夕食はシュザンヌとルークがぽつりぽつりと交わす会話以外は、終始静かに進んだ。大きな食堂に三人だけの食事では、カトラリーの音すらほとんどしない。クリムゾンの後ろに控え、時折ワインを注いだりしているラムダスは、昔から動いているのにこそとも物音を立てず、まるで空気のように振る舞う。給仕のメイドの衣擦れの音に思わずほっとしてしまうほど、夕食はひどく気詰まりな苦行の一つだった。会話さえ弾めばもっとおいしく食事ができるのに、と会話の糸口を探していれば、いつも食事を味わうことがおろそかになった。 
 あの日ティアとともに屋敷を飛び出すまでは、ルークにとっても馴染みある食事風景だったはずだが、本当の両親ではない二人の前で、ルークはいまだに「ファブレ家の子ども」の役がうまく演じきれないでいる。

「ルーク、もっとパンをお取りなさい」
「このあとの料理が食べられなくなるから」気遣わしげにシュザンヌが言うのに、ルークは首を振った。「動いてないから、腹もなかなか空かなくて。そのうち剣の稽古が出来るようになったら、もっと食べられるようになるんじゃないかな……」
 きっとそれだけではないのだろうが、おそらくそれが食の進まない最大の理由のはずだった。鍛えられていない作りたての身体は、きっとそれほどの熱量を必要としないのだろう。最初こそ英雄の帰還に国中が浮かれ騒ぎ、舞踏会なども開かれてくたくたになるまで踊らされたこともあったけれど──クリムゾンに言われるがままあちこちの令嬢にダンスを申し込み続けたからだ──落ち着いてきた今は城へ出かけて王やナタリアと話したり、クリムゾンに連れられて知らない人に挨拶してまわったりするだけでほとんど動いてない。

 気乗りしないままになんとか出されたものは食べていたが、この日、魚料理の番に大きな海老が乗っている皿を出され、ルークは目を見張った。
 ルークの知るかぎり、一口サイズの小さなものが前菜やサラダに使われることはあっても、正式な晩餐に供される魚料理の皿に、こんな大きな海老をメインにしたものが出されたことはなかったはずだ。
 ちらりとシュザンヌとクリムゾンが目を見交わすのが視界のはしに入り、ルークはそれでこの料理が、食の進まない自分のためにわざわざ用意されたことを悟った。
 自分のために二人が献立にまで口を出してくれたことだけではなく、気付いていたのか誰かに聞いたのか、好物を知っていてくれたというそのことにじわりと胸が温かくなった。現金にも急に腹が空いてきた気がして、せき立てられるように海老の身を小さく切り取り、ソースを絡めて口へ運ぶ。ソースと合わさると、あまり使われない食材がとたんにキムラスカ料理の顔をして舌に馴染むのに、思わず笑みがこぼれた。
「変わっているが、悪くない」
「すごくおいしいです!」
 ルークの笑みを見てほっとしたのだろう。クリムゾンが珍しく料理の感想を言った。身体が変わっても海老はやっぱりルークの好物のままだ。初めてエビマヨにぎりを食べたときにも、この世にこんなにおいしいものがあったのかと大感動したものだったが、こんなふうに手をかけられた料理はやはり格別においしい。

 二切れめを切り取り、その身でソースをすくい取ったとき、ふ……と陽気な船乗りたちがだみ声で歌う戯れ歌を背景に、素手で大きな海老の殻を割っていくアッシュの指先を思い出した。節くれ立った長い指が器用に動いて殻をのぞき、身をちぎってソースをすくう。差し出された手づかみの身と一緒に舐めてしまった指先。手首を伝い落ちていく熱い油──。

「ルーク? どこか具合が悪いのですか?」
「えっ」
 手を止めてしまっていたらしいルークがはっと顔を上げると、正面に心配そうにルークを見つめるシュザンヌの顔があった。「……顔が少し赤いわ。熱でも出てきたのでは……」
「あっ、や、どこも悪くないです母上」
 慌ててシュザンヌに笑いかけ、ルークはあのとき食べた味とはまったく違う、目の前の皿に集中しようとした。だが、一度思い出してしまった記憶は、すぐに去ってはくれなかった。ルークに海老を食べさせたあと、手首に伝う油に気付いたルークがナプキンを差し出すまえに、アッシュは無造作に手首から手のひらへと舌を這わせた──。その舌は同じ日にルークの唇を割って入り込み、口内をすみずみまで舐っていったのだ。絡められた厚い舌の感触と、一つのものから分たれた存在でありながら、あからさまに別の男のものだった唾液の味が口中に甦ると、情けないほど顔に熱が集まっていく。
「まだそう呼んでくださるのですか」
 シュザンヌがおかしみをこらえた複雑な顔をする。ルークははっと顔を上げ、シュザンヌとクリムゾンの顔色をうかがった。クリムゾンは不機嫌そうに見えたが、よく見ると口元がぴくぴくと痙攣している。どうやら笑いを噛み殺しているようだと気付くと、肩から力が抜けた。
 屋敷に戻ってくるまでは、レプリカにすぎない自分がそんなふうに二人を呼ぶ資格などないと思っていたのに。当然のようにそう呼んでいたころのまま、その呼称はするりとすべり出て、もう撤回することはできない。急に自棄っぱちな気分になって、ルークは駄々っ子のように口を尖らせて言った。
「お二人が、おれの父上と母上ですから」
 クリムゾンとシュザンヌが面映そうに顔を見合わせる。ルークはその隙に必死でアッシュの指先を頭から追い払った。

 一体なんだっていうのだろう。
 エルドラントへ乗り込むまえのルークは、これほどアッシュのことばかり考えてはいなかったはずなのに、ディストの本を読んでいたから仕方ないとはいえ、実のところあの日、あの晩のことを思い出すのは、これが初めてではなかった。
 普通じゃないキスをしたせいなのか、お芝居のせいなのか。あるいはアッシュの執着心の強さを知ったからなのか。
 それを重いと思いつつも、まるで怖いものみたさのようにその執着の行き着く先を知りたくてたまらない。

「来週にはマルクトだな」
「はい」
「帰ってきたら、そろそろ剣の稽古や勉強を再開してもよいと思うが、正直剣の師匠をどうするか……」
 今の一幕で雰囲気がゆるんだせいか、いつもは食事どきにあまり発言しないクリムゾンがぽそりとこぼし、ルークは脳裏に思いめぐらせていたものごとを無理矢理断ち切ってクリムゾンを見つめた。
 ルークもそのことは密かに考えていた。ルークは未だ修行中の身だ。勘というものが失われてはいなかったとしても、今の身体はど素人同然のもの。稽古すればするほど正しい型を崩してダメにしてしまう可能性が高い今、師匠は絶対に必要だった。
「こうなると、私と同じ流派にしておけばよかったと思うな」
「……向こうへ行ったら、ペールに心当たりがないか尋ねてみます」
 ルークの言葉にクリムゾンは少し思案してから頷いた。「そうだな。今更流派を変えるのは難しい。キムラスカへ招喚出来る人物があればよいが」
「剣のお稽古は絶対にしなければなりませんか、ルーク。なにもあなたが剣を取らずとも、出かけるときには白光騎士が護衛に付きますのに……」
 剣の稽古などさせては、また何か危ないことに巻き込まれるのではと表情を曇らせるシュザンヌを、クリムゾンが苦笑してたしなめる。
「シュザンヌ。剣はルークのたった一つの趣味であり、生き甲斐でもあるのだよ。私もそうだったし、あれたちもそうだ。ファブレの男子は代々みなそうなのだ」
 どこか誇らしげに見えるクリムゾンに、ルークはじわりと胸が熱くなるのを感じた。クリムゾン、アッシュ、まだ見ぬ『兄』、そしてルーク。アッシュが生まれたときにはすでに亡くなっていた祖父、曾祖父も、みんなそうだったのだろうか。剣術を愛し、剣に身を捧げて生きたのだろうか。そういえば、ファブレ家は文官より武官を多く輩出しており、武門の名門と言われている。
 やっぱり、おれはアッシュのレプリカなんだな……。
 以前はそう思い知らされるたび胸に重苦しいものが落ちていったものだったが、今はそんなことにもささやかな繋がりや誇らしさを感じて嬉しくなる。アッシュとの繋がりを経て、ルークには確実にファブレ家に繋がる血が流れていた。

 ──おれには拠り所がある。

 ルークはふっと息を吐いて、カトラリーを持ち直した。いくらルークが単純でも、食事のたびに感じていた苦痛がいつの間にか感じられなくなったのは、きっと好物の海老のせいだけではないはずだ。

 さまざまな立場のものの思惑によって一人歩きしている『英雄ルーク・フォン・ファブレ』の名は、すでにその国籍を離れてマルクトでも英雄と名高い。それゆえに、マルクト皇帝はルークがバチカルに戻って以来『英雄ルーク・フォン・ファブレ』をマルクトへ招くことを希望しており、両国間のさまざまな折衝を経て、このたびルークはその招聘に応じて一人キムラスカを離れ、マルクトに向かうことになっていた。
 マルクトにはガイ、ペール、そしてジェイドがいる。チーグルの森に帰ったミュウもいる。ルークとしてはほんの半月会えなかっただけに思えるが、彼らにとってはそうではなかった。だが今や国の要職を担う彼らは、望めば簡単に国を空けられるというような立場ではなく、何度か手紙のやりとりをするのみであり、マルクト行きはルークにとってもとても楽しみなことだった。特にガイは、ルークが生まれてからこのかた、離れている時間のほうが短いのだ。

 送迎のためにシェリダンから回されたアルビオールの前で、半月前もべルケンドにバチカルにと送ってくれたノエルに再会した。あのときはユリアシティに赴任したばかりのアニスとティアを拾ってケセドニアに駆けつけてくれ、船で帰国する気でいたルークを水臭いとなじりながら、二人と一緒に涙を流していた。「ギンジは無事か」と咳き込むように尋ねたところ、それが号泣になった。あれから三年経っているのだと思い出したのはそのあとのことだ。
 ノエルもさすがに今日は落ち着いている。ルークと同行する外交官の幾人かは何度も運んで顔見知りらしく、緊張したようすもなく挨拶を交わしていた。
 今や名門ファブレ家の跡取りと目されたルークには以前のように一人で出かけることなど許されない。外交官数名に彼らの副官も加え、白光騎士も二名と、思ったより大所帯で旅立つことになった。いずれはこういうことを重荷に思う日が来るのかもしれないが、今はまだ戸惑うばかりだ。

 何もかもに人の手を借りる十数時間の旅を経て、ルークはグランコクマに到着した。


実は「Close your eyes if you feel it」を書いていたころには、アニスやティアとの船旅から書いていました。長編にせず連作にした意味がないことに途中で気付き、がーっと不使用にしてしまいましたので、ガイ以外は不遇です。ガイもそれほど出番が多いわけではないんですけど。(2012.07.22)