【2】


 父と共に領地べルケンドへ赴き、半月ぶりにバチカルの屋敷へ戻ったアッシュは、帰宅の挨拶のために向かったシュザンヌの部屋で、久しぶりにルークの笑い声を聞いた。
 驚いたように中庭に視線を向けると、シュザンヌが息子の視線を追って中庭を見、ああ、というように頷いて嬉しそうに笑った。
「ガイが、お友達の皆さんを連れてあの子を誘いに来て下さったの。あの子があんなに楽しそうに遊んでいるのはどれくらいぶりかしらねえ。色々お忙しい皆さんにご無理を言って、滞在を延ばしてもらっているのですが……」
 中庭に気を取られてすっかり気もそぞろになっているアッシュを見て、シュザンヌは話を途中で切り、笑った。「あなたも顔を出していらっしゃい」
「いえ、私は」
「アッシュ」
「──はい、母上」

 シュザンヌの部屋を辞して、気の乗らぬまま言いつけ通りに中庭に向かったが、弾けるような笑い声や、なにか叫んでいるらしい声は、アッシュをほんの少しほっとさせた。すっかりお茶の支度が整ったテーブルで楽しそうに笑い合うナタリアとティア、汗だくでガイと剣を交わしているルーク、それを近くで野次っているアニス、そんな光景を視界に入れると、そこへ踏み込んでいく気をますます失ったが、ルークが笑い方をちゃんと憶えていたということにアッシュは深く安堵する。

 大丈夫、ルークはまだ『こちら側』で笑っていられる──。

 ガイがこのところ剣術をさぼっていたルークの剣を弾き、汗を拭いながらテーブルに向かうと、ナタリアがすかさずカップを渡してやり、ティアが小さなサンドイッチを持った皿をガイに向けて押し出す。剣を収めて苦笑いするルークに巨大化したぬいぐるみが襲いかかり、しばらく格闘のまねごとをしていたが、それはすぐに単なるじゃれあいに変わった。
「まあアッシュ! お帰りなさい!」
 アッシュに気付いたナタリアが、笑い転げていた勢いのまま明るく弾んだ声で呼びかけてきた。その顔に一つ頷いてみせ、誘いの言葉がかけられるまえに黙って踵を返したアッシュの耳に、アニスの良く通る声が飛び込んできた。
「ルークが言うほど鈍ってないよぉ。この調子なら、すぐに勘も戻ると思うな! 向こうへ行ったら、みんなにも剣教えてあげるといいよ! きっと才能ある子もいると思うんだよね~」
「それは良いですわね! 彼らも、ルークにならきっと心を開いてくれますわ。あなたほど両者の架け橋として相応しい人はいませんもの」

 ──向こうへ行ったら? なんの話だ……。
 心臓が大きな音を立てて跳ねた。

「しかし、奥様はルークがここを出てレプリカの街へ移住すること、よく納得して下さったな? まだお前が目の届かないところにいるのが不安そうでいらしたけど」
「母上は……。で、でも、仕方ないだろ。アッシュはもう父上の秘書官みたいな仕事してるのに、おれだけいつまでも居候のままでいるわけにはいかねーんだから。おれも、おれができる仕事したいんだ。……こ、これは仕事だろ?」
 アッシュは足を止め、立ちすくんでいた。顔が見えないからか、ルークの返事にどこか必死な懇願がこめられているのがよくわかる。
 背には中庭から入る日の光があたり暖かいはずだったが、アッシュの背筋をひえびえとしたものがじわじわと這い登っていった。
「それはそうですけれど、居候ってなんですの!」ルークの心情に気付いているのかいないのか、ナタリアが笑い含みにからかう。「叔父様がアッシュだけをお連れになるのは、アッシュが成人していて『長子』という扱いになっていて、あなたが次子……末子で、そのうえまだ十歳だからですわ。十歳は、もちろん今アッシュがしているような勉強を始める歳ではありませんのよ」
「あなたはやっと十歳になったばかりですもの、本当は甘えたり、我が侭を言うのがお仕事の一つなんだと思うわ……特に奥様に対しては」
「ちょ、二人とも。そんなこと言って、ルークがじゃあ行かないなんて言い出したら困るじゃん!」
 ナタリアとティアの気遣いに、アニスが抗議の声を上げる。
「それをいうなら、ますますレプリカの街に行くべきだよ! レプリカの子はルークより年下かもしれないけど、孤児も大勢預かってるんだ。同じくらいの歳の子とたくさん遊ぶのも子どもの仕事のうちだとあたしは思うな。ほら、みんなもさ、そんな子ども時代、送ってないじゃん? せめて、ルークはさぁ……まだ間に合うわけだし……」
 しんという音が響くような沈黙が降り、アッシュは早鐘のように鳴る心臓の音が聞こえるような気がした。黙れちび、という叫びが血流に乗って体中を巡っている。
「ああ、アニスの言う通りだな。レプリカの子たち──あのころはルークやイオンしか知らなかったけど、こう仕事で大勢と接してると、外見がおばさんだったり爺さんだったりしても、やっぱりみんな子どもなんだなって頭じゃないとこで理解出来るようになるんだよな。それで改めて見ると、ルークは刷り込みがなかったのにすごい優秀な子なんだ。だから誰もルークの中身と外見に齟齬があることなんか疑っても見なかったし、レプリカだって、生まれて七年なんだって知ったあとでも子どもとして接するべきなんだって思いもよらなかった。けど、もう急いで大人になる必要もないんだし、アニスの言う通り、ゆっくり子ども時代をやり直して欲しい。今さら随分勝手なことを言う、と思うかもしれないが、あの子たちもそうやってゆっくり育てる方針なんだよ。みんなで勉強したり遊んだりしながら、ルークの知ってることを教えてあげたり、人とレプリカを繋いで、その間にある垣根を子どもたちの間から取り去っていく。そういう仕事の仕方もあると思うんだ」
「ガイ……」

 黙れ、ガイ。
 黙れ、黙れ、黙れ……!

 今、ルークはどんな顔をしているだろう。すまして立っていたなら誰も見分けることが出来ないほど『同じ顔』を、感謝と喜びに崩して泣き笑いのような表情を浮かべているであろうことが容易に想像でき、アッシュはきつく眉を寄せ、ぎり、と軋む音を立てるほどきつく拳を握りしめた。
「ルーク……。そうね、本当に、これはあなたにしか出来ない仕事だわ。あなたは意志も強いし……。手伝って欲しい。公爵様や奥様が反対なさったときのために説得のネタまで用意して乗り込んで来たのに……あなたにとっての最善がなんなのか、わからなくなって……。ごめんなさい」
「わたくしも……多分、いえきっと、ルークが行ってしまったら寂しいと、ちょっと思ってしまったんですの」
「うん、わかってる。ありがとうみんな。おれ……頑張るな」

 部屋に戻る道すがら、メイドやラムダスに何か話しかけられたような気もしたが、アッシュはほとんど無意識で返事を返しながらなんとか歩き続けた。自分がまっすぐ歩けているかどうかもわからないまま。

 ルークがここを出ていこうとしている。彼はとうとう大義名分を手に入れた──彼は請われて出かけるのだ、出て行くのではなく。屋敷を出るという意味ではおなじことなのだが、この二つの心情の違いは大きい。
 ここにいると、ルークはルークでいられない。常に誰かの目が、被験者であるアッシュとルークを比較し続ける。ここから逃れないかぎり、ルークはルークと言う一人の独立した人間ではなく、アッシュの影、ただのレプリカとして扱われ続けるのだ。
 そのようにルークを扱うものの代表が、ほかならぬルーク自身であるようにアッシュには思えた。ルークはレプリカの自分を息子と呼んでくれる両親や、兄弟と呼ばれることを黙認しているアッシュへの遠慮から、決して自分を解放しようとはしないだろう。
 いわば被験者と言う重石をぶら下げたまま少しずつ底なし沼に沈んで行くはずのレプリカは、とうとう重石を切り捨てて、一人這い上がることに決めたのだ。

 アッシュは胸を強く掴んだ。本当にここがどうにかなったのではないかというほどの、引き攣れたような、酷い喪失の痛み。廊下の壁にもたれて必死に呼吸を整える。自分の内側からルークという存在が持ち去られたら、その空洞はなにが埋めてくれるのだろう。孤独と虚無と飢餓以外の、なにが。
 アッシュはふいに、自分の内側が初めからからっぽであったことに気付いた。心がしんと冷えてゆく。ルークがアッシュのものであったことなどただの一度もない。内側の空洞を埋めてくれたことも、それを乞うたことも。身体だけを、ただ漠然と近くに置いていただけだ。アッシュはもうずっと独りで、からっぽだった。これからも独りで、堕ちていく。
『あちら側』に。
 無数の手で押さえつけられているかのように、身体がずぶずぶと床に沈んで行く。そんな気がした。

「……アッシュ!」

 焦りを含んだ声がして、アッシュはふと、冷えた目を開けた。着替えにでも戻ろうとしたのか、ルークがアッシュをまっすぐに見つめ、大慌てでこちらに走って来る。
「どうしたんだよ、どっか痛いのか?!」
 支えるように腰に手が回され、どこか怯えたような瞳がアッシュのそれを覗き込む。たった今まで動いていたためか、密着した身体から熱いほどの体温が伝わる。汗と、石鹸の──可憐で清々しい白い花の香りが混じった、ルークの匂いがふわりとアッシュを包みこんだ。
「……なんでもねえ」
 ここにきて少しずつ違えて来ているとはいえ、自分たちは顔も体格も変わらない部分の方が多い。ならば、自分とレプリカとでは体臭も同じなのだろうか。己のまとう匂いだからこそ、この朝露を含んだ花のような香りに、こうも安心するのだろうか。
 ちらりとそんなことがよぎり、アッシュは自嘲に鼻を鳴らした。鉄の臭いがすることがあっても、花の香など己がまとっているとは到底思えない。この柔らかな、ルークの性質そのもののような白い花を血の臭気で穢すのがまるで恐ろしいことのように思え、アッシュは力なくルークを押しやった。
「触るな。一人で平気だ」
「……っ、ごめん……」
 弾かれたようにルークは手を離したが、泥沼から一歩一歩を引き上げるような重い足取りを見てとるや、反射的にまた手を出してきた。
「あっ、ごめ……! で、でも、ベッドまで。そしたらもう触らねえから、ちょっとだけ我慢してくれよ……」
「……何言ってやがる」
 言葉の足りない自分の言いようが、ルークを誤解させたことに気付いたが、それを解くことが出来る言葉をアッシュは持っていない。解く必要があるとも思わなかった。
「血の臭いがしねえか」
「えっ?! アッシュ、どっか怪我してんのか?」
「いや。──ならいいんだ」
 どうやらアッシュが拒まないと気付いたようで、ルークはアッシュの部屋まで彼を支え続けた。
「……ここを出るのか」
 ルークがドアノブに手を掛けたところで問うと、その手が止まった。アッシュは一人で立てるし、歩けもするというのに、頑なに身体を支える腕がひどく緊張している。
 ややあって、ルークはどこか観念したようにふう、と息を吐き、同時に強張っていた身体から力が抜けた。
「……潮時かな、って。おれ……さ。ほんとはわかってたんだ、おれはここにいるべきじゃないって。ここはお前の居場所で、おれのじゃないって。でも、おれは」
「父上と母上がお前を息子と認めてんだ。お前にもここにいる権利がある。いればいいだろ」アッシュは話途中でその不愉快なルークの話を切った。「これまでさぼって来たツケを払って真面目に勉強してんのかと思えば。──結局逃げ出したいだけなんじゃねえのか」
「──っ違う!!」
 アッシュの嘲りをルークはとっさに否定したが、すぐに困惑したような顔をアッシュに向けた。「……おれはさ、郭公の雛みたいなもんじゃん。本当の雛を巣から落として、自分だけ育てさせた。何にも知らずに父上と母上はおれに餌を運んだ。本当の雛は、温かくて安全な巣から落とされて、敵に狙われ、飢えてもがき苦しんでたのにさ……。逃げ出すんじゃないよ? 頬白の巣には頬白の子がいるべきだと思うだけだ」
「……この巣はでかい。郭公の雛も頬白の雛も共存することが出来る」
「──ここは頬白の巣なんだ、アッシュ。郭公の雛は、餌を運んで育ててくれた頬白の両親が大好きだ。だから時々は会えたらいいなと思ってる。けど、巣の中にはいられないんだ。頬白の雛が、お前だけがいればいい。一番、自然な姿だ」

 話している間に気持ちが固まって来たのか、ルークはおどおどと泳いでいた視線を真っ直ぐに据え、確信したように話を結んだ。

「──黙れ……!」
「──?! な、」

 己を支えるルークの身体を振り払い、そのままの勢いでドアに叩き付ける。厚みのある一枚板の重厚なドアが、ひどく重い地響きのような音を立てた。反射的に身体を丸めたルークの顎を砕けるほどの力で掴み、仰向かせ、不愉快な言葉ばかりを紡ぐ生意気な唇に噛み付くような勢いで被さる。
「アッ、ぅ……ん、んん……ッ」
 もがくルークの身体を自分の身体全体でドアに押さえつけ、嫌がって左右に振られる顔を更に指先に力を込めて封じた。舌先で強引に歯列を割ると、舌をすべて突っ込んで大きく口を開かせる。逃げ回るルークの舌を絡めとり、根元から思い切りきつく吸いたて、ルークが噛み付いて逃げる道を閉ざす。ルークが痛みにくぐもった悲鳴を上げた。
「ン──ん、ん、ンん、ん──っ!!」
 必死で押し返そうとしていた手は、舌の表面を擦り合わせ、上顎をくすぐり、強く吸いたてた舌を性器に出し入れさせているように深く、浅く舐め上げているうちにやがて力を失っていった。舌の付け根まで深く探られれば、混ざり合い、あふれる唾液は飲み込むことさえ出来ず、ルークの口の端から少しずつ伝い、したたり落ちていく。アッシュの腕を掴み、縋る手にはどこか迷いがあり、肩へ、二の腕へ、肘へとどこに縋ればこの嵐のような口づけから逃れられるのかわからないというように彷徨う。
 ルークはまともに呼吸する方法も知らぬようで、顔を捩ってなんとかアッシュの唇から逃れようとしているが叶わず、次第に息苦しくなってきたのか背に回されたアッシュの片腕に完全に寄りかかり、小刻みに震える手が弱々しくアッシュの背を掻いた。まるで水責めのように、時折一呼吸ぶんだけ息を吸わせ、また奪う。

「──!」

 足音が近づいてきていたのには気付いていた。立ち止まり、息を飲む気配に視線を流すと、ちょうど廊下を曲がって来たルークの仲間たちが立ちすくんでいるのが見えた。着替えに戻っただけのはずのルークがいつまでも戻って来ないので、心配になって様子を見にきたのだろう。
 彼らに視線を流したまま、アッシュは更に強くルークを抱き寄せた。顎を掴んでいた手をルークの後頭部へ回し、引き寄せる。反射的にルークがアッシュの背を強くつかみ、服に鋭い皺がよった。
(──失せろ!)
 視線にその意思を込めて彼らを見つめると、驚愕と混乱に口元を覆ったまま声も出ない三人の少女を、ひどく複雑そうな顔をしたガイが促すように曲がり角の向こうに押しやり、姿を消した。
 忘我の境地にいるルークは、この一幕にまるで気付いていないようだった。わざと水音を立ててルークの羞恥心を煽り、腰が砕けるまで舌先で丹念に愛撫し、呼吸を奪い、貪る。彼らの足音が完全に遠ざかってから、アッシュはようやく完全に力の抜けたルークの唇を解放した。膝からくずれそうになる身体を、両の二の腕をつかんで支える。視線の定まらぬ瞳を潤ませ、真っ赤に熟れた唇の端に唾液を一筋垂らした姿が、ひどく扇情的に映った。絶え入るような吐息のもれる濡れた唇をじっと見ていると、視線の先でルークが狼狽えたように俯き、おののく手の甲で口元を拭った。

「……なんで……」
「お前が出ていこうとするからだろ」

 アッシュにはわかるのだ。このレプリカを一度解き放てば、矢のように飛び去るだけ。戻ってはこない。前しか見ずに走って行くものは後ろなど振り返るまい。残して来たものに心を残すことなど決してないのだ 。


あと一話で終わりです。(2012.03.24)