悪夢はもう見ない 01

 焼けるようなのどの渇きに、アッシュは目を覚ました。

 目の前に広がるのはどこまでも蒼い空。譜石帯の他には何も無い──雲の一筋さえ。まっすぐに刺さってくる陽光に、手をかざして日差しを遮り、眉をしかめて目をしばたたいた。頭上高く、大きな鳥の影がよぎっていった。

 起き上がろうとすると、体に力が入らなかった。もがき、呻きながら寝返りをうち、なんとか手足に力を入れようと無様にあがく。
 ぎりぎりと奥歯を食いしばり、唸り声を上げながら四つん這いの姿勢までもっていくと、すでに息が切れていた。大きく、忙しなく呼吸をして、息を整える。
 額を伝って目にしみる汗をぎゅっと目を閉じてやりすごすと、頭の芯を酩酊感にも似ためまいがした。
 やがてそれらが収まると、雑草に覆われたうず高い瓦礫の山に捕まりつつ、やっとの思いで立ち上がった。

 すうっと潮を含んだ風が汗ばんだ顔をなでていく。見覚えのない景色に内心首を傾げ、しばらく記憶を探っていたが、ややあって記憶に合致するものを見出し、驚きに目を見開いて周囲を見渡した。
「……エルドラント、なの、か……?」
 それにしてもこれは一体どういう有様なのだろう。自分が死んでしまったあと、ここは崩れたのだろうか。そうだとしても、この荒廃ぶりは昨日今日のものとは到底思えない。
 そこで己の最後を思い出し、ぼろぼろの教団服をこわごわはだけて確認してみると、貫通した剣のあとが三つ、かすかに盛り上がるような傷跡となって残っていた。治癒したばかりのような生々しさもなかった。肺も傷つけたはずだが、呼吸に支障も感じない。
 確かに致命傷だったはずなのに自分は死なず、傷は修復されている。くっきりと傷跡が残っているのは、譜術に頼らない自然治癒が行われた証だった。

 瓦礫にもたれて、改めて周囲を見回す。
 崩れた遺跡には雑草が生い茂り、小さな島のような様相を呈している。中空に偉容を誇って佇んでいたレプリカ大地の面影はすでにない。
 ここに突入したのはついさっきのような気がしているのに、荒廃したこの有様と自分に残る致命傷の痕が、確かな年月の経過を感じさせた。

 あれからどのくらい経ったのだろう。
 レプリカは無事でいるだろうか。きっと無事でいるはずだ、ヴァンに破れてさえいなければ……。
 いや、負けたはずはない。音素乖離寸前のぼろぼろ状態だったとはいえ、能力的にはレプリカを遥かに凌駕する被験者のアッシュを倒して決戦の場へ向かったのだ。そしてアッシュとは違い、レプリカには頼もしい仲間もついていた。負けるはずがない。必ずヴァンを倒したはずだ。そしてローレライを解放したはずだ。
 アッシュはひりつくのどの痛みを堪え、目を閉じて同調フォンスロットを開き、レプリカのそれを手繰ろうとした。一度意識してしまうと、たまらなく無事が知りたかった。

 ──そして、彼の半身でもある存在の気配が、ぷっつりと断ち切られているのを知ったのだ。
 レプリカの存在を求めて世界中に拡散した彼の意識は、何の手応えも得られぬまま戻って来た。
(レプリカ! レプリカ、聞こえねえのか?!)
 何度繰り返しても、返答がないどころか存在さえ掴めない。
 ゾッと背筋を冷たい手が撫でて行った。手足が急速に冷たくなってゆく。
 この恐怖感には憶えががあった。レムの塔で、レプリカの体が一瞬透けているのを見た時だ。宝珠の拡散能力に気付き、障気を消すためにただ力を貸したと嘯いたが、本当はそれだけではなかった。透けてゆくレプリカの姿を見て、失われるかもしれないと恐怖を感じた時には、持てる力のすべてで死霊使いを突き飛ばしていた。結果心中することになったとしても、後悔などなかったろう。あの瞬間、確かに彼は、ローレライの解放のことなど考えてはいなかった。

 細かく震えの走る指先を呆然と見つめ、アッシュは恐怖を押さえるようにぎゅっと握り込んだ。
 とにかく、ここにいてもらちがあかない。誰かことの次第を知っている者を見つけて、どうなったのか、何があったのか、聞き出さなければならない。
 レプリカがどうしたのか、何故自分が生きているのかも……。
 360度のぐるりを海が囲んでいるが、近い所に岸も見える。このくらいなら泳いでも辿りつけるだろう。体力が万全ならだが…。
 目を覚ましたのがせめて陸続きの場所であれば良かったものを、と舌打ちをしてみても、自分が果てたのがここであるならまず文句を言っても仕方のないことなのかも知れなかった。

 海へ降りられる場所を探し当てる頃には、体はすっかり普通に動くようになっていた。飛んでしまった時間の間に手足が萎えてしまったと思っていたが、己の意思と体が、壊れかけの譜業のように上手く接続されていなかっただけのようだった。
 空腹も辛いが、何より乾きが堪え難かった。目に入る場所に水はたくさんあるのに、飲めない水であるという事実が更に乾きを煽ってくれる。
 仕方なく手頃な小石──元は何か建造物の一部なのだろうが──を拾って口に放り込む。飴玉のようにしゃぶっていれば多少は唾液が出るのだが、いずれ本格的な乾きが襲えばそれすらままならなくなるだろう。
 やっとの思いで海まで降りて水温を確かめると、まだ日が高いせいか暖かい。濡れてまつわりつく衣類によって失われる体力と倫理観をほんの一瞬天秤にかけ、躊躇なく倫理観を捨てた。思い切り良く服を脱いでしまうと血を吸って朽ちかけたタバードですべてを包み、小石を吐いて海に飛び込んだ。

 水温が高く、波が穏やかなのが幸いして、半時も泳げば岸辺に着いた。この状況で我ながらよく体力が持ったものだと自分自身に感心する。
 浜には大小さまざまな大きさの小舟が打ち捨てられていて、ちょうどいい日陰にも目隠しにもなってくれた。こんなところにそうそう人など居るまいと思っていたが、船があるということはその限りでもないのだろうか。
 縛ったタバードをほどいて服をチェックしてみるが、血が染み込んだところから朽ちて解れて、惨憺たるありさまだった。着ても着なくても人前に出られるようなものでないのなら、少なくとも着ていた方がまだしもと判断して、ひとまず最低限の肌着と脚衣のみを着用し、あとは乾かすことにしたのだが……。
「……どういうことだ」
 なぜ脱ぐ時に気付かなかったのか、裾がかなり短くなっている。ゆうに十センチは足りないだろう。
 試しに上着も羽織ってみて、アッシュは溜め息をついた。下にまっすぐ伸ばしても手首の骨が丸出しになっていた。海水に浸かったせいで縮んだというわけでもあるまいに……。
 取り敢えず、残りの衣服とブーツは海水を良く搾って砂浜に広げた。まだ日は高く、砂浜は熱いので、乾くのは早そうだ。
 その間にとりあえず水を探さなければと周囲を探索してみるとさほど苦労せずとも川を見つけることが出来た。
 川の水はどちらかといえばぬるかったが、瞬く間に焼け付くような乾きを癒してくれた。ついでに体ごと飛び込んで潮っぽい体を流す。
 何か入れ物があれば水を汲んで行けるのだが、そうもいかないのでしばらく川沿いを行けばいいだろうと判断して浜に戻る。服は白っぽい塩をところどころに浮かせてはいたが良く乾いていた。
 下はどのみちブーツで隠れてしまうのだが、シャツや上着はもうどうしようもないので諦めて肘までまくり上げる。早急に整えたいがアッシュは当然先立つものどころか剣さえ持っていない。このあたりの魔物なら棒切れでも苦戦するようなことはなさそうなので、倒しながら地道に小金を稼いでいくしかないだろう。
 と、思っていたのだが……。

 アッシュを恐れて襲いかかってこない魔物を追いかけ回すのも気が引けて、どうしたものかと思いつつ街道を目指していると、幸運なことに追い剥ぎに会い、身ぐるみを剥がしてやることが出来たので、案外簡単に旅の支度を整えることが出来た。奪ったマントは幾分臭う薄汚れた代物だったが、塩を噴いて白い縞模様になっている黒衣よりはましなはずだ。
 したたかに臑を折られて転げ回る追い剥ぎの横で悠々と物色を済ませ、作った荷物を担いでアッシュはケセドニアを目指したのだった。