なんだか妙に息が切れる気がして、ルークは剣を置いて庭に置かれたベンチに崩れるように腰を下ろした。
これはアッシュが歪みなく作ることが出来た、初めての作品で、「子どもと男は褒めて伸ばせ」という友人たちの訓告通りに褒めちぎり、大げさに喜んで見せ、夜もちょっと──かなりサービスしてみたところ、アッシュの中で「上手に出来たら何か良いことがある」という図式が出来てしまったらしく、ルークがねだるまでもなく自らお揃いのテーブルも作り始め、これも完璧に仕上げたものだ。
察するに、彼には少し真剣味が足りなかったのだろう。ルークの裁縫は、趣味だからこそ上達も早かったが、アッシュは別に、木工が趣味というわけではない。それを考えれば、彼は頑張ってくれている方なのだろう。……結局のところ、自分のためかも知れないのだが。
汗を拭って、そのテーブルの上に用意しておいた水差しからグラスに水を注ぎ、一気に流し込む。またツキリ、と下腹が痛み、ルークは軽く眉を寄せた。
勘が完全に戻ると、剣の稽古はやはり楽しいと感じた。体力と腕力は男ほどあるわけではないから、別の何かでそれを補ってやらねばならない、その試行錯誤もそれなりに面白い。何より女性体になって太りやすくなったと感じる身体を適度に締めたまま保つことが出来るのがありがたかった。仕事で遠出するたび、現地で人気のある菓子の類いを土産に買ってくる、アッシュの密かな野望を──ほとんど表情を変えない顔の下で、ルークの抱き心地をアップさせようと目論んでいることなど、お見通しだ──素知らぬ顔で喜んで見せながらも挫くのは、結構な努力が必要なのだ。
前ほどには熱心になれなかったとしても、せいぜい一週間程度稽古をしなかっただけで、なぜこれほどに体力が衰えているのだろう? それに、嫌な感じの寒気が、絶え間なく冷や冷やと襲っていた。
こうなってから思い起こしてみれば、意識していなかっただけで、この寒気は少し前からずっとしていたような気がする。気になって何度か熱を測ってみたが、平熱とは言えないが微熱があるとも言えない、微妙な体温のままだ。
月のものが訪れる前にはいろいろと常にない体調の変化を覚えるものだが、アッシュが不在の時のこの異常は、不安ばかりを誘う。
──何よりも、この身体の重さ、体力の衰えは、全く記憶にないものではなかった。あの戦いの終盤には、常にルークを苦しめ、怯えさせた──……。
大爆発は、本当にもう起こらないのだろうか?
あの駆け落ち騒動のあと、ジェイドに調べてもらった時には、もはや同位体ですらないという結果をもらったばかりなのに……。
アッシュが、なぜ今ここにいないのだろう。
今、ここにいて欲しい。
「馬鹿なこと言ってんな、この屑」と笑い飛ばして欲しい。
そして融けたような優しいいつもの顔で、「心配するな」と抱きしめて欲しい──。
寂しくて、怖くて、不安で、涙が零れた。
ガヴィの手から生まれて間もない赤ん坊を受け取り、彼女の長男、少女のように整った優しい顔立ちのヤーノが、涙を一杯に溜めた顔をガヴィの胸に押し付けるのを、ルークたちは苦笑して見つめた。
「ヤーノもじき六歳になるけど、まだまだ母さんのオッパイが恋しくて仕方ないんだね」
「乳離れしたなと思ってても、下の子が生まれるとぶり返したりするし」
「焼き餅もあるんだろうけどさ」
「それもあるけど、男の子は結局、生涯乳離れしないんだよ。アンリが生まれたとき、うちの旦那はオッパイやってるあたしの横で、ずっと恨みがましい目で見てたもん」
「あー……」
「ああ……」
「……聞くねえ、そーいうこと」
誰かが出産すると、それを助けるため、近所中の友人たちが集まって一月くらいは食事を交代で持ち寄ったり、上の子の面倒をみたりする。ルークはおしめ係なので、必然的に赤ん坊の世話を任されることが多く、前から何度もあちこち手伝いに行っているので、離乳食作りや赤ん坊の世話は慣れたもの。未だ首の座らない赤ん坊を抱いて、危なげもない。ガヴィは、横目でそれを監督しながらも、子育てからのしばしの解放にくつろぎ、色んな話に花を咲かす。
まだまだ両親のどちらに似ているとも言えない赤ん坊をあやしながら、ルークは必死で笑いを噛み殺していた。
「俺にも味見させろとか言わなかった?」
「ええっ?! そんな、気持ち悪いっ!!」
「あ、言った言った」
「うちもー」
「面白かったから飲ませてみたけど、図体のでかい大の男がうっとりしちゃって、ちょっと引いた……」
「あーわかる。子どもが乳離れしても旦那が吸ってるから、いつまでも母乳が止まんなくて参ったよ」
「あんたの亭主は見るからにオッパイ教の敬虔なる信者って感じだもんね、分かるよ」
「ねえ。……それってどういう意味?」
「何よルキア。にやにやしちゃってさあ。……ま、あんたんちにはあんまり関係ない話だろうけど」
母乳……は、さすがに男だったころを思い出しても興味なかったなあと、苦笑していたルークは、突然話を振られ、軽く驚いて目をしばたかせた。
「さすがに母乳には興味ないだろうけど、うちも変わんないよ。信者だよ? オッパイ大好きっ子だもん」
「えっ」
「うっそだあ〜!」
「えーっ、いやだ!」
「ちょっとヤダぁーっ! まさかほんとのことじゃないよね?!」
途端に全員から悲鳴が上がり、大声に驚いた赤ん坊がひくり、としゃくりあげる気配を感じて、ルークは慌てて赤ん坊を揺すり上げる。
「えっ? や、ほんと……」
「マジで止めて、ほんと止めて、あんたの旦那、ちょっと震えが来るくらいいい男なのにー」
まだ横になっているガヴィまで顔を覆って嘆いているのを見て、ルークは日頃アッシュに対して抱いている複雑な思いを誰も共有してくれそうにない理不尽に気付き、慌てて言った。
「顔は関係ないだろ。ヤーノとおんなじだよ。帰って来たら胸にぱふっ。本を読み終わったら胸にぱふっ。剣の手入れが終わってぱふっ、とにかくぱふっ! ほんのちょっとの暇さえあれば、ってゆーか、目が合ったらとにかくぎゅーってして、ぱふっなの! 起き抜けには鼻から突っ込んで来てるし、いつか、起きたら胸のところで窒息死してるんじゃないかってヒヤヒヤしてるんだから!」
アッシュは昔から胸、胸、でかい胸と言っていたのだから、胸が好きなのは知っていた。いや、それを責める気はない。思い返すと、確かに自分も、ティアを意識し始めたきっかけは、あのメロンだった気がするから。でも、ルークは、ティアの胸に顔を埋めてみたいとは思わなかった──まあ、あの頃の自分は、いっそ哀れなくらいその手のことには無知で奥手ではあったのだけれども──だからアッシュの「だっこ欠乏症」にも思い至ったわけなのだが、今の話を聞く限りでは、アッシュはむしろ普通なのかも知れない。もう違うとはいえ、元は完全同位体。やはりルークはアッシュのレプリカ情報から作られたことに変わりはなく、さすがにアッシュが、ルークの母乳を飲みたがるような男ではないことくらい、わかる。
「いやーっ! 聞きたくない!」
「ふっ、どんなに顔が良くたって、所詮男は男なんだね……」
「顔っていうか、オッパイ信者でも許せる男とそうじゃない男がいて、ルキアの旦那は後者なのよ。あの手の美形は、例え本音はどうでも表に出すことを許されていないの!」
「まあ、あんたって巨乳だし。確かに一度吸い付いたら離れないかもねー」
「巨乳ゆーな!!」
「ああっ、どこかに胸にこだわりのない男はいないものなのか」
「はいはーい! あたしの亭主は小さいのが好きって言いまーす!」
「……思いっきりこだわりがあるじゃないのよ」
「お前の父上は、オッパイが大好きなんだってさ。だからオッパイの時間には思い切り飲んでおかないと、お前まで回ってこないかも知れないぞ?」
赤ん坊が、大人のくせにオッパイに吸い付く父親を軽蔑することなどないだろうと、と抱いた赤ん坊にこっそり話しかけていると、ふいにアルヤが今気付いたように声を上げた。
「……ねえルキア。体調でも悪いの?」
それを聞いて、全員がルークの方を一斉に見たので、ルークは血の気が引いた──いや。どこも悪くない、「今は」。まさか、どっか、透けて見えたり、とか……。
「あっ……いや。……そんなことない……よ? どうして……?」
「えっ、いやっ。今日は暑いのに、厚着してるから……」
音がするほど急激に蒼白になったルークを見て、アルヤが慌てて言い募る。「顔色悪いよ……貧血?」
ああ、それかとじわりと額に浮いた気味の悪い汗を拭って、ルークは怯えているのを気付かれないように赤ん坊を揺すり上げ、あやすフリをしながら友人たちから顔を隠した。
「なんか、ここのところ寒気がしててさ……なんていうの、これから熱が上がるよ、みたいな感じの。冷や冷や、っていう」
「風邪? 熱は?」
「う、うん……。うちの人は身体が熱いって気にしてたけど、計ってみても微熱……っていうのも微妙な感じでさ……。平熱よりはあるかな。でも、上がってこないんだよね」
全員が顔を見合わせたのが視界の端に映り、ルークは再びひんやりする心地で縋るように友人たちを見つめた。「あの──何か心当たりあるの? ……この症状」
「……熱、計ったの今日だけ?」
「う、ううん。昨日も、一昨日も。その前も、うちの人が出かけてから……」
「ちょっと、ライラ。そんなこともう、どうでもいいよ──ずばり聞くよ! 吐き気は?」
「何がずばりだよ、先に聞くことあるだろ。ちょっとルキア、あんた、最近生理はどうなの?」
身を乗り出す女たちを押しのけるようにして、アルヤが聞いてくるのに、ルークはやっぱりそれなのかと安堵のあまり力が抜けるような心持ちで首を振った。
「うん、もうすぐ来るよ。ずっと下っ腹がちくちく痛んでるんだ」
「──もうすぐ、生理予定日なの?」
「えっ、ううん、分かんない……。私、すごい不定期で。来たり来なかったりなんだ。先月もなかったかな、でも、始まる前にはこんな風に痛むから……」
「要するに、しばらく来てないのね?」
「う、うん」
女たちはしん、と口を噤んだが、全員何かを言いたげにうずうずと口元がひく付いている。その中でアルヤが──今や一番の親友と言っていい女が赤ん坊を受け取り、ガヴィに抱かせると、がしっとルークの肩をつかんだ。
「子ども」
「えっ」
「妊娠してるかも」
「はあ?」考えたことすらなかったことを言われて、ルークはきょとんと友人たちを見回し、疑問を顔中に浮かべて頭をひねった。「レプリカでも、子どもって出来んの?」
「あんた、生理がなんのためにあると思ってんの」
「……あ、でも……。ガヴィみたいに気持ち悪くて食事出来なかったり、ブウサギ饅が異常に食べたくなったりとか……ないけど」
「何にもない、ラッキーなひともいるのよ。あんたもそうかも。──ヤーノの時は苺だったのに、なんだって今回はブウサギ饅だったのか……っ」
「ああそうそう。凄かったよね。あたしはあのころ嫁入り前でさ、実家の果物屋で店番してたんだよね。すげー量買ってくな、ジャムでも作んのかと思ってたのに、まさかむさぼり食ってたとは」
「──まあ、そういう人も多いけど、私も何にも無かったよ? お腹膨らんできて、太ったーって思ってたの。義母に子どもいるんじゃ、って言われるまで気付かなかったもん!」
「そうなの……?」
そうは言われたって、ぴんと来るはずもない。腹を見下ろして撫でてみもしたが、そこはまだ薄いままだ──いや、今改めて意識して見てみると、脂肪の層がうっすら、厚くなったような気がしないでもない。……ような気もする。
「でも、生理痛が」
「似ているけど、子宮が大きくなる痛みかも」
「あの……疲れやすくなったり、ちょっと動くとすぐ息切れしたりもする? 昨日、稽古がまともに出来なかったんだ」
「それは、当たりの可能性高いかも!」
夫が貧乳好きだというナティンがはしゃいだ声をあげると、アルヤがもう、我慢出来ないといったようにルークの腕を掴んで揺すった。
「ねえ、産院に行こうよ。はっきりさせた方がいいって。あたし、付いてったげる!」
(2011.05.18)

