告げているかのように淋しいものだったのだ。
 別にどうしてもキスがしたかったわけじゃない。……と、思う。けれどそのことにこれほど納得のいかない気分になるのは、ディストにも見抜かれてしまったように、すでにルークがアッシュを受け入れたいと思っているからなのかも知れない。
 だが、暗闇の夢の芝居を観て、アッシュの行動を恩義のように感じてしまっているのではないかと、嫌われていると思っていた人に好きだと言ってもらえて、ただ舞い上がっているのではないかと……そして初めての官能的なキスにただ酔ってしまっているのではないかと。自分自身にそんな疑いを抱いたままアッシュに応えても、結局アッシュを傷つけてしまうことになるのではないか……それが怖い。
「おれ……わからないんだ。まだ自分がどうしたいのか。今はアッシュのことがもっと知りたい。でも、どうすればいいのか……」
「やはり一緒に暮らすのが手っ取り早くはありますねえ。結婚前にはしばらくお試し期間を設けて一緒に暮らしてみるべきだと偉人も言ってます! だけどリスクしかないですよ! 粗もそれだけ多くはっきりと知ることになるんですから! 粗だらけのアッシュなんか、知れば知るほどいやになること請け合いです! むしろ周囲の人々が必要以上に出来た人間に見えてしまうことに注意なさい!」
 一体どれだけ仲が悪かったのか──いや良かったのか? くわっと目を見ひらいて叫ぶディストがおかしくて、ルークはくすりと笑みをこぼしてゆっくりと首を振る。「でもおれ、家を出たいなんて……」
「あなたがアッシュと暮らしたいと言えば、ファブレ公爵夫妻には止めることができませんよ。それこそ監禁でもしないかぎり」
 ルークは弾かれたようにディストを見つめた。常になにか悪巧みをしているような、少年じみた楽しげな笑顔は、おかしな譜業を作って悦に入っていたころと変わらない。
「──そうですね、一つ教えておきましょう。おそらくアッシュも知っているはずのことです」

 ディストが腰を浮かせ、すうっとルークに顔を近づけた。マルクト兵が静かに姿勢を変え、警戒を示すのが視界の隅に入る。ぼそぼそとした囁きが耳にはいると同時に、ルークは目を見ひらき、熟れたトマトのように顔を真っ赤にし──絶句した。


6話も更新しています。(2012.07.25)