禍つ日の恐れも、君の光に雲と散りて 03

 頭と口元を漆黒の布で覆い隠し、黒衣を纏った人影が、その屋敷を望む山の中腹に姿を表した。

 月も細く痩せており、己の手すらほとんど見えない闇の中で、その人物の足取りは全く危なげがない。ただの一度も木の根に足を取られることなく、枝や蔓に頭をかけることもなく獣道を駆け抜けていく。やがて開けた場所に出ると、微かな月光の下に、四人の人影が見えた。
「遅かったじゃねえか。何かあったのか」
 低く、少し酒に焼けた声が下を見下ろしたまま問うと、黒衣の男は無言でその横に腹這いになり、同じように眼下に見える屋敷にきつい視線を向けた。
「ワレット。あの家には、もう目標がいねえぞ」
「なに?」
「どういうことだ、アシュレイ」
 その場にいた四人の視線がアシュレイ──アッシュに向けられ、アッシュは眼下の屋敷を囲む土壁の一部を指差した。
「どうやら自力で抜け出したらしい。あそこの家畜小屋の側の壁に、子どもが一人通れるだけの綻びがあった。後ろには少し急な崖があるんだが、注意力のある子どもなら降りられるだろう。あとはご覧の通りの河原、川を下れば森を抜けるよりゃ安全に逃げられると考えたんだろう……頭も要領もいいやつだ」
「そこから逃げたとなぜわかるんだよ?」
 同じギルドに入って間もない、エリックが突っかかる。彼と仕事をするのは初めてだったが、彼は行きの道中もアッシュにだけよく絡んで来た。年が近いので、どうしても意識せざるを得ないのだろう。性格は悪くなく、素直なので、苦笑は漏れるが腹が立つほどではなかった。──いや、どちらかといえば、気に入っている方かも知れない。
「素人が、ましてや子どもがどれほど注意したところで、そこを通ったあとを完全に消せやしねえからだ。──あの軍人崩れはごまかせたようだが」
 アッシュが静かに答えると、それぞれが考え込むように、黙り込んだ。




 一人の母親がいる。
 亡き夫の実家に、半ば誘拐のように連れ去られた息子を取り戻したい彼女は、何度も屋敷を訪ねたが、その度に子どもはいないと突っぱねられる。子どもの姿を一度も見ることは出来なくとも、母親はそこに息子がいると確信し、払われようが打たれようが子どもを返せと叫び続けた。彼女は貧しく、力も無く、他にどうすることも出来なかったからだ。
 子どもを盗られたまま五年が過ぎたころ、母親は縁あってそこそこ金持ちの男と再婚することになった。優しい男は妻になる女に子どもを取り返すよう勧め、知人のギルドに子どもをと取り返して欲しいと依頼した。子どもが確かに屋敷に囚われていることは確認出来たが、バレて警戒されたらしく、軍人崩れの用心棒が何人も雇われ、手に負えなくなったギルドからアッシュたちのギルドに話が回ったのだった。

 だがその依頼は、果たされる前に子どもが自力で逃走するという、考えうる中でも最も面倒な事態になっていきつつある。子どもが魔物に殺されたり、何らかの事故で命を落とす前に、なんとしても見つけ出さねばならない。
「……十やそこいらの子どもに、そんな知恵が回るものかねえ……」首を傾げるジギーにアッシュが苦い笑みを向けた。
「回すさ、どうしても逃げ出したければ」
「……アシュレイ、追えるか」
「追える」
「とりあえず保護しねえことにゃ後金が貰えねえからな。そんじゃ、ま、行きますかね」




 河原から、ほんの少しだけ浮いた小石、先がほんの少しだけ曲がった枝の先、そんなものから、子どもが確かにそこを通ったことを、まるで猟犬のように確かめながら、五人は川を下り続けた。時には一体どこで、或は何でそれと判断しているのか分からないアッシュの観察眼に、ワレットが苦笑する。
「隠密行動に長けてて、単独の仕事が多いヤツだと聞いてたが……。追跡まで得意とは、お前、うちに来るまではどこで何をしてたんだ?」
「……」

 ダアトの特務師団は、通常の特務機関とは違い、主な任務であった諜報のほか、暗殺や破壊工作などの謀略活動も総括して行った。暗部は出来るだけ小さくまとめておいたほうが、それだけ口の端に上らずに済むし、いざというとき口封じするにも便利だ。
 そのせいで一人にかかる負担は大きかったが、結局今になって様々な恩恵を受けている。何日もかけて、一人で標的を追いつめたことが、一度や二度ではない。アッシュは、慣れているのだ。
 だがそれを話すことは出来ず、口を閉じてしまったアッシュの肩を、ワレットがぽん、と叩いた。
「──悪かった。昔のことなんて、誰も言いたかねえやな」

「昔がろくでもなくたって、今が良けりゃ相殺だろ。あんな美人で胸がでかくて料理上手のかみさんもらいやがってよう。俺のところには未だに誰も来ちゃくれねえってのに」
「豆腐屋のアンナちゃんはどうしたんだよ?」
 エリックが問うのに、
「会うたびにやりたがるって文句ばっかでウゼーからよ……」
「──要は振られたんだな?」
「るっせーな! 今はニコールちゃんがいるからいいんだ!」
「夕星館のか? 娼婦じゃねえか」

 ジギーの愚痴からなぜかどこの娼館のどの女がいいかとか、そんな話になっていき、一人で子どもの痕跡を辿っているアッシュ以外の者の気が抜けている時だ。
「血の痕だ」
 声を出したのはエリックだったが、その前には全員がそれを認識していただろう。ほんの少量にしろ、月明かりにも白く浮かび上がった河原の砂利の上に、黒く飛び散った血の痕が乾いていた。
「……」
 最悪の事態を想像して佇む四人の間を、アッシュが抜けた。
「ここにも落ちている」
 アッシュは顔を上げて目の前の浅い川をみやり、ざぶざぶと対岸へ渡って行く。
「あっ、おい!」
「ちょっと向こうを見てみるだけだ。川を渡ったのかも知れねえし」
 臑の半ばほどまでの浅い川だが、十の子どもにはどうだろう? 大人の、ブーツの足ならばさほど問題はないが、子どもが、衣服を濡らすと身動きをとるのが大変でもあるし、身体を損ねるのも心配だ。
 髪の毛の一本も見逃さないように、と気を引き締めたが、すぐにアッシュはますます眉を寄せて、対岸で探索を続ける四人に来いと合図を送った。

「こりゃ……」
 小さく、まだ弱いものではあったが、魔物は魔物。大きさは中型の犬くらいだろうか。その死骸が、食い荒らされて河原から上がった草むらに放置されていた。
「魔物が出たんじゃ、ガキはもう生きてねえかも知れねえなあ」
 しゃがみ込んで死骸を調べているアッシュの横で、アリソンが後頭部を掻くような仕草で呟いた瞬間、アッシュが剣を引き抜いた。一拍遅れてワレットが続く。
 残りの三人が気配に、魔物の襲撃に気付いて剣を抜く頃には、すでに半数が二人によって倒されていた。
 ことにアッシュは、剣士としては超一流の人物に、長きにわたって師事し、教団の騎士団という名目の軍隊にて鍛錬と実戦を繰り返してきたわけだから、自己流の剣術を研鑽して上り詰めた他の者と比べると、動きが洗練されていて無駄がない。他の者が一頭を倒す間に二、三頭はまとめて倒していたが、数の多さに面倒くさくなって、さっさとエクスプロードを放ってすっきりと片をつけると、剣を振って血油を払った。
「……なんだそりゃ。お前、譜術も使えんのかよ」
 これまでさんざんアッシュと張り合って来たエリックが力なく呟くのにちらりと苦笑し「……どうも」と答えたあと、アッシュは五人のリーダーであるワレットに目を向けた。
「ワレット、子どもは、まだ死んじゃいねえかも知れねえぞ」
「……? なぜそう思うんだ?」
「骨に刃物で出来た傷が複数残ってんだ。俺は、子どもが魔物を倒して、この先へ向かったと思う。すぐに離れていれば、こいつの血の臭いが他の魔物をおびき寄せてくれる。子どもは安全に逃げ延びた可能性は高え。……だが、急いだ方がいい。こんな幸運、そう何度もねえだろ。次こそは、子どもの方が死んで食い荒らされることになりかねねえ」
「馬鹿な。まだ十歳だぜ?」
 呆れたようにエリックが鼻を鳴らすのに、
「……俺はやった。ダアトからバチカルまで、魔物を倒しながら一人で旅したことがある。──ちょうど、十歳のころだ」
 一瞬しん、と場が静まるのに頓着もせず、アッシュは淡々と続ける。
「とはいえ、俺はその数年前から剣の稽古を欠かしていなかったからな。五年の間、あの小さい屋敷に閉じ込められていた子どもほど、条件がきつくなかった」
 ワレットが頭を掻き、唸った。
「……まあ、俺たちが子どもを見失ったのは確かだ。だが、このまま子どもがいませんでしたで帰るわけにもいかねえし……」
「このまま、追跡するのがいいと思うね。アシュレイの言う通りであることを祈って」
「こっちの方向は……ケセドニアか」
「まてよ? そうすると、アシュレイの言う通り、この子ども、かなりここの回るやつかも知れねえな。魔物に追われて川を渡ったんじゃねえのかも……。全員、子どもの痕跡を探ってくれ」
 ワレットがこめかみの辺りをトントンと叩きながら言うのに、全員が頷いた。

 しばらく無言で周囲を探っていたところ、随分先の方まで行っていたエリックが子どもの足跡らしきものを発見し、駆け戻って来た。
 全員で小さなそれを取り囲み確認すると、やっとその場に、ほっとしたような弛緩した空気が漂った。
「屋敷じゃかなり監視もあったろうに、抜かり無く武器や地図を用意して、あの軍人崩れを出し抜いたあげく、魔物を倒してここまで来たか……。確かにただのガキじゃねえな」
 少し呆れたように、ジギーがうなじを撫でながら言うと、
「だな。じゃ、ガキを追いつつケセドニアに帰るぜ! なんとしても途中で拾わにゃ、前金だけじゃ経費でトントン、大損だからな!」
 子どもが生きていれば向かったであろうケセドニアに向けて、五人は予定よりも早い帰路に着いた。




「アシュレイ、嬉しそうだな?」
 ジギーがからかうように肩を抱いた。「もうルキアちゃんが恋しいんだろ。昨日の朝ケセドニアを発ったばっかだってのによう」
 む、と馴れ馴れしいジギーを睨んだが、図星を突かれて迫力がなかったらしく、くくく、というくぐもった笑い声がする。
「ジギー、羨ましいからって、からかってやるな。あのかみさんじゃ無理もねえんだ」
 たしなめているように見えて、実はからかっているアリソンは、ルークの友達の夫で、家族ぐるみで普段から行き来があった。
「どんな奥さんなんだ?」
 興味津々、といった様子で話に入ってくるエリックに、アッシュは溜め息をつく。アリソンかジギーと同じ仕事に入ると、絶対にルークの話になるから、もういい加減慣れそうなものを、毎回アッシュはなんというべきか律儀に悩んだ。
 
 アッシュとしては、ルークの美しさ、愛らしさ、性質の良さなど、相手が聞きたいと思うだけ思い切り喧伝したいところだが、下手に興味を持たれるのも困るし嫌だ……。
 というわけで、悩んだ末に出る言葉は毎回、
「別に、普通だ」
というぶっきらぼうな一言のみである。だが、
「……ちょっと、可愛いかも知れねえ……」
 今回何かとアッシュを意識しているらしいエリックに、本当に「普通の奥さん」と思われるのも業腹で、後からそっと一言だけ付け加えてしまったのは仕方のないことだろう。

 ルークはこれまでも人目を惹く、綺麗な女だったけれど、結婚してからの彼女は一枚も二枚も殻を脱ぎ捨てたように美しくなった。本当は誰にも見せずに仕舞っておきたいくらいだ。容姿だけじゃない。アッシュに似合い、それでいてどんな動きも阻害しない服を縫い、まだまだ上昇中の料理の腕を生かしてアッシュの口に合う、美味しいものを次々に作り出していく。プロに、家庭に納まるのは惜しいと言われた声で、朗らかに歌を歌いながらくるくると家事をこなす様は、いつまで見ていてもアッシュを飽きさせることがなかった。
 だがそんな、良く出来た妻の顔も、夜になるとアッシュの腕の中で、彼だけに見せる「女」の顔に、鮮やかに表情を変える。
 暗い部屋の中で真珠色に濡れ光る肌、張り出した胸や尻に比べてほっそりしたウエストの、絶妙にバランスの取れたスタイルはアッシュの密かな自慢の一つだったし、それはとても感度が良く、楽器を爪弾くようなアッシュの愛撫に合わせて震え、撓い、彼一人のために悦びの歌を歌う。
 ルークの良いところを述べるための枚挙に暇はなく、言葉を惜しむつもりもないが、それはすべて、彼一人が知っているべきことなのだ。

 エリックは少し驚いたように目を見張り、面白そうな顔をして「へえ」とだけ言った。他の三人もなにやらにやにやしている。おそらくアッシュの心情を正確に見抜いたからなのだろうが、アッシュもそこのところをにおわせるような微妙な言い回しをしているのだから、それは構わない。
 ただ、うっすらと赤くなった頬を隠すように、そっぽを向いた。





しばらく、オリキャラばかりで話が進行します。(2011.05.17)