【3】


 吐き捨てるようなアッシュの答えに、ルークは一瞬、子どものように無防備な表情を浮かべた。意味を考えるように視線が左右にふれ、困惑したようにアッシュを見つめる。
 彼がもっとくわしい説明を求めているのはわかった。アッシュにだってここを捨てていこうとするルークがなぜこれほど腹立たしいのかわからないのに、ルークにわかろうはずがない。だがそんな様子のルークに苛立ち、アッシュは突き飛ばすようにルークをドアの前から押しやると、整えていた前髪を苛々と崩しながら自室に退避しようとした。
「──っアッシュ! 待ってくれ!」
 ルークが慌ててアッシュの背中をつかみ、続けて入って来る。つい今しがた、自分が何をされたかわかっていないのだろうか? わざわざこちらから放してやったのだ、これ幸いと逃げると思っていたアッシュは完全に虚を突かれ、やすやすとルークの入室を許してしまった。
「お前、」「アッシュ」
 アッシュの口からこぼれるどんな言葉を聞きたくないと思ったのか、ルークはアッシュの顔を見ないように俯いたまま、だが存外力強い声でそれをさえぎる。
「アッシュは、いい匂いがしたよ」外界の音を遮断するような深閑とした部屋に、ルークの声は染み入るように広がった。「ランドリーメイドは、おれたちの着るものに色々と香りを付けてくれてるんだってさ。着てると、身体にも移ってる。アッシュのは、なんか男っぽい感じでうらやましいな。おれのは……なんかいつも女子供の匂いって感じだ。いっぺん父上やアッシュとは違うんだな、って言ったら、似合いませんよって笑われてさ。お、おんなじ顔なのに、ちょっと納得いかねえよな……」
「……」
 先ほどの問いの遅い答えなのだろう。いきなりなにを言い出す、と眉をしかめたものの、常に身体にまといつく鉄の臭いが気にならぬでもなかったため、ほんの少し安堵する思いもあった。
 おそらく、決して身体から離すことのない剣のにおいなのだと思うが、アッシュにとって剣のにおいとは、すなわちそれが刈り取り、吸って来た血の臭いにほかならない。
 公爵家の長子として隙のない服装をしていながら、そこだけが妙に異質な、無骨そのものの長剣を外しながら長椅子の方へ向かおうとするアッシュを、戸惑ったような声が引き止める。
「アッシュ。──ベッドへ」
「……?」
「少し、横にならねえ?」
「……聞いたのか?」
「ちょっと、相談みたいなこと、されたり……さ」
 アッシュは深く溜め息をついてベッドに向かった。半月前この部屋を出たときと変わらないように見えるが、おそらくシーツは律儀に交換されているのだろう。
 いつの時代からこの屋敷にあるものか、大の男が横に寝ても余裕がありそうな四柱式の巨大なベッドは、アッシュの目には一度逃げ出したはずの檻のように見える。高さがあるため、子供用に同じマホガニーで造られた箱状の階段が据えられていたが、柱だけでなく、たった三段のそれにも馬鹿馬鹿しいほどの装飾が彫り込まれて、ファブレ一族代々の暮らしぶりを彷彿とさせた。絞首台に上がる罪人のように、アッシュは使う必要のない階段を重い足音をたててゆっくりとのぼり、ベッドの縁に腰かけて両脚を段違いに投げ出した。柔らかすぎるベッドは浅くかけても深く身体を沈め、身体から緊張を解かせない。
 その様子を、ルークがじっと目で追っていた。どうやら横になりそうにないと気付いたらしく、階段のぶんだけ間を空けて、正面に立つ。
「さっきお前が言ったこと……」
「……」
「お前は、おれがお前についてここに来ちまったことに、腹を立ててたんじゃねーの……?」
「そんなわけねえだろ」アッシュは驚いてルークの顔を見直した。「屋敷の主がお前に帰ってくるよう言ってんのに、俺が腹を立てる道理がねえ」
 至極もっともなことを言ったつもりだったが、その返答はルークの気に染まなかったようで、ルークは少しむっとしたように唇を固く引き結んだ。その表情は二年前に彼がよくアッシュに見せたもので、ふっとあのころに引き戻されたような、不思議な心地がした。
「お前がここに帰りたがってるように思ったのは、俺の思い違いか?」
「おれ?」鏡に映したように、ルークはアッシュと同じような不思議そうな表情を浮かべた。
 しばらくの間、互いにその本心を探るように見つめ合った。押し負けたように、先に目を伏せたのはルークだった。
「……帰りたかった……のかな? おれ、よくわかんねえ……。でも、父上と、母上は好きだ。会いたいと思ったし……息子と言ってもらえて、嬉しかった。けど……」
 アッシュは眉をひそめてルークが言葉を探す様子を見つめた。
「ここに帰るべきだと言ったのは、お前だろうが」
「『アッシュは』帰るべきだと言ったんだ!」ルークは頑なに言った。「実際にお前がどうしようと思ってたのかは知らねえけど、あのとき、お前は一人でふらっとどっかに行っちまいそうに見えたんだ……!」
 鋭く叫んだ直後、ルークがふいに何かに気付いたように目を見開いた。
「もしかして……お前、ここに帰って来たくなかったのか?」
 そんな訳ないよな? というように、ルークはまるで祈るような視線を向けて来たが、アッシュは力なく首をふって、深くためいきをついた。
「……お前が、ここに帰るべきだと言った」 
「それは……言ったけど。でも、おれ、そんな……」
「言い出したお前こそ、ここにいるべきだろ」
「だ、だって。おれ……レプリカだし……」
「んなこたあもうみんな知ってんだよ! 今更なんだってんだ?!」
「何度も言わせないでくれよ! ここはお前が生まれたときからお前の居場所だったけど、おれはちがう! おれの居場所は……ここじゃない。おれは……おれはこれから、それを探さなきゃ……」
 頑なに首を振るレプリカに激昂し、アッシュはルークの腕を掴み、強く引き寄せた。後ろに倒れ込みながら身体をひねって体勢を入れ替え、身体の下に敷くように押さえ込む。
 羽布団に深く沈んだルークの姿は、まるで白い花で埋められた棺の中の遺体だった。大きく見開かれた目と、はだけたシャツの胸元からのぞく肌がうっすらと汗に濡れて光っていなければ。目を閉じていたら、それは被験者とレプリカ、どちらの死体かなど誰にもわかるまい。ああ、レプリカは死体を残さないのだったか?
 新たにこみ上げて来るその理不尽への怒りを振り切って、しっとりと湿った首もとに顔を寄せると、酔うほどに甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐった。強く酩酊したように、頭の芯がくらりとゆれる。
 ルークはアッシュの両肩に手をついたが、互いの吐息が混ざり合うほどそばに寄っても、まだ拒絶すべきか悩んでいるように見えた。
「もしかしてお前……。柔らかいベッドが嫌いなのか? だから眠れねえの?」
 だが、ルークの口から出た言葉はアッシュの思いもかけないものだった。揃いの翡翠の瞳に、かすかな驚きをあらわにした自分の顔が映りこんでいる。
「……お前、ほんとに公爵令息かよ」
 あきれかえったような声音に、今度はアッシュがむっとする番だった。それは眠らない理由の一つだがすべてではない。そもそもアッシュは眠れないのではなく自身の安全が確保出来ない場所で眠りたくないのだし、うとうとしてきたところで毎夜アッシュを起こすのは実のところ目の前のレプリカではないか。
「──嘘。原因は、おれだよな?」ルークはふ、と目を伏せた。「悪い夢を見て、目が覚める。傍に、お前の気配を感じる。そうしたら……よく眠れるようになる」
 気付いていたのかとアッシュはかすかに驚きを表したが、ルークを責める言葉が口の端からこぼれることはなかった。──それだって、理由の一つにすぎないのだ。宥めるように、アッシュはわずかに空いた距離を一気に縮め、ゆっくりとまだ赤みを帯びたままのルークの唇に自分の唇を押し当てる。
 肩に当てられた手は一瞬こわばり、力を込めたように思ったが、口づけが深くなるにつれ柔らかくほどけていった。一方的に貪るのではなく、ルークの官能すら呼びさますように熱い吐息を分かち合い、唾液を混ざり合わせ、すみずみまで舐り、舌と唇を甘噛みする。
「──行くな」
 呼吸の合間に、言うつもりなどなかった言葉が転がり出た。ルークに対して、それは何の力も持たない言葉だ。なんの熱も、懇願も含まれてはおらず、ただ言葉だけが素直に転がり出たという感じだった。強く拒否するわけではないものの、覆いかぶさるアッシュからどうしていいかわからないというように身を捩っていたルークの動きが止まる。
「……アッシュ?」

「ここから出て行くな」

 一度ころがり落ちた言葉は、堰が切れたようにあふれ出た。
「──行くな」
 ルークの唇の横に軽く触れたまま駄々っ子のように繰り返すと、くすぐったそうに目を細め、ルークがかすかにみじろぐ。突然押さえ込んだ腹部が波うち、こらえきれなかったようなくぐもった笑い声がもれた。
「アッシュ、お前」
 肩をつかんでいたルークの腕がゆっくりと上がり、全部の指先がなにかを確かめるようにアッシュの頬に触れる。柔らかな微笑みを刷いた唇と、笑みを含んで細められた目元の表情だけが、アッシュとルークを決定的に区別させるものだった。その目元に澄んだ涙が盛り上がり、目尻をすうっと伝って羽布団に吸い込まれていくのを、アッシュは無言で見守った。
「そんな言い方、まるでおれのことが好きみたいだ」
「……まさか」
 アッシュは鼻で笑ったが、なぜかルークの笑みはますます深くなる。
「だよな」
 アッシュのこめかみから顎へ往復していたルークの指が、髪をかき分けながら後頭部へ移動し、一度離れた唇を引き寄せた。互いの体温の違いを確かめるかのように唇を合わせたままじっと目を閉じる。
 ルークは、アッシュの答えをまるで信じていないようだった。確信を持ってアッシュを引き寄せたのだ。
 だとしたら、俺はこのレプリカのことが好きなのだろうか? この離れがたい気持ちが好きということなのだろうか? アッシュはそうと自覚出来る感情を持ったことがなく、ルークが確信をもっているならばそうではないと言い張ることは難しい。
 ルークはぴたりと合わせた唇で時折アッシュの唇をはみながら、アッシュの後頭部から肩へ、背中へと探るように、迷うように、熱い手のひらを移動させ、そのたびにアッシュのシャツを狂おしく掻いた。
「それなら……それならさ、アッシュ。……おれを手伝ってくれよ」
 ルークはまだ濡れた目でアッシュを見上げ、赤く誘う唇で信じられないことを紡いだ。「もう行くって約束しちまったから、おれは行くよ。少しでもおれが役に立つなら、手伝いたいし。だからおれと一緒に来てくれよ、アッシュ。それが終わったら、今度はおれがお前の行きたいところに付き合うからさ……」
 アッシュはあっけにとられてルークの顔を見つめた。「俺の行きたいところ……?」
「そう」ルークはアッシュを窺うような視線で見つめたあと、視線の強さに耐えかねたようにそっと目を伏せた。「ここがお前の居場所じゃなかったとしても、どこか他にあるだろ?」
「……もうそんなもの、必要ねえ」
 欲しても与えられないなら。探しても見つからないなら。望むだけ無駄だ。
 アッシュは本心からそう思っている。もう、そんな夢の国を欲しがるような子どもじゃない。
 だが、ルークはアッシュの言葉を本当に素直に、ありのまま受け取ったようだった。
「そう? なら旅に出ようか。……おれ、目的地を決めない旅、してみたい」ルークはさっくりとそう言い、まだ見ぬ空を想像するように目を細めた。
「やっぱ、連れが欲しいもんな……一緒にいろんな体験して、感想を言い、あ……う……」
 話しかけていたルークの声が止まる。少し驚いたようにまじまじとアッシュを見上げ、おそるおそるというように指先がこめかみに触れた。「……なんて顔してんだよ……」
 自分がどんな顔をしているのかは知らない。興味もなかった。
 アッシュはただ、そうしたいという欲求に従って再びルークの唇に口づけた。ふいをつかれた舌裏に、歯茎、歯裏、上あご、口内のあらゆるところに舌を這わせると、同じ高さの体温に境目がわからなくなるように、少しずつ呼吸も混ざり合っていく。積極的に差し出された舌先をあやし、絡めてやんわりと吸い、乞われるままにこちらからも深く差し入れると、ルークの手がアッシュの髪を強くつかみ、ぐしゃぐしゃと切なげに掻き回しながら乾きを潤すように強く吸い返して来る。神託の盾にいたころだったか、誰かが口づけの回数が多ければ多いほど、相手が早く落ちてくれると言っていたのを思い出した。それが本当なら、唇がすり切れるまで奪い続けていたいと思うのは。
「ん……ふ、ん、ん……っ?! ちょ、や、やだ、あっ、ッシュ、アッシュ!」
 口づけにすっかり酔っていたように見えるルークが、突然身体をこわばらせてアッシュの肩に両手を突っ張った。「これはちょっと……まずいだろっ?!」
「何がだ」
 突然中断されて、アッシュは不機嫌そうに唸る。真っ赤に染まった顔の中で、ルークの眉が下がり、充血してすっかり潤んだ瞳が情けなそうに揺れた。
「なに……なにがって、なにがって……」
「はっきり、」
 言え。そういうつもりで口を開いたが、言わずに閉じた。沈むベッドに舌打ちしながら手をついて身を起こし、ぴったりと重なった下半身を確かめようとすると、奇声を上げたルークの両腕が首に巻き付いて来て強く手繰りよせられる。仰向いたルークの顔の横に伏せたまま、顔を横に向けてルークを見ようとすると、ルークは片手を後頭部に回し、顔を見られまいというようにますますアッシュを押さえつけて叫んだ。「お前、やっぱりおれが好きなんじゃないか……!」
「好き……じゃなくても反応くらいするだろ。お前だって半」
「口に出すな!!」
「……」
 アッシュは強く抱き寄せられたまま息をひそめて、自分ほどではないにせよ明らかに芯の通ったルークの熱が時折ぴくんと痙攣するのを感じた。
 好きという感情は良くわからない。だが、ルークが自分に欲望を感じてくれたようだということを嬉しく思う気持ちがその一端であるのなら、それは悪くないことだと思う。
 何かに急かされるように急激に膨れ上がった熱は、そうやって静かに抱かれているうちにどこかほっとするような、暖かくたゆたうものへとおさまっていった。分け合う体温は同じだが、鼓動は少しルークの方が早いかもしれない。そのささやかな違いに耳を凝らしているうち、居場所というものがいかなるものなのか、それを定めるべき場所がどこなのか、わかりかけたような気がした。
「……アッシュ?」わざと低めに落とされた囁き声が、気づかうように耳をくすぐる。
「ああ……」わかりかけたその答えは、ルークの問いかけの声に気を取られ、あと一歩のところで届かず、霧散した。しかし焦ることはないとアッシュは思う。
「……このまま」
「……うん」
 ルークの傍にいれば、いつかきっと、答えをつかむことができるだろう。

 小さく、遠慮がちなノックの音が続く。どこで諦めようか悩むようにそれは時折とぎれ、だからこそアッシュはそれが夢ではなく、現実で立てられている音なのだとしばらく気付かなかった。
 現実だと理解したとたんに、はっきりと覚醒した。目の前に眠るルークの顔がある。気持ち良さそうに仰向けで眠るルークの真横に、アッシュはうつ伏せて眠っていたのだ。
 身動きのたびに深く沈み込む身体に閉口しながらアッシュはベッドを這い出て、軽く身繕いしながらドアへ向かう。短い時間でも深く眠ったおかげか、頭はすっきりと清々しい。だが、身体がありえないほど重かった。気付かないようにしていた、これまでに溜まった疲労がすべて表に噴出したようだった。
「アッシュ様」
 外には困惑しきりのメイドが更にノックを繰り返すべきか否か迷うように手を上げたまま固まっている。
「晩飯の時間か」
「はい、あの、お衣装をお持ち致しました。それで、あの──」
「ルークなら中にいる。預かろう」
 決して仲が良いわけではない二人が一緒にいるということにメイドはひどく驚き、ついでほっとしたように笑みを浮かべた。「恐れ入ります」
 晩餐用に用意された二人分の衣装を長椅子に投げ出し、アッシュは今着ている服を脱ぎながら眠るルークを見下ろした。何度か声をかけると、ルークはかすかに呻き、アッシュの方へ半分ころがって半身をシーツに沈めたまま薄目を開ける。その様子にかつての記憶を刺激された。すっかり忘れていたが、本来ルークの寝起きはさほど良くはなかったはずだ。
「晩飯の時間だそうだ。起きて着替えろ」
「あー……。今日、メシ、いいやおれ……」
「ルーク」
「……眠い……あとで……ほんとにおれ……」
 お前の客を放っておくのかとあきれ、アッシュは強引にでも揺り起こそうとルークの肩に触れた。口元にかすかな微笑みを浮かべ、ルークはここしばらく見られなかったほど満ち足りた顔で眠っている。
 アッシュはしばらくその寝顔を見つめ、柔らかな髪を梳いた。自分が今、眠るレプリカと同じ顔をしていることなどまるで気付かないまま。ここにも見えない一本の境界線がある。アッシュはいつかきっと、ルークをともないその境界線を越えて、『あちら側』へ行くことになるだろう。

 ゆっくりと髪に口づけ、さらされた白い片耳にも、手に取った指先にも唇で触れてから、一人正装に着替え、アッシュは静かに部屋をあとにした。


人生において、ある境界線を越えるか越えないかの選択を迫られることってわりとあるような気がします。(2012.03.31)