タイトルロゴ

 読み終わった本を閉じて、ルークは小さなため息をもらし、眉間を揉んだ。
 二年ほど前にサフィール・ワイヨン・ネイス博士が獄中で出版し、話題になったらしいその本の内容は、本来ならば本を読み付けていないルークが途中で放り出してしまうような内容の本だったが、ページを行きつ戻りつしながらも、ルークは必死で理解しようと努力した。レプリカに関する本とは、すなわちルーク自身の説明書であるに等しいからだ。
 ディストは一体読者をどのような層だと想定してこれを書いたのか、遠慮なく一般人になじみのない言葉を使って難解なことを書いていたが、ルークは知らない言葉を辞書で引き引き、何日もかけて最後まで読み通したのだ。これまでにこれほど必死かつ真剣に本を読んだことなどなかったが、努力の甲斐あってきちんと理解も出来た──内容は。信じたくないこと、受け入れるのに時間がかかりそうなことは数多くあったが。
 受け入れる気にならなかったのはルークだけではないはずで、時おりアッシュがらしくもなく何かを言いかけては口ごもっていたのを思い出す。

 本を抱えたままルークはぼすんとベッドに横になり、読みながら付箋をつけておいた場所をもう一度ぱらぱらとめくった。何度見ても内容が変わるわけはないのだが、そうせずにはいられなかった。結論部分を何度も読み返し、果ては印刷された文字を何度も何度も指でなぞってうめき声をあげ、閉じた本を押しやって枕に顔を埋めた。メイドたちが乾燥させたラベンダーやビャクシン、薔薇をはじめ、様々なハーブや花びらと一緒に干してくれている羽枕は、ほんのりと気持ちを落ち着かせる良い香りがする。

「ルーク様」

 頭を真っ白にしてただ呆然と枕を抱いていたルークは、遠慮がちなノックと控えめで落ち着いたメイドの呼び声にはっと顔を上げた。
 慌てて跳ね起きて、ざっと髪や服装を整えていると、メイドが着替えを持って入って来る。
「え、もうそんな時間?」
「ええ、もうそんな時間です」メイドはルークの抱える本をちらっと見てくすりと笑った。「夢中でお読みになっておられましたものね。途中で二度お茶を入れに参りましたが、冷めておりましたのでお下げしたんですよ」
「え、ほんとか?! ご、ごめん……」
「いいんですよ。さ、着替えをお手伝い致します」
「う、うん……」
 何度読み返しても内容が変わるわけではないのだが、尚も未練がましく両腕で本を抱えたままベッドを降りると、その仕草がおかしかったのか、メイドがまたくすくすと笑った。「その本、レプリカと言うものを広く世間に知らしめるという目的もあって、別の著者が一般人向けに易しく書き直した要約版も出回っているんです。本は高価ですからわたしたちの手にはなかなか届かないものですけど、それは普及させることを目的に作られていて比較的手が届きやすいので、下町などでは文字を読めるものが集会を開いて読み聞かせたりしているんです。みんなレプリカには良きに付け悪しきに付け興味がありますから、大勢聴きに行ってます。わたしもその要約版を、友人に借りて読みました」
 メイドは丁寧で優しい手つきでルークの服を脱がせ、フリルもボタンも細かいブラウスを着せていく。なすがまま人形のように服を着せかけてもらいながら、ルークは興味をもって問いかけた。
「……読んで、どう思った?」
「そうですね……」メイドは少し内容を思い出そうというように首を傾げた。「アッシュ様とルーク様は今はお年が少し離れてしまわれたせいもあって、双子ほどには似ておいでにならないというのもありますが、なら以前は双子のようでいらしたのかというと、ちょっと首を傾げてしまうんです。顔立ちは……それなりに似てらしたようにも思うんですが、人って纏う雰囲気でずいぶんと変わるものですわ。ルーク様はどこか我が侭で甘えんぼの末っ子、アッシュ様は──わたしは一度しかお会いしたことなんですけど、ちょっと硬質で融通の利かなそうな一人っ子、って感じですかしら? レプリカっていうのは、すみません、本物そっくりに作られた偽物、って今までみんな思っていたんです。ですからお二人とも知っているわたしたちは「あれ?」ってどこか釈然としない部分もあったんですよね。この本はレプリカという存在に対する思い込みを根底からひっくり返すような本でしたけど、これを読むと被験者のアッシュ様、レプリカのルーク様があまり似ていらっしゃらないことにも素直に納得がいきました。メイド仲間もみんな同じ意見ですわ」
 ルークは目をぱちぱちさせてベストのボタンを留めているメイドの伏し目がちの睫毛を見つめた。考えてみれば、この屋敷で働くものは被験者とレプリカ、双方を知っている希有な人々になる。長くいるものになると、十歳以前のアッシュを知っているものすらいるのだ。
 ケセドニアで、被験者とレプリカが揃っていることはあまりないと聞いた。だが残されたレプリカの人数からいくと、その『二人組』はそれほど少なくもないはずだ。ディストは研究者として、その多くの例を見ただろう。その上での結論がこの本なのだ。

 ふと、ケセドニアで知り合った紅薔薇と白薔薇ならぬマノラとオフェリアを思い出した。二人とも容姿の点ではあまり変わらない。オフェリアの方がほんの少し色白で、マノラの瞳が濃い茶系であるのに比べ、やや赤みがかった紅茶色をしているくらいだろうか。が、雰囲気というとこれが対極にいるくらい違う。マノラは力強く、情熱的で華やかな美貌、というのがぴったりだが、オフェリアは同じように華やかでありながら、どこか奥ゆかしく清楚な雰囲気が漂う。──口を開けばどちらもどちらだったが……。

 あの二人はこの本を、あるいはその要約本を読んだだろうか? 毎日忙しい二人に本を読むような時間がそうあるとも思えなかったが、読んだらどう思うだろうと好奇心が疼いた。ルークはただ一度客として訪れ、挨拶程度の言葉を交わしただけだったが、思い切って話しかけてみれば良かったと思う。
 今度ケセドニアに行く機会があったら、自分もレプリカであることを打ち明けて、オフェリアをお茶にでも誘って話をしてみようか。なんだか被験者の悪口大会になるような気もするけど……。そう考えて笑みがもれる。

「……さま」

 アッシュはこのことを言いたくなさそうに言い濁していた。ルークも、今ははっきりとその理由がわかる。アッシュはルークに普通じゃないキスをして、浮気者の女房が夫や間男と窓際でするようなことをルークとしたいと言った。
 そういう『好き』だと、はっきり言った。
 アッシュは気持ち悪くないかと尋ねたけれど、ルークだってそういう感情が必ずしも男女間でのみ交わされるものではないことくらいは知っている。わざわざそう尋ねてきたということは、それを気持ち悪く思うものも確かにいるんだろう。ルークは嬉しいと思いはしても、そんな風には思わなかったけれど。

 だが、こうなると話はそれで済まなくなる。
 ルークがアッシュを受け入れる、受け入れないの話ではなく、許されるか、許されないか。そういうことなのだ。

「ルーク様?」
「あっ!」メイドが気遣わしげに顔を覗き込んでいるのを見て、ルークは慌てて顔を上げた。「ご、ごめん。考え事、してて」
「いえ、構いませんよ。おぐしを整えますから、座っていただけますか」
「あ、うん。ありがとう」
「来週はマルクトへ発たれるんですよね。ネイス博士にも面会されるんですか? カーティス様のお知り合いと伺いましたが……どんな方なんでしょう?」
 ネイス博士──ディストがジェイドの幼なじみで、ともにマルクトの誇る天才と呼ばれているのは周知の事実であり、ジェイドのことはこの屋敷に三年以上いるものなら知っている。ジェイドは顔だけは良いし、その本当の性格まではバレていないから、メイドたちに密かに人気がある……らしい。それでなんとなくディストのことも気になるらしかった。
「ジェイドとおんなじで、すごく若く見えるし、顔も悪くないんだけど……なんというか、かなり騒々しいんだ。おれ、かなりうぜえヤツって印象しかなくてさ。こんなまともな本書けるんだって、実はけっこう驚いた。おれに会いたがってるらしいってアッシュから聞いたような気もするけど……なんだかまたろくでもないことになりそうで、ちょっと怖いんだよな」
「まあ」
 メイドはおかしそうに笑いながら、細くふわふわした髪質の毛を丁寧に梳いていく。日の光に晒されていない髪はまだ痛みがなく、香油を付けた櫛で梳けば梳くほどつややかに輝いた。また延ばしてはいるのだが、まだまだ短い髪をメイドは楽しそうに梳きとおし、一つにまとめてリボンで飾ってくれた。「さ、出来ましたよ」
「ありがとう。……いつも思うけど、なんかおれじゃないみてーだよな」

 メイドに渡された鏡の中から、見覚えがあるようでない、真っ白な顔の貴族の少年が、困惑に揺らぐ大きな瞳でルークを見つめ返している。ここに帰ってきてからもう半月になろうというのに、ルークはまだこの顔に慣れない。何度も肉刺を潰して固くなった手のひらも、節の目立つ指もない。薄い身体には目立つ筋肉もない。これは借り物の身体で、どこかに自分の本当の身体があるのではないか……そんな気がしてならないのだ。そうでないなら、必死で生きてきた七年間のルークの歴史は、どこへ行ってしまったというのだろう。

 一年近く続いた旅暮らしで、ルークは自分の手で料理をし、割れないことを重視して選んだ安い食器につぎ分けて、なんのかんのと感想を言い合いながら食事をすることに慣れきってしまった。人は楽しいことにはすぐ順応出来るのに、そうでないことにはなぜなかなか慣れることが──いや、戻ることが出来ないのだろう。夕食のたびに正装に着替えるのは、今では窮屈で面倒で──苦痛に思えることの一つだった。
 ルークからすると、半月前までは自分をレプリカだとどこか見下していたはずの使用人たちが、主人であるクリムゾンによってルークの立場がはっきり決められた今、内心はどうであれ『ファブレの後嗣』と見なしているようなのも、ルークを気おくれさせる。

 脱いだ服や、ブラシや髪油をまとめているメイドに気付かれないよう、ルークはひっそりとため息をついた。


連作のときはいつもまとめてアップを心がけていましたが、今回は一話づづですみません。最後まで書けてはいるので、ごっそり間が開くことはないかなーと思います。(2012.06.21)