悪夢はもう見ない 03

 一年ぶりのエルドラントは、前よりもさらに雑草に席巻され、乖離が進行し、崩壊していた。遺跡自体はほとんど見えなくなって、まるでゆるやかな勾配のある緑の丘のように見える。その緑の絨毯の上を、音素の光が瞬きながら流れていた。崩壊してゆくエルドラントが第七音素に変じたものは、敷き詰められた雑草の上を転がり、或は跳ねるように。上からふわふわと落ちてくる光は蝶のように舞いながら、月光に淡く反射し、煌めきながら一カ所に収束しているようだった。

 ぎくしゃくする手足を必死で動かして光の終点に近寄ると、音素の光が人型を形作りながら結集しているのが見えた。
 顔はまだわからない。男か女かさえ。
 しかし、アッシュにはそれがこの一年、ずっと待ち望んだ半身であることが分かった。
 帰還してから死霊使いに大爆発の真実を聞かされ、受けた衝撃と絶望。アッシュがルークの記憶を持たないことを知って、示唆されたルーク帰還の可能性。ほとんどゼロと言われた、小さな小さな希望の灯りがここにある。
 アッシュは安堵のあまり、頽れるように側に座り込んで、大きく息を吐いた。

 ただ、静かだった。

 小さな音素の光が人型を作っていくのは、大河を塞き止めるために手で砂を投げ入れ続けるような途方もない作業に思えたが、アッシュは飽くこと無くその光景を見守っていた。
 少し経ってから人のかたちをした光の固まりの左側に、アッシュはそっと横になった。手が触れるか触れないかという距離で、この一年、いや、もうずっと無かった穏やかな気持ちで上を見上げた。第七音素の光が、アッシュの上にもやさしく振ってくる。

 初めは、憎んでいた……のだと思う。薬漬けにされ、洗脳もされていたとはいえ、それはひどく自分勝手な、理不尽な憎しみだったのだけれど。
 きっかけは誘拐だったが、その先でヴァンに聖なる焔の光──ルーク──に詠まれた預言の真実を聞かされ、戻らないことを、ヴァンに協力することを決めたのは確かに自分だった。
 だが、あろうことか自分が捨ててきた場所に、今は身代わりのレプリカが戻されているとヴァンに告げられると、強い決意と共になされたはずの、家を捨てるという選択はあっさりと揺らいだ。
 それでアッシュは、自分の決意がヴァンの思想に共感して為されたわけではなく、自分が家を捨てることで、父や伯父に自分が味わった苦痛がどれほどのものであったのかを思い知らせたい、後悔させたいと言う子供じみて甘い気持ちがあったことに気付いたのだった。
 代わりが戻ったのなら、彼らは自分の不在には気付かないかも知れない。永久に自分に対しなんらかの罪悪感を持ち、後悔することも無いかも知れない。そうすると、彼の家出──こうなると本当に家出としか言えない──は全く無意味な行いとなってしまう。

 一度逃げ出してしまった人間は、容易くそれを選択する。

 ヴァンの監視の隙を突いて、「ルーク」は捕われていた牢を抜け出した。
 彼は確かめなければならなかった。
 彼を苦しめ続けた大人たちが入れ替わりに気付いたのかどうか。彼の選択に狙い通り報復の効果はあったのか。……気付いてもなお、家を捨てようとした彼を愛してくれるのか。……いや、自分はそもそも愛されていたのか。
 レプリカ情報を抜かれた後、協力者とも言える「ルーク」を牢に閉じ込めたのは、彼の気持ちをヴァンが敏感に見抜いたからか。後遺症で万全といえない体調のまま、冷たい環境の中で唯一温かだった母の胸を目指してアッシュは駆けた。発熱と悪寒に苛まれ、襲い来る魔物の血と臓腑をかぶりながら……。

 だが、彼が捨てて逃げ出した場所は、再び彼の希望を打ち砕く場所となった。
 そこには、ヴァンの言う通り、彼とおんなじ顔をしたレプリカの子どもが、彼のふりをして収まっていた。その子どもは大声を上げて泣き、笑い、怒り、暴れていた。やりたい放題だった。血泥に塗れたおぞましい姿で、その光溢れる穏やかで滑稽な光景を覗き見たアッシュは、自分と同じ人間とは思えないレプリカのあまりのさまに唖然とする。
 続いて憤怒が彼を燃やした。あまりも「ただの子ども」であるレプリカにではなく、それを苦笑とともに甘受する周囲の大人たちにだ。
 そんな子どものような振る舞いが何故許されるのか。
 何故笑っているのだ。何故、抱き上げ、あやし、頬ずりし……そんなに愛おしそうに見つめるのだろう……。

 ただ、愛されるためだけにそこに在る子ども。

 それは自分には許されなかった振る舞いだ。いや、子どもであることが、彼には許されていなかったというのに。それが許されるのなら、許されていたのならば、何故。自分は。

 愚かな子どもは、そうしてヴァンの思惑にまんまと嵌り、何の罪も無い哀れなレプリカを憎むことになったのだ。
 彼は、子どもが入れ違ったことに気付かず、ただ抱きしめ愛する母をどうしても、どうしても憎むことが出来なかったので……。

 ふわりふわりと落ちてくる光の雪を見つめていると、自分の心から凝り固まった醜いプライドや虚飾、憎しみや蔑み、ありとあらゆる負の感情が不思議と剥がれ落ちていくようで、アッシュは素直な衝動のままに右手を伸ばして、第七音素が形作る彼のレプリカの左手に触れた。それはまだ光にすぎず、すり抜けて下に落ちてしまったのだが、涙が出るほど暖かく感じ、思わず笑みがこぼれる。

 これは、自分の『半神』。
 これは、この世でただ一人、人というには異形に過ぎる自分と位階を同じくする生き物。
 人成らざるものの完全同位体である、人成らざる孤独な彼を唯一、真に理解するもの。
 何と引き換えにしても得たいと、強く望む存在。

 アッシュはそのまま目を閉じて、子供の頃家を出て以来初めてとも言えるほど、心地よく訪れた眠気に身をまかせた。

 一年前ここに倒れていたときのように、眩しさに目を開けた。日は既に高く、夢すら見ずに安心して眠り込んでいた自分に少し驚いた。愛するものが隣にいるからなのだろうか。
 ふと隣を見ると、全身に淡い光をまとった人の姿が目に入り、思わず起き上がって頬に触れる。
 その姿は確かに、アッシュの完全同位体、レプリカルークに間違いなかった。
 美しい、良く出来た美術品のような躯。
 人が生まれた時から持っていると言う汚れを、全く感じさせない無機物のような躯は、如何なる欲望も喚起させることなくそこに在った。
 微かに吹いている風に、その柔らかそうな髪はこそりとも動くことはなく、文字通り人形のように横たわるレプリカ。生まれたての、一度も日に焼いていない雪花石膏の頬はひんやりと体温を感じず、頬の手はそのままに親指で唇を確かめるように触れるも、微かな呼気さえ触れては来ない。焦りが身の内を熱く焦がす。早く会いたいのに。……抱きしめたいのに。

 完全同位体でありながら、全く瓜二つとは言えないルークとの違いを見つけるたび、その差異に魅かれて来た。ことによると、これも一種のナルシシズムかも知れないと密かに恐れてきたアッシュだったが、今この新しい器を見て、そうではなかったと確信でき、安堵する。
 最初に惹かれたのが例え器の部分だったとて、結局アッシュを強く惹き付けるのはその無垢で強靭な魂なのだった。

 一糸纏わず子どものように無垢に、レプリカは横たわっていた。臍や足の爪の形までアッシュと寸分変わらないのに、自分とは全く違うと区別のつく体が不思議で仕方がない。

 ──そもそも髪の色がそれほど違う時点で、遺伝学的に同じ人間なんてことがあるはずがないでしょう。フェオメラニンの量からして貴方とレプリカでは違うし、しかも彼は毛先に行くに従ってその量を減らしていくという、貴方には無い遺伝情報を持っている。音素振動数が全く同じということと、遺伝子配列が全く同じということは別のことです。フォミクリー被験者とレプリカの関係は、双子とは全く違うんですよ。
 え? 劣化ですって?
 ああ、確かに人体を構成する音素の見地から見れば『劣化』していますね明らかに。ただ、遺伝学的には複製に原本との差異が現れるのは悪いことではありませんからねえ。そもそもあなたはすでに彼を『別の人間』だと思っているのでしょう? そうであるなら『劣化』という表現もまた相応しいものではないと思いませんか。

「お前がそれを言うのか」
「あなたがそれを言いますか?」
 マルクト皇帝と死霊使いに同時に突っ込まれていた元同僚のディストとの話を思い出す。
 服装も言葉遣いも何ら変わったわけではなく、相変わらず子供っぽく騒々しいやつだったが、六神将であったころより落ち着いて、浮ついた軽薄な部分が綺麗に無くなっていた。絡んでくる皇帝を煩わしげに払いながら、構われる嬉しさを完全に隠しきれてはいないようだった──。

 今までそんな機会が無かったからだが、こうして時間をかけて自分とルークの違いをしみじみと観察すると、ディストの話が改めて腑に落ちた。
 完璧に左右対称の躯は人ではあり得ないもの。だが、人でないものの同位体であるアッシュもまた、左右対称の完璧な形を持って生まれた。
 が、人の生活はそれを維持することを許されないのだ。食べ物を噛むのに左右どちらが多いか、利き手はどちらか。ささいなことでも長じるにつれ人の体は歪みを大きくしてゆく。アッシュは右腕が、ルークは左腕が、剣士として酷使を重ねた腕がもう一方とは形を変えてゆくように。
 ふと思いついてルークの左手を取ってみる。節くれだった指も、固くなった手のひらもなく、柔らかく、頼りない少女のような手。レプリカが苦労して手に入れたであろう剣士としての努力の証がすべて失われていることには、思わず同情してしまうアッシュだった。その創られたばかりの歪みのない完璧な造形は、剣士としては逆に歪に映る。
 けれども、このレプリカはすぐにそれを手に入れるんだろう、たゆまぬ努力と研鑽を積んで。これから時間はいくらでもある筈なのだから。

 火種がないので火を起こすことは出来ない。あらかじめ分かっていたので日持ちのする携帯食を持って来ていたのだが、空腹は全く感じなかった。ただ、ひどく穏やかな気分でルークの横に寝転がり、手をつないで空を見ていた、時間の感覚も曖昧な中で。

 ただひたすらに待っていた、その瞬間を。この生まれたばかりの器に、魂が戻るのを──


 誤字ではとのご指摘を受けまして、注釈を付けさせていただきます。「半神」は敬愛する漫画家、萩尾望都さんの『半神』という作品の、シャム双生児の姉から妹への複雑な愛憎に掛けたもので、「半身」の誤字ではありません。とは言え、この作品を知る人以外に分かるはずもないので……すみません。そういうことでよろしくお願いします。ついでに、未読の方には熱烈にオススメ致します!! (2011.06.09)