禍つ日の恐れは、君の光に雲と散りて 06

「アシュレイ? どうした?」
 厳しい顔で、急に立ち止まったアッシュに、ワレットが声をかけた。
 川を渡ってから獣道を行くこと二日、ケセドニア方面へ通じた街道へ出てしばらく行った森の中で、突如として子どもの痕跡が消失したのである。
 それどころか、事態は更に混迷の兆しを見せ始めた。

 斥候のアッシュからやや離れた殿のアリソンまでの4人がアッシュの周りに集まると、全員が一様に難しい顔をした。
 舗装のない森の中の道のこと、何本もの轍が深いあとを付けている中、明らかに争ったあとのような、乱れた足跡があった。
「子どもの足跡の上に大人の、大人の足跡の上に子どもの……。何があったのか、だいぶもみ合ってるな」
 その痕跡も、その後に通行したはずの足跡や轍にだいぶ消されてしまっているが、その場に膝をついて、長い指先で足跡をいくつかなぞりながらアッシュが言うのに、
「街道を通る馬車に、運良く拾われた……ってこたねえか?」とジギー。
「ねえな。そういう足跡の乱れじゃねえ」
「襲われたのか?」
「分からねえ。子どもが何かやらかしたのかも知れねえし……。逃げることが出来たかどうかは、もう少し先まで行ってみないことには分からねえな……ちょっと待っててくれ」
 そこでしばらく周辺を探り、少し先まで言ったところで、アッシュが首を振った。
「子どもの足跡らしきものは他には見当たらねえな。不自然に沈み込んだ大人の足跡も特に目を引かねえ。馬車、或は馬。そういったものに乗せられて運ばれたのかもな……」
「……分からねえな? こんなところでガキと争う理由はなんだ? 屋敷から追っ手が出たか?」
 顎に手を当てて、ワレットが言ったとたん、エリックが大きな声を出した。
「あっ!」
 全員の視線が集中する中、エリックは胸の辺りまで上げた両手でぐーぱーしながら蒼白な顔で全員を見回した。
「あれじゃね?! ほらっ、ここ最近大都市周辺で子どもが消えるっていう! 誘拐じゃねーか?!」
「?! け、けど、ありゃケセドニアには来ねえって」
「とは、限らんぜえ。そろそろ噂になって各国の軍が動き出してるし、他じゃやり難くなったのかも知れねえ」
 そんな噂、聞いたことがないと言っていたルークを思い出して、アッシュは苦く首を振った。
「あり得ないことじゃねえな。……うちのやつも聞いたことがねえと言ってたし、ケセドニアじゃ、そんな世間の事件知らねえやつの方が多い」
「新聞……は読まねえか、一般人は」
「金持ちなら自宅に取ってるだろうが……普通そんな余裕ねえよ。教会や図書館で読むヤツもいるだろうが、最も読むべき女子供はまず目を通してねえな」
「だよな」
「それに、当然今頃は、屋敷でも子どもの不在に気付いて探しちゃいるだろうが、おそらく屋敷の周辺だけだろうと思うぜ」
 盛大に顔をしかめ、こめかみを揉んでいるアッシュを見やり、アリソンがお手上げだというように両手を広げた。
「ま……普通はそうだろうな。俺たちだって、アシュレイがいなきゃ子どもが一人で、魔物も出る場所を突っ切るなんて思いもしなかったものな」
「ちっ」
 子どもが自力で脱出したと知って以来何度目になるのか、ワレットが盛大に舌打ちをして頭を掻きむしった。
「くそ、今回の仕事はなんだってこうもイレギュラーなことばかり起こるんだ。とにかく、このまま見落としがねえか確認しながらケセドニアに戻るぞ。ギルドか、そうじゃなくたってどっかの軍には何か情報があるかも知れねえからな」
 全員が複雑な顔をして頷く。




 しばらくはケセドニアへ向けて、それでも子どもが自らの足で通ってはいないかと目を皿にして探っていたが、結局何も見付けることが出来ず、男たちは連日の野宿に加えて集中力を絶やさずにいることに疲れ、小さな川へさしかかったところでお茶を淹れて休憩することにした。エリックが嬉しげに水を汲みに走り、ジギーが火を熾す。ワレットとアリソンは、街道を通る馬車を拾えないかと街道沿いに座り込んでいる。
 アッシュはアリソンの好意で、川の水で冷たく冷やした布を両目に当てて、木の根にもたれて目を閉じていた。ワレットは少しでも眠るように言ったが、アッシュはみんなが気遣うほどには疲れていなかった。むしろ焦りの気持ちが強く、頭の芯の部分が冷たく覚醒している、そんな感じだ。

 これまでずっと考えたことがなかったことだが、いくら真面目に稽古していたとはいえ、十歳の自分がダアトからバチカルまで大禍なく旅することが出来たのは、単なる僥倖ではなく、ましてや実力などでもなく、背後でヴァンが睨みを効かせていたからなのかも知れない。思えば、バチカルに辿り着いた自分の前にヴァンが現れたのは早すぎるタイミングだった──自分は、屋敷の中庭で繰り広げられた、自分抜きで流れる優しい光景にショックを受けていて、そんな当たり前のことにも思い及ばずここまできているが、本当はこの子どものように、途中で人買いに攫われたり、魔物に殺されたりしていてもなんら不思議はなかったのだ。

 助けたい、と思う。

 少し入れ込み過ぎているかも知れないとの自覚はある。だが、身内とはいえ五年も監禁されていたというのに、母の元に帰りたいと言うその一心で、地図を眺め、武器を手に入れ、実行に移し、魔物に襲われ、血泥を浴びながらも先に進もうとする、そんな気概のある子どもをアッシュはひっそりと好もしく思っていた。いや、まるであの頃の自分自身のように思っていたかも知れない。こういう子どもは、この辛い事態を乗り切って未来へ進むべきなのだ。今がどんなに辛くとも、生きてさえいれば良いこともあるはずなのだから。自分のように。

「アシュレイ、起きてっか?」
 エリックの声がして、目を覆った布を除けると、彼が琺瑯のマグカップを差し出していた。冷めないように蓋が被せてある。
「ほらよ。ジギーが疲れが取れるって砂糖山ほど入れてたから、飲んどけよ」
「ああ……済まねえ」
 受け取って一口啜り、ぶほっとアッシュが噴くのを「うわっ」と悲鳴を上げてエリックが避けるのに、
「なんだこの紅茶風味のシロップは!!」
「え……っ知らねえ、ジギーに聞いてくれよ!」
 アッシュが怒鳴っていると、向こうからアリソンが走ってくるのが見えた。
「荷物をまとめろ、乗り合い馬車が掴まったから、一気に街へ戻るぜ!!」




 日が落ちる前に、巨大な街をぐるりと囲む、日干しレンガの巨大な街壁をなんとかくぐると、嗅ぎ慣れた雑多な空気が、彼らをほっとした気分にさせる。ずっと強ばっていたアッシュの顔も、ふと、優しく綻んだ。
 だが、いつになくざわついた気配を感じ、全員落ち着かない気分でギルドに向かって歩き出した。
「……子どもがいねえ」
 ふと、足を止めてアッシュが呟くのに、彼らはその場に立ち止まり、鋭く周囲を睥睨する。
 一見、何も変わらないいつもの光景に見える。大通りを行き交う馬車、人々。店、屋台から漂う様々な食べ物の匂い、呼び込みの声。
 だが、常であれば、そこかしこから甲高く泣き声や笑い声、奇声を上げて走り回っているはずの、子どもの姿が街から消えていた。
「軍人の数が多くね? ──神託の盾もさー……」
 不安げなエリックの声に、ワレットが近くで玉石混淆のアクセサリを売っている屋台に近寄り、声をかけた。
「なんだか街が騒がしいが、何かあったのか?」
「ああ、ワレットさん」
 店主はどうやら知人であったらしい。
「子どもと女が目の前で攫われたってんで、女の友達が神託の盾に駆け込んだんだよ。とうとうケセドニアでも、ってんで、こんな騒ぎになっちまったんだ。……街を出入りする商人や旅人がある程度情報を落として行くとはいえ、知らねえやつの方が多いから、母親たちはみんな仰天して、子どもを家ん中に隠しちまったのさ」

「こりゃあ……」
 話を聞いて、全員が顔を見合わせた。
「しゃれんなんねえ。……俺たちの獲物もマジでかっさらわれた可能性が出て来たぞ……!」
「急いでギルドに戻るぞ!」

 とはいえ、彼らは自分たちの巣へ戻ることが出来なかったのだ。

「──アッシュ!!」
 偽名を使うことさえ忘れた、切迫した声に呼ばれ、神託の盾の駐屯所を振り返ると、ティアとジェイドという異色の組み合わせが、ほっと安堵の表情で駆け寄って来た。
 ちらりと連れの顔を一瞥したが、「アシュレイ」が「アッシュ」と呼ばれたことには特に疑問もなかったようだ。むしろ突然現れた神託の盾とマルクト軍の、それぞれ地位もありそうな男女に目を見張っていた。
「どうした」
「あなたのギルドの長に頼んで早馬を出してもらったのに、どこかで行き違ったのね」
「──いや、俺たちはほとんどまともに街道を通らねえで移動してたんだ。……お前、」
 突然目の前で泣き出したティアを見下ろし、アッシュはジェイドに光る目を向けた。
「──もしかして、あいつか。子どもと一緒に攫われた女ってのは」
「どこかで聞いたんですね。話が早くて助かります」
「いつだ?」
「昨日の昼過ぎから、行方が知れません。馬車に乗ったということなので、各都市へ続く主要な街道を封鎖して調べているのですが……」
「馬車? でもあいつは」
 アッシュは困惑して口を開いたのだが、駐屯所から見知った女たちの群れが「アシュレイさん!」口々に叫んで駆け寄って来たのに気付いて、視線を向けた。
 アッシュに詰め寄るなり、女たちはそれぞれが興奮して、一斉に色々なことを訴え始める。アッシュはあっけにとられて、相槌も打たずに黙ってそれを聞いていた。ルークはどうやら、誘拐されそうになった友人の息子を助けようと馬車に飛び乗ったということらしく、むろん全員が子どもの心配を第一に置いている。だが、真っ青になっている彼女たちが、同じくらい、誰も知らないところでルークに何かあったら……ということを本気で恐れていることに気付いて、アッシュは胸を突かれた。ルークはレプリカだ。どこか、誰も知らないところで、誰にも看取られずに死んでしまったら、その死は永遠に誰にも分からなくなる。誰も、死者を悼むことすら出来なくなるのだ。

 レプリカであることを隠して生きたくないからと、友人たちに告白したことを、以前ルークが話してくれた。そのことを話したとき、彼女らは「へーっ!! どっこも全然変わんないのね!」と感心してひとしきり触りまくり、どさくさに胸まで揉んでいったが、すぐにいつものように次々話題が変わって行ったということで、「知り合いが実はレプリカだったって、大した事件じゃないのかな……?」と首を捻っていたルークだったが、彼女たちは実は、ルークが思う以上に、ルークがレプリカであることを真面目に考え、受け入れてくれていたのだった。

 一睡もしないで駐屯所に詰めていたという彼女らを前に、ありがたさに言葉も詰まり、無言で頭を下げて「あいつは」と話し始めたとき、今度はエリックが騒ぎ出した。
「お、お前、お前のかみさんなのかよ! 大変じゃん、探さなくちゃ……!」
 話の腰を再び折られ、むっつりとアッシュは首を振る。
「……お前、俺たちが今、仕事中だって分かってるか? 子どもの命が、危険に晒されている可能性があるんだ。大体、あいつなら」
「アッシュ?! あなた何を言っているの?! 今は仕事どころじゃないでしょう?! 危険に晒されてるのは、ルシファもおんなじよ!!」
「アシュレイ、取り敢えず一旦ギルドに戻って、隊長に外れることを許してもらえ。今は特に大きな仕事もねえし、お前と、後一人くらいは回してくれるはずだぜ。ルキアちゃんが攫われたなら他人事じゃねえ。俺が行ってもいい」
 ギルド長を「隊長」と呼ぶのは、ギルドの前身が、長い戦争の間に発足した一傭兵部隊であった頃の名残だという。
 アリソンが、夫の姿を見た途端泣き崩れた妻の肩を抱いて言うのをちらりと見やり、
「剣は持っていたか」
 直前までルークと一緒にいたというアルヤに顔を向けると、彼女は泣き過ぎの上、一睡もしなかったために腫れ上がった顔を横に振った。それを見て、アッシュは深く嘆息し、首を振った。
「言っておいたのに、あの屑!」

 そもそも丸腰でなかったなら、連れ去られる前になんとか出来たかも知れないのに。──もっとも、子どもを盾に取られていたのかも知れないが……。

「あいつを心配してくれてありがとう。だが、大丈夫だ。体力と腕力は少し落ちてるが、元々あいつは強えんだ。助けが行くまではなんとかするだろう」
「アッシュ!」
「まあ、そうですね。彼女がめったな相手に遅れをとることはないでしょうが……。怖いのは人質を取られることです。彼女は、優しい。自分の命を子どもより優先することは、あり得ませんから」
「あの……ちょっといいかなアシュレイさん」
 横合いからアルヤがおずおずと声をかけた。「ちょっと……」
 すでに腫れ上がっているのに、泣き出す寸前のような顔をしたアルヤに気圧されて、一人ルークの友人たちが固まっている場所に付いて行くと、アルヤが女たちを見回し、全員が戸惑ったように頷くのを確認して、口を開いた。
「あの、アシュレイさん。……本当はこういうことは、本人の口から言いたかっただろうと思うの。でも、でも……今は大変な時なんだし。ごめんなさい」

 アルヤを初めとする女たちの一種異様な雰囲気に、アッシュが思わず息を詰めたとき、その爆弾発言は落とされた。




「ルキアは今、妊娠初期なの」




 アッシュは、ルークの且つての仲間、自分の仕事仲間たちが一体何事かと思わず二度見してしまうほど、無防備な表情を見せた。ぽかん、或はきょとん。そんな言葉がぴったりの顔。この男の顔から、あらゆる鎧と虚飾が剥がれたのは、物心ついて以来初めてのことだったかも知れない。

 たっぷり二分は押し黙ってから、アッシュはそのままの顔をアルヤに向けた。口を開いたが、何を言っていいのか分からない、といった態のアッシュに、すでにイライラしていたらしいガヴィが焦れたように口を開く。
「体力が激減するし、息が切れるのも早いの! 何もかも、普段の半分だと思って動かなきゃいけないんだよ! お願い、ヤーノを助けて、ルキアを助けて! ふ、二人になにかあったら……! ルキアはあたしの子を助けるために、一緒に捕まってくれたんだよ……っ」
「それに、それに……! 今は、危ない時期なの、赤ちゃん、ダメになっちゃうよ……っ!」
「わ……かった」
 ガヴィとアルヤに畳み掛けられ、ぎくしゃくと首を縦に振り、ワレットを振り返ると、「わりい、時間をくれ。ちょっとうちのやつ、迎えに行ってくる」

 アッシュは右手と右足を同時に出すような奇妙な歩き方で、くるりと市街地へ向けて歩き出した。
「あっ、おい、アシュレイ……?」





 あと二、三話で終わりです^^; (2011.05.21)