悪夢はもう見ない 02

 どんよりと澱んだ紫色の空の下、無機質な造りの都市の通路をアッシュは急ぎ足で進んでいた。
 やがて、見覚えのある紅緋の髪が悄然と肩を落として歩いているのが見え、アッシュは焦った。寸分違わぬ、とは言えないが良く似た体つきに身長ながら、アッシュには叱られた小さな子供のようにしか見えなかったからだ。

 屑、レプリカ、ルーク。

 どの呼びかけもそれぞれ別の理由で口に出すことが出来ず、アッシュはただまっしぐらに駆け、ルークの肩を掴んだ。
「お、お前! どうしてお前がここにいる! 師匠はどうした?!」
 驚愕に見開いている瞳の奥に、まぎれも無い嫌悪感を見出しながらも、それに気付かないフリをしてアッシュは言った。
「ヴァンのことなんざどうでもいいんだよ! それよりお前、大丈夫か?」
「な……なにが」
「お前、超振動を使う訓練してねえだろ。半端無く体力が持って行かれてるはずだ。……ヴァンに何をされた?」
 ルークの瞳に、嫌悪感に取って代わった困惑が浮かんでくる。決して責められているわけではないと悟ったのか、ルークはみるみる眉尻を下げて泣くまいと言うように瞬きを繰り返す。

 そう、責められるから反発しただけで、本当は自覚していた。すでに罪の重さに潰れてしまいそうになってたんだ。
 あんな風に責めるべきじゃなかった。

 ──何か、ルークが一生懸命に話している。顔を隠した前髪の下から、口元が微かに開閉を繰り返しているのが見えるのに、アッシュにはルークが何を言っているのか聞き取ることが出来ない。
 それも、当然のこと。
 そもそもアッシュはユリアシティでルークにそんな問いかけをしてはいないし、無論それに対する答えなど知らないからだ。
 もどかしい思いで見つめていると、ルークの足下にぽつぽつと水滴が落ちて染みを広げてゆく。
 それを見て、アッシュは一番にしなければならなかったことに、いつもここで初めて気付くのだ。
 そっと抱き寄せて片腕で頭を抱え込み、己の肩口に押し付けると、堪り兼ねたようにルークの体がしゃくり上げ始めた。
「泣くな。お前のせいじゃねえ」
 ルークの頭が、肩口に押し当てられたまま、激しく左右に振られる。
「違わねえ。無知は言い訳にはならない。だから、お前に罪が無いとは、俺も言わねえが、お前だけのせいでもねえんだ。俺も、アクゼリュスの崩落に手を貸しちまったんだ」

 お前を追いつめることで……。
 だからもう泣くな。俺まで泣きたくなる。

 アッシュはきつく眉を寄せて、ますます強く己のレプリカを抱きしめた。

 タルタロスで、カイツールで、自分はルークを殺そうとした。
 被験者の優位性を思い知らせるためだけに、ルークを操って仲間を傷つけさせようとしたこともある。
 そんな人間を、一体誰が信用するというのか、ルークがアッシュよりヴァンを信用するのは当然すぎるほど当然のことだったのに。それを、俺の忠告を無視したからこうなったなどとはよくも言えたものだ。

 すべてを棚に上げ、お前だけを責めた。
 すまない。……すまない、ルーク。

 何度も何度も繰り返されるアッシュの懺悔が聞こえているのかいないのか、ルークが泣き止むことはない。
 最初からすべてをやり直したいと強く願う自分の心が見せる後悔の夢。だが決して許されることのない夢。障気が覆う紫に澱んだ空は、己の心象風景そのままだ。
 やがて、腕の中のルークが淡い光を発しながら、はらはらと音素に還り始める。自分は行くなと叫びながら、拡散していく光を掻き集めようと虚しく足掻く。泣き叫ぶでもなく、仕出かしてしまったあまりにも大きな罪への苦痛に顔を歪め、ただただ静かに涙を零しながら乖離してゆく姿は、まるで理不尽にルークを傷つけ続けた己への罰だと言うように、幾度も幾夜も繰り返された。

 その夢はいつも同じところから始まり、同じところで終わる。気が狂わんばかりの後悔と罪悪感に責め苛まれ、起きると極度に疲弊し、冷たい汗で濡れそぼっているのが常だった。

 その朝、アッシュはいつもよりも二時間近く早く、目を覚ました。
 夢の中で何度もルークの名を呼んだ、その叫びの残滓が未だ耳に残るような覚醒だった。
 いつもと同じ夢。いつもと同じ、終わり。
 だが、アッシュの腕の中で乖離してゆくルークが今日初めて、行くなと叫び続けるアッシュと、正面から泣き濡れた目を合わせた。
 ルークは涙を零しながらも困ったようにアッシュを見つめ、我が儘なやつだなあ、と笑ったのだった。
 いつもなら何も残されない手の中に、ルークが流した涙の感触が残っているような気がして、アッシュはぎゅっと手を握り込んで狭い寝台に身を起こし、目を閉じた。

 回線をアッシュは最初、頻繁に繋げようと試みていたが、最後に試したたのはもう三ヶ月は前になるだろうか。それはいつも相手を見つけられぬままに終わる。
 だが今朝、『気配』としか言えないものを、アッシュは確かに撫でたような気がした。その『気配』を、アッシュの感覚は確かめるように何度もなぞる。この一年、ずっとこういう日が来るのを待っていたのに、何かの間違いではないかという気がして何度も何度も確かめた。

 帰ってくる。

 気配の元を辿れば、その先にはエルドラントがあり、およそ一年前にアッシュもそこに帰還したことを考えれば、ルークが同じところに帰ってくると考えるのは自然なことだった。
 だが相変わらず回線が通じないことを考えれば、それはあくまで彼の予感にしか過ぎず、アッシュはこみ上げる喜びを頑な不安が覆っているのを自覚せずにはいられなかった。

 会いたい。
 触れたい。
 抱きしめたい。

 もう永遠に叶うことはないのだと思い知るのが恐ろしくて、ずっと考えないようにしていたささやかな願いが、希望の光を得て、どんなに押し殺そうとしても沸き上がってくる。
 期待するな、期待するなと自分自身に言い聞かせながらも逸る気持ちは抑えられなかった。

 手早く洗面を済ませ、目立たない私服に着替える。寝乱れたベッドを整えながら、さてどういう言い訳をすれば一人で任地を離れる言い訳になるだろう、と頭を巡らせていた。
 幸いにも、今アッシュがいるのはケセドニアで、エルドラントからは近い。往復するのにそれ程の日数は取られないだろう。
 副官に、新しくもたらされた情報の確認のため、少しの間任地を離れると──全くの嘘ではない──伝え、臨時の指揮権を無理矢理に譲渡する。ルークを迎えに行くことは彼が調べている「レプリカ問題」にも関わりがない訳ではないはずだ。

 自分もそうしたのだし、放っておいても自力で帰ってくるだろう……と、アッシュは思わなかった。
 それなりにしっかりしてきたとはいえ、アッシュの中ではなにくれと世話を焼かせるやつ、というイメージが定着していて、どうしても剥がせないでいたからでもあり、被験者の自分に対してレプリカルークが強く持っていた、罪悪感と遠慮のせいでもある。あのレプリカならば、放っておけば居場所は返したと言わんばかりに、行方をくらます可能性が高い気がした。
 それよりも何よりも、一年も待ったと言うのに、戻ってくるかとなると自分はもう、ほんの一分でさえ待てそうにないのだった。

 少し考えて、アッシュは大きな革袋──帰還の折りに追い剥ぎから頂戴したものだ。大きく、丈夫なので、未だに重宝している──の中に、アニスから餞別に貰った焼き菓子や小さなポットやカップ、着替えなどを片端から詰め込み、追いすがる部下たちを振り切って宿舎を飛び出した。

 街で必要なものを買い足しながら色々話を聞いてみると、崩壊当時には捜索の為に、しばらく経てからはトレジャーハンターたちがしばしば見張りの兵の隙をかいくぐって渡ったということで、大量の小舟が近くの浜に打ち捨てられたままになっているという。ああ、あれかとアッシュは頷いた。あれから一年は軽く経っているが、まだ使えるものがあるだろうか。

 エルドラントの対岸に着くと、丁度日が沈む頃だった。
 じりじりと暗さが増していくと、昼間の明るさの中では決して誰も気付かないだろう、全く違う光景が現れた。その光景を見て、アッシュは予感が確信に変わるのを感じた。

 第七音素の小さな光が、四方八方、いやオールドラント全域から磁石に引かれるよう集まってきていて、雪が降り積もるように降り注ぎ、エルドラントはまるでそれ全体が淡く発光しているように見えた。
 沈んで行った太陽の代わりに大きな月も出ていて、譜石帯に散らばる譜石を青白く照らし、遮るものの無い海を明るく照らす。海の底からも音素の光は立ち上り、月光にきらきらと反射しながら、滝から流れ落ちる水を逆回しで見るようにエルドラントを遡っていった。

 アッシュは息を飲んでその光景に見入った。ここで確かに何かが起こっていると自分に知らしめるのに、これほどの舞台効果はあるまい。早く、少しでも早くと焦燥に駆られていたのを宥められた心持ちで、彼は浜に繋がれた小舟の中で最も痛みの少ないものを選ぶと、荷物を乗せて海へ静かに押し出した。