「ちょ、迎えにってどこへだ」
「分からねえが……まだ、この街から出ちゃいねえのは分かる」
「ええっ」
「まじか?!」
「本当なの?!」
「だって、馬車に乗ったのにっ」
「……盲点でしたか……」
大騒ぎの中、アッシュは静かに目を閉じる。
やはり、まだ感じることが出来る。あの半身の、愛するものの気配を。もう同位体ですらないとはいえ、何かまだ、繋がっているものを確かに感じるのだ。屋敷とは違い、この街全体にルークの気配が満ちているわけではないから、ある意味探しやすいと言っていいくらいだった。街に入ったときも、ルークの存在をふんわりと感じたから、彼はほっとしさえしたのに。
全員があっけにとられて、譜業人形のように不自然な歩き方で去って行くアッシュの後ろ姿を見つめ、慌てて追い始めた。
「お、おい。なんで分かるんだよ?」
「分からねえよ。……なんとなくだ」
アッシュの横に並び、聞いてくるエリックに答える。
「……お前って、スカしたカッコ付け野郎だとばっか思っていたのに、全然違うのな」
「……どうも」
「どうもじゃねーよ、右手と右足が一緒に出てんだぜ?」
「?!」
右手と右足が勢い良く前へ出た時点で指摘を受け、ようやくそれと気付いたアッシュが頬を染めて立ち止まる。
いくら女だからといって、彼女に勝てる者などそうはいない。それは稽古をつけている自分が一番知っているはずだった。同じ剣士として──ルーク本人はもう、自分を縫製職人だと思ってはいても、剣士だとは思っていないかも知れないが──あまりに過剰に心配することは、その実力を信じていないことに等しい。アッシュはルークの実力をもちろん信じている。気を付けろ、剣を持てとは言ったが……本当に彼女の身に、そんなことが起こり得ると思っていたかというと……おそらく嘘になるだろう。
少なくとも、ND2033年まではルークは元気でいるはずだが、理屈ではない。ただ──不安なのだ。
アッシュの初めての子、ルークの腹の中の子への心配、それがルークの身体にどういう影響を与えるのか分からないことへの不安。今の自分なら、体力や腕力が例え半分になったとしてもそうそう負けることなどあり得ないが、ルークはどうかと考えると……自信がなかった。それに、アッシュは上の子の年を知らない。今、ルークの腹に宿った子が、確かにウィスタリアの兄であるかどうかなど、わかるはずもないのだ。
「──おい。なんでぞろぞろついて来てんだよ。一人でいい、みんな帰ってくれ」
「目撃者が駆け込んで来たのは、教団よ。私は行く義務があるわっ」
「ふむ。私も──」
「──あんたは、あいつの無事を疑っちゃいねえだろうが!」
ティア・グランツが付いて来ようと言うのは、純粋な心配からだと分かっているが、死霊使いはそうではないと踏んで、アッシュは慌てて遮った。──もっとも、ルークの今の状態を考えたら、この飄々とした男も少しは顔色を変えるのだろうが……。
「むしろあんたは、このことが大きくなって、あいつが表に出たりすることがないよう根回しをしてくれていた方がありがてえ。ワレットも、隊長に報告を頼む。悪いが、自力で脱出してくるだろうなんて待っていられる事態じゃなくなった。あんまり時間をかけやしねえから、待っててくれ。すぐに戻る。──あんたたちもだ」
アッシュは心配のあまりであろうが、ぞろぞろと付いてくるルークの友人たちにも声をかけた。「必ず、無事に連れ戻す。二次的な被害が出ないよう、安全なところにいて欲しい」
「わ、分かったわ」
「分かった。──アリソン、ジギー、エリック。付いてってやれ」
「いや、ほんとに」
「おう! 分かったぜ!」
「ちょ」
「どうせ揃わねえと動けねえんだ。隊長への報告はワレット一人で十分だし、すぐに戻れるんなら、問題ねえだろ。ヤーノとルキアちゃんは、知らねえ仲じゃねえんだ。俺たちだって心配なのは分かんだろ」
「あんたさ、自分の手を見ろよ……」
「……」
何かと突っかかってくることの多かったエリックが心配そうに言うのに、両手を目の前まで持ち上げると、寒くもないのにそれは冷たく凍え、ぶるぶると震えていた。「……? なんだこれは……」
心底不思議そうにそれを見つめているアッシュに、
「お前ね、恋女房が誘拐されて落ちついていられる男がいるわけねえだろ……?」
アリソンがアッシュの肩を宥めるように軽く叩くと、ジギーもそうそう、と頷いた。
「お前、ガキと自分を重ねて見てるだろ。かみさんも心配だが、ガキも心配なんだよな? 大丈夫、ガキはみんなで助けんだからな。だが、今は情報がねえ。すぐには動けねえんだ。だから、最初に片付きそうな方から、一つ一つ片付けて行こーぜえ」
アッシュはルークを得て、強くもなり、逆に弱くもなった。ルークを守るため──彼女を傷つけるもの、怒らせるもの、嘆かせるもの、あらゆる災厄から守るためには、アッシュは必ず生きて、元気に彼女の元に帰らなければならない。その決意で、アッシュの剣筋は──いや、それだけでなく、心も身体もより、研ぎ澄まされてゆく。
反面、そのルークを失うことがあったとしたら、もう生きていくことは出来ないと思う。
今回の件は、その最も弱くなった部分を突かれたのだ。
アリソンとジギー、心配そうな顔はしているが好奇心の方が強そうなエリックに目をやり、アッシュは溜め息をついた。
「……好きにしろ」
深く、深くに沈んでいた意識が浮上していくにつれ、か細い小さな泣き声と、それを宥める落ち着いた、だが幼い声が聞こえてきた。ぐるぐると目眩のする頭を軽く振って、なんとかそれを払おうと試みる。「ヤーノ……無事……?」
「ルキア! わああああああん!!!」
嗅がされた薬品のせいか、視点が定まらない。が、これは腹の子の害にはならないのかとひんやりした思いが過った途端、意識ははっきりと覚醒した。
「ヤーノ」
泣きながらしがみついてくるヤーノを強く抱き締めると、子ども特有の熱いほどの体温が、混乱してささくれた気持ちを落ち着かせてくれる。突然誘拐などされて、頼れる大人は倒れたままとあっては、どれほど恐ろしい思いをしただろうか。
「もう大丈夫。ルキアが付いてるからね」
「ルキア……ルキア……」
しゃくりあげているヤーノをあやしながら、周囲を見回す。板張りの床、壁、丸い窓。自分たちは床に転がされているが、大きく豪華なベッドど、様々な種類の酒瓶が並ぶカウンター。三流どころのホテルのスイートといった態だが、僅かに潮の匂いがする。そして微かな、本当に微かなゆれ。
「……船かな。──どれほど寝てたんだろ……」
「……お姉さんたちがここに連れてこられたのは、昨日のお昼過ぎだよ」
すぐ近くから知らない声がかかり、弾かれたように視線を向けると、はす向かいの大きな木箱の陰に、ヤーノよりも少しだけ大きな子──十歳前後くらいだろうか──が膝を抱えて座っていた。
「……ありがとう。お前、名前は?」
問われて、少年はゆるゆると顔を上げた。こんな状況であるのに、理知的な灰色の瞳には涙の一滴もない。奥で不屈の炎が燃え盛っているような、静謐で、鋭い目だった。
「……ザック」
「そっか。私はルキア。こっちはヤーノだ、よろしくな」
「……よろしく」
ザックは目の前の美しい女の口から、かくもぶっきらぼうな言葉が出てくるのに戸惑ったように頷いた。
注意しないことにはあまり感じない船の揺れから、ある程度船の規模が分かる。この船を人身売買に使っているのなら、商船を偽装してもいるだろう。大きな船のはずだ。あの好色そうな男どもを思い出して、着衣に乱れなどないか、身体に変わったことはないかとすばやくチェックし、どうやらまだ自分はアッシュ一人だけのもののようだとほっと息をついた。
「お前、さっきヤーノを宥めてくれてただろ? 小さいのに、落ち着いてんな?」
「……そうでもないよ。誘拐された場所からやっとこさ逃げ出したら、また別のヤツに捕まるなんて、ツイてない。少し焦ってるみたいだ。けど、ぼくは絶対に母さんのところに帰るんだ」
「……? 今までも誘拐されてたの?」
「そう。五年くらい、祖母に。──ぼくは孫だから、ここほど扱いが酷くはなかったけど」
「お祖母様が、母上の元からお前を誘拐したのか??」ルークは驚いて、瞬きを繰り返した。「なんだか、聞き流せない話みたいだなあ……後で詳しい話を聞かせてくれる? もしかしたら、私の友達が助けになってくれるかも知れない。私と違って、偉いやつばっかだからな。だけど、取り敢えず先にここを脱出しないとね。ザック、ヤーノを頼む。手を繋いでてくれるかな。ヤーノ、分かったね? お前はまだちっちゃいから、離れたらルキアも守りきれない」
「わかった」
「ぼく、もうちっちゃくないよ」
素直に頷くザックに、ヤーノが抗議の声を上げる。
「そうだな。けど、ぼくが迷子になるかも知れない。だからルキアの言う通り、手をつないでよう」
「そう? ……じゃあいいよ」
なんてしっかりした子なんだろうとルークは思わず涙ぐんでしまった。この子だって、まだ子どもなのに、こんなときに自分の不安を見せず小さな子を気遣うことが出来るなんて。こういう、すぐに感情が昂ってしまうのも、腹の子のせいなのだろうか。
「どうやって逃げるの?」
「うーん、そうだね……。食事はいつごろ持ってくるかな?」
ザックの問いに、船室の扉の厚みを確かめながら逆に問うと、少年は切なそうに腹を押さえて首を振った。「一昨日の深夜に捕まってから、何も」
「子どもを飢えさせるなんて!!」
それを聞いてルークは怒り狂った。
「食事の差し入れ時を狙うのが無理ってことなら、扉を破壊するまでだ──っち、完全同位体のままだったら、超振動が使えたのに……! 仕方ない、剣を手に入れるまでは、多少の無茶も必要か」
厚く頑丈な木の扉の前に立ち、大きく深呼吸をして気を整える。
「魔王絶炎煌!!」
凄まじい轟音と共に、船室の扉がみしりと軋んだ。
「ちっ、やっぱ力が足りねえか。男なら一撃だったのに。ま、いい。これが使いたかっただけだもんな──剛招来」
なぜか、血が滾るというか、ひどく好戦的な気分になっていた。これはさすがに妊婦の仕様ではないだろう。まだ男であった時でさえ、戦闘には消極的であったというのに。じきに母親になるかも知れない身体が、子どもをいたぶるものに対して激しい怒りを感じるのか。
芯の部分から、ふつふつと力が漲ってきて、身体がぶるりと小刻みに震えた。恐れているわけでもないのに──。アッシュであれば、それが武者震いであることが分かっただろうが、ルークはそれを知らない。ティアと共に屋敷から飛ばされたあの十七の日から一度も、そんなものを戦いの前に感じたことなどなかったからだ。
驚きのあまり、しっかりと抱き合って声も無くルークを見つめている子どもたちの前で、身体に満ちる紅蓮の気を纏い、まるで戦いの女神のように、ルークは獰猛に微笑んだ。
「弾け飛べ!! ──鷹爪豪掌破!!!」
さっき以上に凄まじい、耳鳴りのするような破壊の轟音がして、厚い扉が蝶番や鍵ごと、壁側の柱まで一部抉って弾けた。勢いのままに船の外壁までぶち破り、外まで吹っ飛んでいく。
「もう夕方か……日が落ちる前に脱出したいな」
通路に開いた穴からちらりと空の色を見て、ルークは呟いた。
「なんだ、何があった!」
「あっ、女、貴様!」
さすがにどやどやと男たちが走ってくるのを見て、ルークは飛び上がって大喜びする。
「やった、剣、持ってる〜!」
「貴様、どうやって扉を!」
「こうやってね! ──烈破掌!!」
先頭を走って来た男を、後続のものごと吹き飛ばし、倒れ込む男たちに駆け寄って宙を舞う剣をはっしと掴んだ。
「──重?!」
剣の重みに引きずられて取り落としそうになり、慌てて右手も添え、新たに駆けつけた男を切り払った。
「ルキア」
「こっちに来ちゃだめ」
自分の体力には限界がある。背後には子どもたちもいる。だから、出来るだけ殺さずに、なんていう甘いことを言っていられない。
だが、それを子どもたちに見せるわけにもいかない。
「ぼくは平気だ。ぼくも戦う」
驚いて、ザックを見下ろすと、倒れた男から剣を拾い、両手で握り締めていた。
その顔に、怯えはない。剣の先に震えもない。あるのは強い決意と、闘争心だけだ。まだ子どもなのに……。大人のルークさえ取り落としそうになる重みの剣を、しっかりと握ったその顔は、一人前の「男」の顔をしていて、顔立ちは似ても似つかないのに、ルークに最愛の夫を強く思い出させた。
──ひょっとして、アッシュが師匠のところを脱走して一人でバチカルへ戻ったのも、このくらいの年だったんじゃないかな……。こんな小さな身体に、合わない重たい剣を握って、一人で、誰にも守ってもらえず……。アッシュ、どんなに辛くて哀しかっただろう──
「分かった、剣は持ってていい。でもそれを使うのは、私が倒れた時だけだ。私が倒れたら、それでヤーノを守ってあげてね。──そんな顔しないで。私は強いから、そうそう負けたりはしない。大丈夫、絶対にお前を守るよ。絶対、母上のところへ連れて行ってあげる」
規模の大きな船に船員はそれなりにいて、一人を切り捨てるたびに体力は少しづつ削られて行った。汗を拭う間もなく、滴り落ちる汗が目に染みて視界を奪う。もうすでに、目の前に飛び込んでくるものをただ、反射的に切っているだけだ。
「守護方陣!」
目の前の敵が倒れるのと同時に体力と視界が少し戻る。心臓のやや上の辺りが、不自然な脈を刻んでいて、腹の子が猛抗議をしているのを感じた。でも、止まるわけにはいかない。倒れそうに疲労していても、倒れるわけにはいかなかった。ルークの背後にはヤーノがいる。
そしてザックがいる。
彼は大人に守ってもらえなかった、小さなアッシュと同じ。一人で大人になることを強いられた、強い目が悲しい、とルークは思う。
だから、絶対に守るのだ。今、ルークが一人で旅するアッシュの元に行くことが出来たなら、何を犠牲にしたって守り通したはずなのだから。
「いやいや、命は犠牲に出来ないや。私が死んだら、アッシュもすぐに死んじゃいそうだもんな……。お前も、文句ばっか言ってんなよ、この時期は流れやすいってアルヤは言ってたけど、お前はアッシュの子なんだから、私にしがみついてんのは得意だろ。──それに、お前も賭けの結果が当然気になってるよな? あー……まあ、勝つのは分かってるんだけどさー……もう一発守護方陣!」
まだ胎児とも呼べない小さな命に独り言のように話しかけ、気力を振り絞って守護方陣を使い、倒しそびれた一人に剣を突き込むと、やっと敵の姿が消えた。
「──これで終わりかな……?」
必死で呼吸を整え、通路の前後を警戒しながら乱れた髪をぎゅっと縛り直す。
「ルキア、これ」
ザックが走り寄って来て、背中におぶったヤーノが落ちないようにぐっと前のめりになると、小さな手を差し出した。レモングミが二つ乗っている。
「えっ、どうしたのこれ」
「あいつが持ってた」
どうやらルークが倒した男たちの懐を、何か役に立つものはないかと漁ったものらしい。
「ありがとう、しっかりしてるな、お前」
思わず笑って身をかがめ、背中のヤーノごと抱き締めると、ザックはほんのり頬を染めて身を固くしていたが、やがておずおずとルークの首筋に頬をすり寄せた。
貴重なレモングミを一つ口に放り込んで噛んでいると、じゅわっと果汁が広がるのと同時に体力が回復し、不規則だった脈拍も整ってくる。
「ヤーノは寝ちゃってるのか……」
「うん……最初は手をつないでたんだけど」
ザックの背中を覗き込むと、口の端から垂れたよだれがザックの背中を一部濡らしていて、ルークは思わずへにゃりと眉尻を下げた。
「床の上に転がされていたんだし、疲れていたんだろうけど……さすが、ガヴィの子。──大物になるよ……」
ルークがヤーノの様子を見ている間、抜かり無く通路を見張っていたザックが「敵がこないね」と呟く。
「……船の規模を考えたら、あれで打ち止めはないと思うんだけど……」
厳しい顔で通路の先を見つめ、今のところ近寄る人の気配がないことを確かめると、
「悪いけどザック。重たいだろうけど、もうちょっとヤーノをおんぶ出来る? 様子を見ながら、船から脱出しなくちゃ」
何といってもアッシュが帰ってくるまでには、何食わぬ顔をしてうちに戻っていなければ。
──怒られる。