【1】
アッシュはねっとりと濃い闇に滲むようにまぎれこみ、冷えきった地面にうずくまって、その暖かそうな明かりの向こうに寄り添う家族の姿を想像した。もうじき、日付が変わる時間になるはずだが、窓の向こうには何の異変も見られない。やはり、今日この一家が死に絶えるという預言は、粛清のための作り話だったのだろうか。それとも、ここでアッシュが彼らを手にかけるということは、彼らには本当に今日、死の預言が詠まれているということになるのだろうか。
死の預言はどのようなものであれ秘預言になり、詠師以上の立場のものにしか明かされることがない。だから、今日自分たち家族の命が尽きるということを、彼らは知らない。知っていても、粛々とその運命に従っただろうか。あるいは逆らおうと足掻いただろうか。
アッシュは足掻くものの代表だった。自らは死の預言を回避しようとしていながら、預言成就のために時に手を汚す、そんな自分に矛盾を感じぬ日はない。もしかしたら、教団の利益のためにでっちあげられた預言もあったかも知れないと時に思うが、教団の手のものによって命を断たれるというのがそもそも預言であるのかも知れず、その迷いがいつも抗議の声を飲み込ませた。
一方で死の命運を強制し、また一方では救い上げたりもする。そこには預言遵守という姿勢から外れたなんらかの欲の臭いがからみついていた。教団で正義というものが尊ばれることはないのかと皮肉に考える一方で、アッシュは誰一人逃がすことなくその命を刈るために、己の動きを何度も脳内で反復し、検証する。日付が変わらぬうちに一家の血は絶やさねばならない。脳内で余計な行動を削ぎ落とし、修正を繰り返すうち、いつものように血が騒ぎ出し、強敵への期待が膨れ上がる。
ヴァンは何かといけすかないところが多いが、人の使いどころをよく心得ているという部分については、アッシュは高く評価していた。キムラスカとマルクトが冷戦状態に入る前ならば、神託の盾にも大規模な戦闘に参加する機会があったのかも知れないが、今はもうそんな時代ではなく。アッシュのような戦闘狂──いつだったか、誰かがそのように自分を嘲っているのを聞いた──を適度になだめておとなしくさせておくには、小規模ではあるが戦闘の絶えない特務師団はまさにうってつけだった。その期待は多くの場合外され、一方的な命の刈り取りに終わり、アッシュにひどく苦々しい思いをさせるのだけれども。
突入してからの手順が完璧に仕上がったことに満足して一息つくと、今になってここにいるのが自分一人であることに気付き、アッシュは眉を寄せた。こういった任務を単独で行うことなどありえないはずなのに、アッシュ以外のなにものの姿も見えない。アッシュがいるはずの団員たちの姿を探して周囲を見回したとき、屋敷の中に大勢がなだれ込むような足音と、怒号と悲鳴が聞こえた。みんなもう中にいるのかと焦って一歩を踏み出すと、どこかで聞いたことがあるような子どもの泣き声が聞こえた。目眩がするように急にあたりの風景が歪み、アッシュは頭を軽く振ってそれを振り払おうとした。泣き声が四方八方にこだまする。何か、変だ。この屋敷には、少なくとも子どもと言える年齢のものはいないはずなのに。だがタスケテ、ユルシテという泣き声が遠く、近くで幾重にもアッシュを取り囲む。
いつしか、屋敷からは火の手が上がっていた。熱を孕んで膨れ上がったガラス窓が次々に破裂していき、中から障気の混じった汚泥があふれ出してきた。あっけにとられてそれを見つめるアッシュの前で、泥まみれの小さな赤毛の子どもがまろび出る。
(──俺?! いや、あれは……!)
レプリカ、という遠い声に、アッシュははっと目を開けた。
耳に残る「レプリカ」という呼び声は、現実に吐かれたものだったのだろうか。しばらくじっと耳を澄ませるが、ファブレの屋敷はまるで生き物が絶えたように深閑としていて、物音一つとてない。
正面には全面のガラス窓。貴族の屋敷ならではの贅沢だ。厚手のカーテンの隙間から、微かにそよぐ木立のシルエットと、煌煌と輝く丸い月が見えた。室内に差し込む一条の月光はまっすぐにアッシュを照らし、不機嫌そうな渋面を暴き出す。
空気も動かぬほど静かに立ち上がり、そのわずかな隙間から、何の異常も見えない外庭を眺めた。強い陽の光のもとでは生きて行けない、闇にうずくまり、うごめく、そんな異形のものですら、月は分けへだてなく、仄かな優しい光で照らしてくれる。密やかに、秘めやかに、そして甘やかに、その光は冷たく凍えてしまったアッシュの心をゆっくり……ゆっくり、溶かしていく人物を思い起こさせる。
ジャッと音を立てて乱暴にカーテンを閉め直すと、アッシュは再び元の場所に戻った。ベッドを背もたれにして、床に直接座り込む。瞬時に立ち上がれるよう片膝を立てて輪王座に座り、息を吐いた。どこかで、ひとりぼっちの子どもが泣いているような気がしてならない。崩落したアクゼリュスとともに障気の泥海に沈み、いまだ這い上がれず泣いている子どもが。立てた片膝にほおづえをついて、どこを見つめるでもなく、遥か遠くに視線を向ける。苦痛に満ちたその泣き声を聞きたくなかった。その声は毎夜毎夜聞こえて、アッシュにとりとめのない夢を見せ、眠りから引きはがす。夜ごとに嘆きと苦痛は増してゆくのに、泣き止ませる方法がわからない。どうしてやることも出来ず、ただ、泣き声に意識を向けた。
ルークと共にオールドラントに帰還を果たして一月、アッシュは一度もこの屋敷に新たにしつらえられた自分の部屋のベッドで眠っていない。──いや、初日はおとなしくベッドに入ってみたのだったか。戦いの場で部下に指示を与える自分自身の怒鳴り声で目を覚ましてしまい、結局二時間もしないうちに起き出してしまったけれども。
いい加減、メイドたちも不審に思っているだろう。毎朝、彼女らは使われた形跡のないベッドのシーツを、首を捻りながら律儀に取り替える。
戻ってきて一週間後には、深く沈みすぎて溺れそうになるほど柔らかな羽枕が、乾燥させたハーブや花びらを詰めた良い香りのするものに換えられた。シーツもシルク、コットン、リネン、ウール、思いつくまま様々に取り替えられているようだが、生憎とシーツの品質や素材は問題ではない。
問題は部屋の主にこそあった。せめてこの沈みこんだらどんな危機が迫ろうと目を覚ませそうにない柔らかすぎるマットレスが、庶民が眠るようなうんと硬いものか、あるいは藁を詰めたものであったなら。一度、何かお好みの材質のシーツや枕があるなら言って欲しいと言われたが、雇い主はアッシュではないし、居候のような気分がどうにも抜けないアッシュには、マットをうんと質の悪いものに変えて欲しいなどと大それたことを頼む権利などないように思えた。実際は言われるがまま屋敷の主の後ろを付いて歩き、その仕事のまねごとらしきことをしてはいるのだが、しょせん付け焼き刃。用心棒の役くらいにしか立っていないのでは居候と変わりない。ただでベッドと食事を恵んでもらうわけにはいかないから、少しでも働いて返しているつもりなのだが、屋敷のものたちから見ればアッシュはまごうかたなき公爵の子息であった。仕方なく、アッシュは問いかけてきたメイドに、なんとかするから父母には報告しないで欲しいと溜め息をついたのだった。
たかが身体を休めるのにベッドを使わないというだけの話が、大きくなるのは正直困る。そもそもアッシュがヴァンの甘言に乗り家を捨てたことから始まった母の心痛を、これ以上重くしたくはなかった。息子の性質が、もう矯正しようもないほど歪んでしまっていることなど、彼らにわざわざ知らせる必要はない。
目を閉じると、砂混じりの風に乗って、血と有機物の焼ける匂いが吹き付ける。女の悲鳴と懇願の声、子どもの泣き声、音機関の立てる重い唸り、爆発音。抑揚のない攻撃譜術の詠唱。野太い下知の声。澄み切った剣戟の、音。血が熱くなる。この上もなく、気分が昂揚しているのを感じる。
「鮮血のアッシュ」
誰が名付けたのか、これほど彼にふさわしく、気の利いた二つ名はなかったろう。血の色の髪が命名の由来というまことしやかな噂も聞いたが、それは一見華奢にすら見え、整った容姿を持つ彼の、戦いの場──いや、殺戮の場での戦いぶりを知らないものが知ったかぶって広めたもので、本当は違った。それは冷徹に、一かけらの容赦も、一しずくの慈悲もなく、己の与り知らぬところで上の立場の人間が『敵』と定めた人間を、預言成就の旗印のもとに屠ってきた少年への皮肉だった。容貌の表面にのみ捕われたものは、禁欲的なまでに全身を覆い隠した法衣の下に、剣よりも物騒に研ぎすまされた肉体と、無邪気なほど残酷で獰猛な心があることを忘れてしまう。
筋肉の繊維を裂きながら鋭い刃を突き通し、骨を断ち切る一瞬の手応えを想うと、どうしようもなく血が滾った。敵の繰り出す剣が己の頬を掠め、数本の髪を断ち切る、鳥肌の立つような緊張と昂揚。心の臓に突き込んだ剣を捻りながら抜く瞬間に感じる、絶頂に似た快感。一本の線の上を綱渡るような命のやり取りでしか、もう生きているという実感を得ることが出来ないのだ。命を断つたび、その数を律儀に数え続け、犯した罪に上書きしては罪の意識に魘され、涙をこぼし続ける己のレプリカと、それはなんという違いだろう。
奪われた、と叫び続け、ようやく取り戻したこの居場所は空虚だった。今更どう努力しようと心安らげる場所にはなり得ない。この屋敷はいまや、長い旅の途中に一時滞在する宿で得られる安らぎ以上のものを、アッシュに与えてはくれない。都合良くすべてを忘れて、ヴァンとレプリカのせいだとなにもかもをなすりつけていたけれども、元はと言えばここは自分から捨て去った場所だ。子どもの自分が居られないと判じた場所が、大人になったら居られる場所になるなど、そんな都合のいいことがあるはずはない。薄いブランケット一枚を被り、硬い床の上で毛を逆立てた猫のように警戒心を研ぎすませ、常に右手を空け、左手に武器を抱いて眠る、それはここがアッシュにとって、戦わねば息をするのも難しい場所のままだからだ。
結局、最初からここは、己の居場所などではなかった。
──人に非ざる異形の存在が、求めても許される居場所など、初めから地上にはなかったのかも知れない。
ならばなぜここに帰ってきたのかというと、その理由は一つしかない。ルークがここにこがれていた、それだけだ。アッシュ自身に行きたい場所も帰りたい場所もない今、ルークに己が付き合うというのは、自分自身にそれほどの反発を起こさせなかった。なぜなら、この屋敷に共に帰ること以外に、彼の傍にいる理由など作れそうになかったからだ。いや、真実アッシュが願えばお人好しのレプリカのことだ、アッシュの向かう先へ──ルーク自身は望まぬ方向へ、付き合ってくれたかも知れない。だが、二人で抱き合うように目を覚ました海を臨む渓谷で、ルークがアッシュにこれからどうする、と問いかけながら恋うるような視線をバチカルの方向へ向けたとき、アッシュの向かう先はここ以外になくなった。不思議なことにここで別れ、別々の方角へ向かうという選択肢がないということだけは、なぜかはっきりとわかった。憎悪の対象でしかなかったはずのレプリカの傍に、自分がなぜこれほどいたいと思うのか、離れがたく感じるのか、アッシュはその感情にまだ名前を付けることすら出来ないでいるというのに。
今のアッシュにわかるのは、かろうじてアッシュを『こちら側』につなぎ止めているものが、己のレプリカであるということ、それが失われれば『あちら側』に堕ちるしかないということだけだ。彼が『こちら側』にいるからこそ、半分『あちら側』に足をかけながら『こちら側』にいることに執着もするのだろう。
部屋を出ると、ちょうどルークも部屋を出たところだった。目が合うと寝不足なのか少しくぼんできつくなった目元がゆるみ、「アッシュ」と呼びかけ、遠慮がちに笑う。ルークにはなにかと屈託が多く、心の底から輝くような笑みを見せることは決してないが、光も闇も等しく受け入れるような強く穏やかな笑顔は、周囲のものたちの心を確かに暖めていた。
だが、その笑顔は、どうしても二人を比較してしまう屋敷のものたちの目を怖れるあまりに、悪い方に変質してしまった。
この屋敷に雇われたものたちに二人を比較するなというのは無理な話で、アッシュは仕方のないことと諦めているし、アッシュの知る限り、比較の結果彼らが軍配を上げている部分は、本質的に人好きしやすいルークの方が多いように思う。だが強い劣等感からか、あるいは被験者であるアッシュより人の好意と関心を惹いていることに本能的な怖れや遠慮があるからか、ルークは日に日に萎縮し、身を縮めているようだった。比喩ではない。あまり日に焼ける体質ではないながらも健康的に焼けていた顔色は抜けるように白くなり、きちんと採寸した上で仕立てられたはずの服の中で、肉の落ちた身体がわずかに泳いでいた。もともと偏食が多く、食も細かったせいか、クリムゾンが苦笑し、シュザンヌが怯むほどに遠慮なく食べるアッシュとは、身長も含め体格差も開いてきている。剣術が唯一の趣味と聞いたはずだったが、アッシュはここに帰って一月、ルークが剣を握っている姿を一度も見たことがない。剣の代わりに彼が抱え込んでいるのはいつでも本。本だけだ。それも本当の年齢的に彼が好みそうな絵本や物語ではなく、何代にも及ぶファブレの執政の記録などで、到底読み物とは言えないもの。
「おはよ、アッシュ」
「ああ」
「夕べ……眠れた?」
「? ああ」
何か問いたげな視線がアッシュの顔を一撫でした。だがアッシュが疑問を口に上らせる前に、ルークはほんの少し首を傾げるようにして再びぼやけた笑顔を浮かべる。「ならいいんだ。朝めし、行こうぜ」
並んで歩き出す彼の横顔をそっと窺えば、うっすらと目の下が黒ずんできている。
自分と違い、『こちら側』で月の光のように控えめな温もりのある笑顔を振りまいているのが似合うルークのその痛々しさに、思わず眉をよせ深いため息をつくと、隣でびくりと身を竦ませたのがわかった。
今になってなぜこれほど怯えられなければならないのかと、ちりちりと苛立ちが胸を焦がす。
バチカルに戻ってからのルークはいつもこうだ。鬱陶しいほどに絡み、腹が立つほど反抗する気概が、かつてはあった。彼は忌々しいほどにアッシュの思う通りには動かなかった。それを腹立たしいと思いながら、少し眩しくも感じていた。認めまいとみっともなく足掻くアッシュを、彼は少しずつ手なずけていったのに。きっとあのころのままのルークなら、こんなときうるさいほど話しかけてきていたろうに。
ろくに睡眠も取らず勉強していたのだろう、疲れもあらわな眉間を揉むような仕草をし、ルークがふ、と小さな吐息を漏らした。
──それはまるで、絶息のように聞こえた。アッシュの胸に、彼がもう『あちら側』に足を踏み入れているのではないかという不吉な予感が広がっていく。
ここにいたくない。
だけど他にいくところがない。
ここを出て、広い世界を旅してまわりたい。
でも追い出されるのはいやだ。
両親をを失望させたくない。
今度こそいい子にならなければ。
アッシュに恥をかかせてはならない。
出て行きたい。
一度出たらもう二度と帰って来ることが出来ない。
息が詰まる。
息が──。
なぜそれほど彼がここに執着するのか、アッシュにはわからないでもない。なぜなら他ならぬ自分自身がそうだったからだ。だが幻想は溶け、アッシュはここが己の居場所ではないことに気付いた。だがルークはまだ気付いていない。このかりそめの『居場所』にルークがそれほどの執着を見せるのなら、アッシュもここにいるほかはない。
いまだ幼く、柔らかでむき出しの心を、押し殺しすぎて息が詰まっているのがわかる。
父母にもそれはわかっているだろう。だが彼らは、息子が再び戻らなくなることを怖れて、「お前たちの好きにしていい」とは言わない。そのくせ、また昔のように「外へ出たい!」と息子が我が侭を言い出すのをじりじりしながら待っている。
ルークも本当は、ここが己の居場所ではないと感じ、一部の心ない家人に目で追い払われていることに心底参っていながら……なおもここが自分の居場所だと、自分の居場所がここしかないと思い込もうとしている。自分からこの場所を出てしまったら、もう二度と帰って来られないことにおそらく気付いているからだ。屋敷が彼を閉め出すからではない。この屋敷の高い門は、一度越えて外に出たら、再び中に入ろうとする心弱いものの意思を挫く威容がある。
かつてこがれるように愛した居場所は、今やがんじがらめにこの場につなぎ止める幾重もの鎖となって、二人をこの場に縛り付けていた。