禍つ日の恐れも、君の光に雲と散りて 02

 弁当を用意することは出来なかったので、日持ちするよう甘く焼き締めた菓子だけを持たせてアッシュを送り出すと、ルークはしょんぼりと肩を落とした。

 一週間は長い。
 今、アッシュを倒せる者などおそらくいないであろうから、何か危険があるとも思えないし、ルークを見捨てて帰ってこない、なんてことも絶対にあり得ない、つまり必ず帰ってくるのが分かっているから、前のような不安はない。ただ、寂しいのだ。 
 結婚生活が長くなると、夫のたまの不在はいい息抜きになると友人たちは言うが、ルークはまだそこまでの心境にはなれなかった。たった一晩の留守でさえ、寂しいのに。

 にこやかに笑っているつもりなのに そんな寂しい思いが顔に出てしまっていたようで、アッシュはルークの表情を胸を突かれたような顔で見て、いつもより深い口づけをして、顔中にキスを落とし、家の中でルークの胸に鼻を突っ込んでいる時とはがらりと違う、「男」の顔をして家とルークに背を向けた。

 ──くやしい。
 なんでこういうときだけ、こんなカッコいいんだろう──

 手の甲で濡れた唇を隠し、紅く染まった、今にも涙がこぼれ落ちそうな顔で、ルークはアッシュの後ろ姿をただ見送る。今、アッシュのそんな顔は、ベッドの中でしか見ることが出来ないから、だからふと、朝のアッシュの、まるで苦痛を堪えるように寄せられた眉や、切なそうにルークを呼ぶ声や、汗に濡れた肌の匂いなんか思い出してしまうんだと思う。

「……今日は忙しいんだから、ぼやっとしてる暇ない……!」
 振り切るように両頬を叩いて自分自身に活を入れ、ルークは肩を回した。

 友人のガヴィが、一週間ちょっと前に二人目の子を生んだ。そこでしばらくは、近所中の仲間が交代でおかずを持ち寄ったり、掃除をしたり、上の子の面倒をみたりして、ガヴィの負担を減らす手伝いをするのである。
 今日ルークは、新しく縫ったおむつを持って行き、赤ん坊の世話をする予定になっていた。おかずを作って行くものもいるが、ルークは縫い物が得意だし、仕事柄、肌触りの良い端切れも多く持っている。あともう少しで、全部が縫い上がるので、午前中に全部済ませてしまおう。

 ──そう思うのだが、なんだか身体が重くて、なかなか仕事は進まない。朝のあれのせいかも知れないけれど、下腹が少し痛んでいることを考えればそろそろ月のものがくるのであろうせいなのかも知れなかった。元々が女性体ではなかったせいか、或はレプリカであるからか──単に体質の可能性もあるが──毎月必ずしもきっちり来るわけではないのだが、始まる前には必ずこんな風に痛みが来るのでそれと分かる。

「……だめだ。今日は出来た分だけ持って行くことにして、少し横になろ……」
 出したばかりの道具を片付けて這うようにベッドに戻り、ブランケットを身体に巻き付けると、初めて自分が少し寒いと思っていたことに気付いた。
(熱、あるんじゃないかって、アッシュが言ってたっけ……)

 アッシュ……。

 こうなると、少し心細い。今、アッシュに側にいて欲しかった。
 いつもアッシュが眠る側へ転がってゆき、彼の枕を抱え込むと、少しだけ心細さが薄れるような気がする。シャワーを浴びないままの身体にもアッシュの匂いがまつわりついていて、まるで朝の続きのような、アッシュが全身でルークを抱きくるんでいてくれているような気持ちになって、迫り上がる寂しさに涙が滲んだ。ほんのちょっと前に送り出したばかりなのに……。少し情緒不安定になっているのは、きっと月のもののせいなのだろう。いつもは甘えてばかりのアッシュだけど、こういう時はきっと彼もルークを甘やかしてくれるはずだった。アッシュはルークが自分に甘えるのも、甘やかすのも好きだ。おそらく、日頃は自分の方がルークに甘えていることには気付いていないのだと思う。

 まだ男であった頃には想像も付かないほど、女たちは異性の話にあけすけだ。屋敷にいたころ、そのせいで高熱を出したこともあるルークだけれど、今は──元は男であったせいかたまに閉口することもあるが──正直楽しんでいると思う。だが、とてもアッシュには聞かせられないと思うような話を繰り返し聞いたり、話したりしているうち、ルークには気になったことが一つあった。むろん、アッシュのことだ。

 もしかしたら皆、少し話を割り引いて話しているのかもしれない。本当はもっともっと、友人たちの夫は妻の胸に執着しているのかも。だか、それを考慮してもアッシュの、ルークの胸──乳房に対する執着心はいささか度を超しているような気がしていた。

 ふと、それに気付いたのは、ガヴィの長男が母の胸にしがみついているのを見た時だったと思う。胸の間に顔を突っ込むようにして、安心してうとうとしている子どもを見て、アッシュのようだと苦笑し、ふいに、アッシュは「だっこ」の足りない子どもなのだと、ルークは気付いたのだ。
 彼の性格を考えると、そして自分がどういう「前のルーク様」と比べられ続けたのか考えると、真実彼が子どもであったとき、そう素直にシュザンヌに「だっこ」をねだったとは思えない。
 反対に、ルークはシュザンヌにもたくさん抱いてもらったし、小さな頃にはねだりもした。両手を伸ばして上を見上げるだけで、それは微笑みとともに簡単に与えられたものだ。
 ──何より、ルークにはガイがいた──
 ルークが寂しいとき、悲しいとき、頭痛に苦しめられているとき、単に人恋しいだけのときだって、ガイはそれをルーク本人よりも先に感じ取り、彼を抱きしめた。そうされて初めて、自分がハグを欲しがっていたことに気付く、なんてことが何度あったことか。

 対して、アッシュに、子どもの彼が寂しいとき、辛いとき、誰かの暖かい胸や腕、優しい言葉が欲しいとき、それを慰めるために彼にそれを与えてくれた者がいただろうか? 抱きしめてくれた者がいたのだろうか? ──師匠? それはないだろう、おそらく。彼には、一人でいるのが悲しく寂しい夜に、暖かい腕や胸を与える者はいなかったはずだ。

 だから、きっとアッシュは、今自分でも意識せず、子ども時代をやり直しているのだろうと思う。──ルークを母に見立てて。

 ルークの胸に顔を押し付けて、必死と言ってもいい様子ですがりつくように抱きしめて、なのに安心しきった、不思議に穏やかな寝顔を見て、ルークは確信したのだった。小さなアッシュが、どれほど母の、シュザンヌの胸を切望していたのか。
 そして、自分が母性を持つもの、女という存在であることに、初めて感謝したい気持ちになった。
 アッシュはルークがまだ少年だった頃から好きだったと言ってくれたけれど、ルークがあのまま男という性であったなら、例えこういう関係になっていたとしても、アッシュはこんな甘え方はしなかったと思う。恋人関係ならば、多少は弱みも見せてくれただろう。けれど、対等でなければ、いや、自分の方がより強く、頼もしくあらねばと、張り合ってしまうところも多かったように思うのだ。
 だけど現実にはルークは女で、彼の妻でもある。アッシュが負け続けていても、弱みを知られても、恥にはならないし、なんの脅威にもならない、この世でたった一つのものだ。

 あの辛く、激しかった戦いの中で、些細な気配ですぐに目を覚まして臨戦態勢に入っていたアッシュが、起こしても起こしてもなかなか目を覚ましてくれなくて困るような日がこようとは……。それほどに自分の胸の中が安心出来る場所だと、アッシュが無意識に思ってくれているということは素直に嬉しいと思うけれど、なんだか自分がアッシュをダメな男にしていきつつあるようで、複雑な思いもするのだった。





 やはり誤解を招きそうなので、タイトルを少し変更しました^^; (2011.05.15)