愛の祝日 2話

 鏡に向かってかたち良くタイを締めたあと、少しもたついているアッシュにルークが「おれがやるよ」と手を出した。
 ルークはアッシュに比べると「出来ること」が格段に少ない。ともすれば自信を失っていくばかりだっただろうが、ルークはアッシュなどと比較にならないくらい強い少年だった。自分にしか出来ないこと、自分の方が得意なことを少しずつ見つけ、ルークという一人の人間を再構築していっている。十年近く軍服が正装という生活を送ったアッシュが正式なタイの結び方など憶えているはずもなく、見かねたルークがどこか嬉しそうに手を伸ばして来るのに苦笑して、アッシュはタイから手を離した。
 ごくわずかな間アッシュの首の辺りでごそごそしたあげく、向かい合わせになると上手く行かないことに気付いたルークは、アッシュを椅子に座らせておいて背中側から抱きつくようにタイを整えていった。こんなささやかな触れ合いすら同居を始めてしばらくの間は遠慮していたことを思えば、物怖じせずに触れられる程度には気を許してくれているのだろうと嬉しくなる。
 ──衣装越しに感じるルークの体温と、頬の真横に触れんばかりに近づけられたルークから香る、石鹸の清潔な香りをつとめて意識から閉め出すには、いささかの努力が必要だったけれども。

「アッシュは軍服も似合うけど……肩幅あって胸も厚いし、こういう正装、似合うよな」
 背中側から鏡越しに視線を合わせ、ルークが羨ましそうに呟く。元来同じ身体のはずなのに、ルークの胸はそれほど厚くならないという。帰還から一年と少しを経て、身長も数ミリしか伸びなかった。アッシュに言わせれば、それは彼のひどい偏食に原因のほとんどがあるのだが、わかっていてもダメなものはダメということなのでは仕方が無い。なので嘘を言う必要のない褒め言葉だけを、アッシュは口の端に乗せた。
「お前もよく似合ってる」
「ほんと? おれもすげー気に入ったよ。ありがと、アッシュ」
 今日の食事のために作っておいた服なので、ルークは服と食事が贈り物だと思っているようだった。嬉しそうに自分自身を見下ろして、はにかんだ笑みを見せる。
 ルークは鏡越しにもう一度アッシュを見つめ、ふと思いついたように待ってて、と言って自分の部屋に駆け込むと、開きかけた真紅の薔薇を一輪大切そうに持って来てアッシュの胸に差した。
「これ……」
「あんまり普通で悪いんだけど、おれ今自分の稼ぎで食ってるわけじゃねーし、花束とカードしか用意してないんだ。帰って来たら渡そうと思ってたんだけど、今は一輪だけな。──うん、やっぱすげー似合う、こういう気障な感じ!」
「気障な感じ」が褒め言葉なのかどうなのかは微妙なところだったが、アッシュは笑ってルークを抱き寄せ、軽く触れるだけのキスを返した。

「前菜にケーキが付いてる! 美味い! でも変わってる!」
「この生ハムすっげ美味い! ソースが絶品!」
「にんじん……ダメ。お前、食って」
「うう……チキンもいいけど子牛も捨て難い……。これ、旅の間ずっとチキンで作ってたんだ、材料費ケチって。あれはあれで美味いけど、やっぱりキムラスカ料理! っていうと子牛かも」

 部下たちに揶揄された噂の店は、キムラスカの宮廷料理をアレンジした料理で評判になった、高級レストランのうちの一つだ。
 アッシュにほとんどなじみがないのはもちろんのこと、ルークにとっても物珍しいものが多かったが、見た目にも美しく、舌も目も楽しませてくれる料理に、ルークがはしゃいで一つ一つに感嘆の声を上げるのを見て、ウエイターが嬉しそうに料理の説明をしてくれ、コースにないお薦めのメニューをこっそり教えてくれたりもする。
 種無しパンが主流のケセドニアにおいて、外側はかりかりで、割るとバターの香りが立つふわふわのパンは自分で作らない限りはなかなか口には出来ないものだ。それを千切る所作は相変わらずお手本のように美しい。十年の間に錆び付かせたアッシュや、にわか仕込みが明らかな周囲の多くの客とは、明らかに一線を画した、美しいマナーだった。

 問い合わせた日どころか、ルークの誕生日にすら予約が取れなかったのに、なんとなく諦めきれずに一年近くも先の予約を入れてしまったのは、こうしてみるとルークのこの姿を見たいがためだったような気すらする。そうでなくとも、この所作が自分のように見る影もないほど崩れていくのは惜しい。正装が必要なレストランとなると正直敷居が高いし面倒だが、時々はこういうところで食事をするようにして、守っていきたいと思う。

「今日、学校はどうだった?」
「おれもみんなからカード、貰ったぜ! 大袋のチョコ一つずつでも、貰う人数が多いとそれなりになるんだな。大変だろうって、先生がみんなに紙袋配ってくれたよ。たくさんあるから、アッシュも一緒に食ってくれるといいんだけど」
「……少しだけならな」
 甘いものはどちらかといえば苦手な質だったが、ウァレンティヌスの祝日に軽く摘むことができないほどではない。

 様々な法の整備の結果、刷り込みのないレプリカは戸籍を置く国の義務として小学校、中学校へ通わせなくてはならなくなった。ルークは七年間を外見と同じ年齢として扱われ、社会経験も積んだが、刷り込み教育を受けてはいない。例外は認められなかった。いや、ねじ込めばなんとかなったのだろうが、「英雄ルーク・フォン・ファブレ」とその保護者でもある被験者を目の前に、汗だくになりながら断固法を押し通そうとした若い役人相手に、立場と知名度を楯に無理を言う気には到底なれなかった。ルークは気弱げではありながら必死で反論をしていたが、アッシュ本人はむしろそうするべきだと納得し、異議の申し立てをしなかったのだ。

せめて、レプリカはレプリカでまとめた学校であれば良かったのにと、ルークは帰り道もぐずっていたが、建設中だったレプリカの街に待ったをかけたのはこの世界に戻って来たばかりだったアッシュ本人なのだ。住み分けは真の融和を阻むという『英雄』の発言により、政策は共存から融和へと変更されることになり、少しずつではあるがここ、ケセドニアでは上手くいきつつあり、アッシュはほっとする思いでいたのだが、学習制度のことまでは頭になかった。アッシュはどうしてもルークを外見年齢で見てしまっているし、二人ともに自分たちには無関係だと思い込んでいたからだ。

 まるで外見に早くあわせようというかのように、レプリカは急速に伸びるという。多くは飛び級で卒業するという事実がなんらかの慰めになったか、アッシュが味方についてはくれないと悟ったからか、ルークはさんざんぐずった末に若い役人の前で悄然と頭を垂れた。

 ふて腐れて半年間の予備学級に通ったあと、ルークは一年生からではなく三年生からのやり直しを認められ、同じレプリカや、本当の三年生とともに小学校で机を並べることになった。
 ルークはむろん学校に通ったことなどない。あれほど抵抗していたくせに、ルークはたちまち真の年齢に逆戻りしたかのように馴染んでいった。子どもは大人よりもレプリカに対する差別意識が少ない。学年は同じだけど「なんか、おとな」なレプリカは、同い年の少年より先に大人になる少女たちにはかなり魅力的に見えるようで、照れくさそうにルークが手紙を貰って帰るたび、情けなくも複雑な気分になるアッシュだった。


(2012.02.14)