ルークを部屋に戻し、自分も離れに駆け戻って目立たない平服に着替え、顔や髪を隠せる大きなフードのついたマントを羽織る。剣帯に剣を下げ、部屋の中にある金目のものをすべてかっさらって小袋に入れ、上着の内ポケットに突っ込んだ。
ルークの部屋に再び戻り、ノックして返事を待たずにドアを開けると、着替え終えたらしいルークがちょこんとベッドの端に腰掛けていた。思わず脱力しそうになる。
「なんでドレスなんだよ」
「? 普段着だぜ? それにこれが一番動きやすい。木綿で、一人で着られるやつだし……駄目?」
「……前着ていたようなのは持ってねえのか?」
「あれは男の服だよ? 持ってないし、あんなの着て万一正体がバレたら、うちに迷惑かけるもん……これじゃ駄目?」
「……いや、いい。分かった。靴は?」
黙ってルークが裾を持ち上げると、三センチ程度の低いかかとのブーツを履いていた。
「よし。いくぞ。……剣は持たねえのか?」
「えっ、あ」
まるで思い至らなかったらしいルークははっとしたように目を見開き、クローゼットの奥を探って、仕舞い込まれたままだった剣と剣帯を見つけ出し、利き手で取り上げたのだが、すぐに重さに疲れたように取り落とした。放り捨てたと言っても言い。
しんとした部屋にその音は思いがけず大きく響き、ルークはなぜ自分が剣を取り落としたのか分からないという顔で、ぶるぶる震える両手を見つめていた。
「……剣はいい。マントを着て、フードを被れ」
無言でルークは頷き、震えながら毛皮のついた黒いマントを羽織ったが、それはどうみても貴族の女性がパーティドレスの上に羽織るもので、一般に旅に使用するようなものではなかった。
「……まあいいか」
二年前はもう少し色々なことに気が回っていたように思うのだが、今は精神状態そのままにやることがちぐはぐなルークに哀しみを覚え、アッシュは首を振って、ルークの手首を掴み、足早に歩き出した。
ルークが慌てたように、側においていた大きな皮鞄を持ち上げる。
「なんだ、それは」
「えっ? 着替えとか……化粧品とか……」
「化…………寄越せ。俺が持つから」
「え、うん……」
二人が玄関ホールまで到着すると、ラムダスやメイド、白光騎士などが待ち構えていた。メイドの一人が駆け寄ってルークのマントを脱がせ、流したままの髪を飾りけのない黒いかんざし一本で簡単にまとめると、庶民の旅人が普通に来ている旅用の質素なマントを着せかける。髪がこぼれたり見えたりしないように、整えながら深くフードを被せた。
驚くアッシュにラムダスが進みでて、小さく作った手荷物を渡した。
「現金に換えられるものが入っております。奥様からでございます」
ラムダスが振り仰ぐのに吊られてそちらを見ると、なんとシュザンヌまでがその場に来ていた。
「旦那様には後でわたくしからお話します。お行きなさい」
「お母様」
「……落ち着き場所が定まったら、連絡します」
シュザンヌの方へ走り寄ろうとするルークの腰を捕え、アッシュは半ば引きずるようにルークを連れ出した。
外に出ると一礼する白光騎士に頷いて、ルークの手首を掴み走り出す。夜の上層部はあまり人の姿も無く、下層までは白光騎士が先導したが、下層についてからは人目ににつくのはマズいので、天空滑車には乗らずに二人は廃工場に滑り込んだ。
黴と古い機械油の臭いのする薄暗い廃工場の中、ルークはアッシュに引きずられながら、今はもう自分の視線よりはるか上にある、紅い髪がなびいている頭部を見つめた。自分の倍ほどもあるのではないかと思われる広い肩幅や背中を見つめた。手首を掴んでいる手は大きく、いつもひんやりした己の手と比べると燃えるように熱かった。
自分の被験者。同位体。
アッシュの姿は、今はもう、無いものにされた、己の姿。
それは少しずつ少しずつ、少年のルークが憧れた、強く、逞しい大人の男に変わっていく。
アッシュが視界に入るたび、ルークはその事実を否が応でも無く突きつけられる。
もし、自分があのまま男でいたならば、自分もこのように逞しく、男らしい姿を得ていたはず。ティアの隣に立って、なんら見劣りしない男になっていたはずなのに。
人一人の体重をすべてかけても、びくともしない、アッシュ。
──昔使っていたのと同じ剣すら、持ち上げていられない、自分。
そう思うと、悔しさや怒り、それ以上の恥ずかしさが急に込み上げてきて、ルークは必死になってアッシュの手を振りほどいた。「離せよ!!」
「ルーク?」
急に暴れ出したルークに怪訝な顔を向けるアッシュに、ルークはわめき散らした。
「お前なんなんだよ、急に! おれは屋敷に戻る、どこにもいかねえ!」
「ルーク!!」
「その名で呼ぶな! おれはルークじゃねえ! もう、ルークじゃねえ!!」
「……ルシファ」
「──! そんなのっ……! おれは、おれは……」
「……お前の好きなように呼んでやる。……なんと呼べばいい」
「劣化レプリカでも複写人間でも屑でも好きに呼べば良いだろ?! おれは男でも女でもない、歪で出来の悪い劣化レプリカ、愚かで、役立たず、頑張っても、頑張ってるのに、何一つちゃんと出来ない、刺繍は失敗するし、授業はさぼるし……イレイン先生になんて思われたか……」
「……汚れは落とされていたし、刺繍はプロの職人はだしだと思ったが。それに、その先生はお前のそんな様子、きっと気付いて心配していると思うぞ」
「お前になんでそんなこと分かる?! 男のお前に、刺繍なんか、縫い物なんかしたことのねえお前に何がわかんの?! イレイン先生におれがどんなこと教わってると思ってんだ!? 自分じゃなくて良かったって、女になったのが出来損ないのレプリカの方で良かったって思ってるくせに!!」
瞬間、アッシュが打たれたような顔をして目を見開いた。
そう、確かに俺は、ルークが女になって良かったと思った。出来損ないの方だからじゃない、自分は二年も前から、確かにルークを愛していたから。
──ああ、俺は、ルークを愛している。だけどルークには、あの頃好きな相手がいて、俺のことなど眼中になかった。ルークが女になって、やっとヴァンの妹から心も身体も引き離すことが出来た。だからこそ俺にも彼、彼女を手に入れるチャンスが与えられた、と喜んだのだ。
いや……。
そんなチャンスなどない。ルークには、彼女を幸せにして、輝くように微笑ませてやれる夫がすでに決まっている。俺はおそらく、戻らないままのルークの替わりに、いずれナタリアと結婚する事になるのだろう。俺は出来るだけ彼女を彼女のまま、何も損なわず、彼女の「夫」に手渡してやることしか、それしか役割の与えられない、ただの脇役にすぎないのだ……。
傷ついたようなアッシュの顔を見て、突然ルークが大声で泣き出した。
「ご、ごめ、ごめんあっしゅ、あっしゅおれ、おれそんなこというつもりじゃなかった、ごめ、ごめんなさいごめんなさい」
たまらなくなって、アッシュはルークを引き寄せ、思い切り抱きしめた。20センチ以上の身長差の開いた小さな体は、身をかがめても抱きしめづらかった。同時に、庇護欲も強くかき立てられる。そんな風に感じる事さえ、今のルークを傷つけてしまうのだろうけれど。
「ごめんなさいは俺の方だ。済まない、済まない。俺達はいつだってお前ばかりを傷つけて、お前ばかりに負担を強いている。……俺、俺達は、ただ、お前が側にいてくれりゃいいんだ。笑っててくれてりゃそれでいいんだ。無理して欲しいわけじゃねえ。完璧にふるまえなんて思ってねえ。したくないことをして欲しいわけじゃねえんだ」
「……私、刺繍が嫌いなわけ、じゃないよ? 上手に出来たら、嬉しいし……」
「刺繍のことだけじゃねえんだよ。上手に出来なくたっていいじゃねえか」
「だめだ、上手に出来なきゃ、誰にも褒めてもらえねーじゃん……」
ころころと変わる一人称と言葉遣いは、完全に壊れる前の譜業のようで、アッシュの心胆を寒からしめた。思い起こせば、もうずっと前からルークの言葉遣いはこんな感じだった──自分の前では。誰の前でも完璧な女性として振る舞っていたルークが、自分一人に発していた無意識の救難信号であったのに、なぜこんなになるまで見過ごしてしまったのだろう。「折り合いがつかずにボロボロになった」と未来のルークも言っていたのに、自分はそれを知っていたのに。
「まだ屋敷へ戻りたいか」
「……だって、帰らなくちゃ。頂いたお手紙の返事も書きかけだもん。イレイン先生のレッスンも一回遅れたし、明日は」
「戻りたいか?」
「……だって、だって、どうするの。もう帰って来なくていいって言われたら……役立たずの娘なんかいらねえって言われたら」
「誰がそんなこと言うってんだ」
「誰って。……皆が」
「皆って誰だ」
「…………」
黙り込んでしまったルークの身体を抱きしめたまま、アッシュはほっと息をついた。「皆」の正体はルークにも分かっていない。ルークはちゃんと、心の奥底では屋敷の皆に愛されていることをわかっている。まだ、間に合う。
「……今は分からねえかも知れねえが、お前は今、ちょっと病気になりかけてんだ。だから、皆は少し、お前が誰の目も気にしないでいい所で療養してほしいと思ってるんだ。元気に帰って来て欲しいと思ってんだ。……誰も止めなかったろ?」
「おれ、病気なんかじゃない、よ……? どっこも悪くねえ。……お、追い出されたら、おれ、どこにも行くとこなんか」
「いいや、病気なんだよ。一体何キロ痩せた?」
「──っ。別に、少しだけ。ちょっとだけだもん……」
「ごまかしたって分かるんだよ、もう、服の上からでもな。鶏ガラみてえに痩せやがって、肉をつけろと言ったろうが」
「肉、肉って!! これ以上付けてどうするの?! 今だって脂肪の塊が全身にぶよぶよぶよぶよ……ああやだ、やだ、やだ! なんでこんなになっちまったんだろう……」
宥めるように頭を撫でてやりながら、アッシュは辛抱強く繰り返した。
「……病気なんだ。治るまで、俺が一緒にいる。──追い出すんじゃねえって、分かんだろ、一緒に行くんだ」
諦めたような溜め息がアッシュの胸元で吐かれ、強ばった体からふっと力が抜けたのが分かった。
「とにかく、倍に太るまで屋敷へは帰さねえからな」
「……倍にって、嫌だよそんなの。生理とかいうのが始まったら、皆がこれから女の子らしく丸い身体になっていくっていうんだ。おめでとうなんて言うんだ。でもおれ、嫌だよそんなの。いやなんだ」
「倍だ。絶対譲らねえぞ。俺が厳しく監督してやる」
そっと手を取ると、ルークは今度はいやがらず、握り返して来た。入って来た方とは逆の方面に歩き出しても、おとなしく付いてくる。
「……お前、太めの女が好きなのか?」
「悪いか。ガリガリに痩せた女よりはな。お前だってそうだったろ」
「そ……そうだったっけ? よく……憶えてねえや……。でも私は、太るのはやだ。胸だって……もっと小さかったらいいのに……」
「女の胸はでかいに限る」
憮然と言い切ったアッシュに、ルークはプッと吹き出した。
「お前、今大勢の女を敵に回したぜ。大体、ナタリアだって」
「ナタリア、お前の胸を食いつきそうな目で見ていたな」
「そうだった? でも大抵の男もそうだよな。話する時、おれの胸ばっか見てる。そこ、私の顔ではありませんわよって言いたくなる。目を見て話せって」
「ちっ」
「アッシュは胸胸言ってる割には、わざと目を逸らしてるよね?」
アッシュが舌打ちを漏らすのに、ルークはすっと上目遣いの流し目をくれた。その、ぬれぬれとした大きな翡翠の瞳には異様な光が宿り、艶を含んでゾッとするほど妖艶に見えた。体の中心にあるものが、ずくりと一度小さく痙攣し、マズい、と慌てて目を逸らす。
これは女になって、タチの悪い生きものになったのと違うだろうか。
案の定、アッシュが顔を逸らした気配を察して、ルークがくすり、と笑みをこぼしたのが分かった。