深いまどろみから浮かび上がるように目を覚ますと、いつものように、真紅の頭が胸元にこすりつけられていた。
眠気の残滓をまつわりつかせたまま、その深い紅に指を入れ、梳くように撫でる。
「アッシュ。朝だよ」
同じ洗髪剤の香りのする髪にキスを落としながら囁くと、紅い頭はイヤイヤをするように微かに横に振られ、ますます強く鼻面をルークの胸の谷間に押し込んできた。
規則正しい寝息が、途切れずに続いているところを見れば、ほとんど無意識の仕草なのだろう。起きる気配は全くない。
(ま、一回や二回で起きないのはいつものことだし……)
いつも不思議で仕方ないのだが、こんな寝方をして、窒息したりしないのだろうか? 夜、二人でベッドに入り、明かりを消す時には、確かにルークはアッシュに守られるように抱き締められているはずなのだけれど、朝起きると必ずいつも、この体勢になっている。寝苦しそうに見えて仕方ないのに、彼は熟睡していて、すぐに起きてはくれなかった。
一応、身体に回ったアッシュの両腕から、なんとか抜け出そうと、それなりに努力はしてみるのだ。だが、どんなに静かに抜け出そうとしても、その気配を感じると、アッシュはルークを放すまいとぎゅうぎゅう腕に力を入れてくるので、この努力が報われたことなど一度もない。可哀相でも一度起こすしかないのである。
ルークの胸に顔を埋めたまま、いつまでも抱きついて、顔中にキスをしてもらってようやく腕を緩めてくれるとか。起きない起きないと焦っていると、突然のしかかってきて朝っぱらから最後まで行ってしまったりとか。とにかく、いかなるパターンであろうと、放す前にひとしきりルークに甘え、ようやくしぶしぶと諦めて、ルークが側から離れることを許してくれるのである。
ルークが手早く髪を上げて簡単な化粧をし、朝食の準備を整えてからアッシュを起こすのだが、これが毎朝の一大事だった。返事をしたくらいでは信用が出来ない。そのまま三度寝に突入してしまうからだ。朝の時間は貴重だというのに、ベッドから立ち上がるところまで見届けなければならなかった。
一年と少し前、しわくちゃの婚礼衣装のままケセドニアの聖堂に駆け込む前までは、確かにアッシュは起きると決めた時間に一人できっちり起き出していたはずなのだが……。
ルークはいつもパーティーの皆から寝穢いとからかわれていた。自分がレプリカだと分かったあとは、実年齢が低いせいだと思ってきたが──子どもはいつでも眠いものだ──この様を見ていると、どうも被験者に似てしまっただけのようにも思える。アッシュは意思が強いから、きっとそんなところも自分できっちりと管理していたのだろうに。
「アッシュ、もう放してくれなくちゃ。お弁当、作れないよ?」
数日間家を空けるアッシュに、一度簡単なサンドイッチや焼き菓子を渡したところ、あまり表情を変えないアッシュがちょっと照れたような、嬉しそうな顔をしたので、以来ルークは、出来るだけ弁当や日持ちのする焼き菓子を持たせることにしているのである。
耳元で囁かれる、羽のように穏やかで甘いルークの声に、アッシュが喉の奥で短い唸り声を上げた。
それで何を要求されたか分かってしまう自分に苦笑しながら、ルークは再びぎゅっとアッシュの頭を抱きしめた。この最後の触れ合いのあとには、ようやくアッシュも諦めてルークを放してくれるはずである。
「……お前、熱があるんじゃねえか……?」
寝起きでしゃがれ、胸に押し付けてくぐもった声が、いつもと違うことを囁いた。
「えっ? ないよ? どうして?」
驚いて胸元を見直すと、「胸が熱い」とぼそりとした返事が返る。
思わず笑って「お前がしがみついてるからだろ」と指摘すると、その体勢に初めて気付いたように慌てて離れようとする気配がした。それをそっと抱き戻すと、おとなしく抱きしめられながらも息を潜めている様子が分かり、愛おしさが胸から溢れ出た。
額と両頬、唇と、ついでに鼻の頭にもキスをして、ようやくルークを抱きしめる力が緩んだアッシュの腕からするりと抜ける。アッシュが休みであるなら、いつまでも甘やかしてやりたいのだけれど、そうも言っていられない。
「……ありがと。朝ご飯出来たら起こすから、アッシュはもう少し寝てな」
冷たい床にペタリと両足を降ろしたとたん、にゅっと背後から太い腕が伸びて腰に回り、抜け出したばかりのベッドに再び引きずり込まれる。ずしりと分厚い身体がのしかかり、ナイトドレスの肩紐を解かれて、固く荒れた手の平が乳房をまさぐり出したら、もう諦めるほかなかった。
さすがに起き抜けで、ルークはそんな気もすぐには起こらないのだれど、「殿方に求められたら、決して拒否してはなりません。その気になれないことを悟られてもいけません」というイレインメソッドが鮮やかに蘇ると、拒否の言葉を口に上らせるどころか、悟らせないよう演技するのも慣れたもの。
──最初の十数分だけ気付かれることなくそれで乗り切れれば、アッシュは必ずルークの身体に火を付けてくれるから、最後までその気になれないなんてことはないのだけれども。彼は、ルークの弱いところを探し出すことにかけてはかなり貪欲だったから。初めて二人が結ばれてから一年以上経った今でさえ、熱心に探求し続けている。ただ、アッシュが求める時にはいつでもノリノリで──そう思わせるよう努力しているせいなのだが──自分がしたいときにはルークから誘いをかけるわけで、つまり年中発情しているちょっとエッチな奥さんなのだとアッシュが思い込んで悦に入っているようなのが癪といえば癪かも知れない。
だが今日も、アッシュは愛しい妻の信頼にしっかりと答えた。
「アッシュ、ちゃんと食べなきゃダメだよ」
アッシュにシャワーを浴びさせている間、ルークは適当に身を拭って朝食の用意をする。
時間がないので手を抜いたものしか用意出来なかったが、頑張って整えたのに、アッシュは食欲がないのか、カトラリーの先でつつき回しているだけだ。子どものようなアッシュを見やり、ルークが注意すると、「分かってる」と憮然と答え、いかにもだるそうに口に運ぶ。この朝のやりとりももう何度繰り返したことか……。
アッシュは明らかに疲弊している。彼が一度に出来る回数は、そう多くはないのだけれど、その一度があまりにも長く、濃く、激しいので、もう当分しなくてもいいという気になるのではないかという気になるくらい疲れ切ってしまう。むしろ回復はルークの方が早いのではないだろうか。なので責任感の強いアッシュは、ちょっとしんどいかなと思うような仕事の前日には「しない」と決めているはずで、昨夜もきちんと我慢したはずなのに、いざ当日になって、しばらく会えなくなることが寂しくなってしまったのだろう。今回は一週間の予定で出かけるので、アシュレイとルキアのファブルス夫妻──むろん偽名である──にとっては少し長い離ればなれ期間となる。
さすがに時間が圧しているのでそこまで長くは頑張らなかったが、疲労の色はうっすら顔に出ていて、こんな顔を見たら、また同じギルドの仲間たちにからかわれるのだろうにと、微かに溜め息をつく。
「……俺の留守中、くれぐれも身の回りのことには気をつけてくれ。──出来れば、剣を持ち歩いてた方がいいかも知れねえ」
かろうじて出された物を腹に収め、すかさず目の前に滑り込まされたお茶にいつもは一匙の砂糖を二匙──少しでも疲労回復しようということなんだろう──入れて掻き混ぜながら、アッシュが言うのに、ルークが問うような視線を返す。
「ここ最近、街や村の近郊で、誘拐事件が多発してんだ。被験者、レプリカの区別はねえ……。ケセドニアではまだ確認されていないが、バチカルでも数人出たらしい。大都市でも安全じゃねえってことだ。ここはキムラスカ、マルクト、ダアトと三つの軍が駐屯する都市だし、安全だというヤツもいるんだが……とにかく気をつけてくれ」
「分かった、気を付ける」
ルークは気を引き締めて、素直に頷いた。
自分にもしものことがあれば、なんだかこの甘えんぼのアッシュが正気ではいられないような気がするから、他のどんなものよりも自分の命を優先させなければならない。ルークにとって、絶対に失うことが出来ない、この世で最も大切なアッシュ本人よりも──だ、不思議なことに。
「ここじゃそんな話まだ全然聞かないけど──攫われるのは、女の人ばかりなの?」
「いや、子どもばかりだ、大体五歳前後から十歳前後の……ちょうどお前くらいの」
「……」
ふざけんなよ、とルークは目を眇めて己の夫を眺めたが、彼は非常に神妙な顔をしてお茶を啜っており、自分の発言の不審さにも、妻の表情の変化にも気付いていない様子だ。
アッシュの頭の中で、十二、三の少女のルーク、朝っぱらからの夫の激しい求めにも、積極的に腰をくねらせて応じるルークが、一体どういう塩梅で混在しているのか、一度ジェイドに頼んで切り開いた脳の中身を見せてもらいたい。
ルークは溜め息を付いた。