気を張り続けたパーティーも失敗なく終え──どころか、内外に名を広めて、ルークのみならずファブレ家の面々はひとまず胸を撫で下ろした。
パーティーの後二日ほどは、ルークもさすがに疲れたかぐったりしていたのだが、その後は招待状が舞い込むごとに、積極的に出かけているようだった。中には明らかにレプリカの娘を皆で吊るし上げるのが目的のサロンなどもあり、シュザンヌは良い顔をしなかったが、ルークはそれもレプリカの理解を深めるためと割り切って出かけていき、多くは彼らのうち数人を友人として帰ってきた。人懐っこさ、人を惹き付ける素直な表情と会話の上手さだけではなく、若い娘たちは、「ルシファ」という美貌の娘の纏う異性の香を、おそらくは敏感に嗅ぎ取るのだろう。
男たちの間で名を広める、目障りな娘を少しからかってやろうという意図のサロンでは友人を、「ルシファ姫」を信奉する若者たちのパーティでは新たな信奉者を得て行き、家庭教師たちから叩き込まれた技を的確に実戦して、ルークは徐々に名を上げていく。教師たちから成果を褒められることは、これまでになかった喜びであり、ルークの機嫌もしばらくは良かった。だが、日が経つにつれ、再びルークの様子は少しずつ変化していった。
相変わらず良く出かけてはいるようだった。ルークは基本的に、招待を断らない。日取りが重なってしまった時には、後から届いた招待状に、別の日に会いたいとこちらから招待状を出したりしてフォローする。
行けばそれなりに楽しんで帰るようなのだが、その分疲弊もしていた。食事を取れないほど疲れていることもある。初めの頃は、屋敷の者たちもルークが屋敷で食事を取らないことも、さほど心配してはいなかった。出かけた先で、何も摘む物が出ないなどということがあるはずがないからだ。
少しずつ皆が異常に気付き始め、遠回しにルークに注意を促し始めた頃には、すでに事態は取り返しのつかない所へ進み始めていたのだった。
アッシュが、領地ベルケンドに帰るクリムゾンに同行して一月、バチカルの屋敷に久しぶりに帰宅したその夜、異変は起きた。
「姿が見えない?」
「そうなんです、お昼前には機嫌良く刺繍をなさってたんです。その時針で指を突かれてしまわれて、ほんのちょっと、布を汚してしまわれたんです。白い布でしたけど、ほんの一滴、血を零されただけです。わたくしどももすぐに対処しましたし、汚れは綺麗になりましたが、ルシファ様は突然大声で泣き出されて」
一人が言うと、
「まるで子供のようにです。皆で宥めて、汚れを落とした布地も干す前にご覧に入れたんです。お部屋までお送りして、着替えと洗顔をお手伝い致しました。そのあと、確かにベッドに横になられたのに……!」
「お屋敷中を探しているのに見付からなくて……」
厳しい顔をして、ものも言わずに踵を返したアッシュに、メイドたちは追いすがり、次々に訴えた。
「この頃、だいぶお痩せになりましたし、私たちはこのところルシファ様の評判がどんどん上がられていくことで、逆にルシファ様が絶対に失敗出来ない、完璧でなければ、と気を張り過ぎていらっしゃるのではとずっと言っていたんです。でもルシファ様はそんなこと絶対にないから、旦那様や奥様、アッシュ様には報告しないで欲しいと言われて……」
「随分前から食事もあまり取られないんです。初めはお出かけになった先で呼ばれていらっしゃることだしと気にしていなかったんですが……。医者を呼んではといっても、食べられないわけではない、ダイエットをしなければと言われて……!」
「なんだと?」
アッシュは大股に中庭へ向かいながら、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
或は「ダイエット」というのは表向きのいい訳に過ぎず、本当はなんらかの原因で食事を取れないのかとも考えたが、そうではないのだろうか。
あれだけ止めろと言ったのに……!
「……いつからだ」
「はい、あの……」
「はっきり言え!」
「……ルシファ様が、初潮をお迎えになった頃からです……」
驚愕に、足が止まった。「初……それは、いつの話だ……?」
「新年のパーティーの、お衣装選びの少し前です。──お許し下さい、ルシファ様の被験者でいらっしゃれど、男性のお耳に入れることではありませんでしたので」
「初潮を迎えたばかりの頃に、心のバランスを崩すのは良くあることですし、ひどくなられたのはここ一月の話ですから、それは切欠にすぎず、原因は他にあるのではと奥様はおっしゃっておられますが……」
「母上が? ──そうか。分かった、ありがとう。俺も探す。お前達も引き続き捜索を続けてくれ。──仕事もあるのに、済まないな」
「いえ、アッシュ様こそお帰りになられたばかりで、お疲れでいらっしゃるのに……。ご無理はなさいませんよう。どうか」
「分かっている」
メイド達がそれぞれ別の方角へ走って行ってしまうと、アッシュはぐしゃりと髪をかき回した。
浅はかなことに、 今の今まで、そんなことがルークの身に起きていたなど、想像だにしなかった。子供を産んでいたのだから、それは当たり前のことなのだろうが、なんと言ってもルークは、たった二年前まで身近な少女に片思いをしているような、まだ多感な時期の少年だったのに……。それなのに、この自分のレプリカ、たまたま完全同位体として誕生してしまったがために、なんという惨い試練ばかりが負わせられるのだろう。このルークが一体どうしたらあの、未来のルークのように輝くような笑顔を見せられるようになるのか、そのために何をすればいいのか、アッシュには全く見当もつかなかった。
目を閉じて、 ルークの「気配」を探った。だが、ここはルークの家であり、どこもかしこもルークの気配で満ちている。屋敷を出た「気配」がないことだけは確かだったので、仕方なく、今はもう、使うもののない自分の部屋の隣、「ルーク」の部屋を皮切りにあちこち走り回った。
彼が思いつきそうな所は、すでに白光騎士たち、メイド達が探したあとだと気付いたのは、随分探しまわり、汗をかき始めた頃だった。盛大な舌打ちが漏れる。崩れて落ちて来て、汗に濡れた邪魔な前髪を掻き揚げつつどこに隠れているのかと考えて、ふと、ルークがまだ十やそこらの子供である事を思い出した。
(大人が思いつきそうな場所にはいねえんじゃねえか……? 俺が子供の頃、実験の苦痛に泣いた顔を見られたくなくて隠れた場所はどこだったか……)
上着を脱いで手に抱え、広大なファブレ邸の外庭を走る。敷地の隅にある、大きな欅の根もとの茂みを押し上げると、それに隠されていた樹洞の中に、果たしてルークがいた。
息を整えながら、傷ついた猫の仔のように体を丸めて眠っているルークを呆然と見つめ、慌てて体の下に手を入れて引き出したのだが、泣いたあとの色濃く残るその顔を一目見て、アッシュは絶句した。
最初に思ったのは生きているのか、ということだった。たった今、薄い夜着越しに確かな体温を感じたにも関わらず……。淡い月明かりに、痩けた頬、くっきりと浮き出た目の下の隈、荒れた肌、乾いた皮膚が白く浮いた、かさかさの唇、ミイラのように痩せて筋張った腕、艶を失った作り物のような髪、化粧や衣装と言ったごまかしを取り去った、すべてが晒された。
確かに、前にも痩せた、と思った。肌も荒れていると思った。だが、ここまで酷くはなかった。この一月の不在の間、ルークに一体何が起こったというのだろう。
「お、おい……ルーク」
軽く頬を叩く。
「ルーク。起きろ」
「ん……」
何度か繰り返すと、ルークがぼんやりと目を開けた。「あっしゅ?」
ほっ、と息を吐くと、ルークはぼんやりしたまま周囲を見回し、すっかり夜になってしまっているのを見て取った。びくり、とアッシュの腕の中で身体が一度、小さく跳ねる。次いでわなわなと震え出し、目が大きく見開かれた。
「あ、あ、午後からイレイン先生の授業があったのに……! わ、私、おれ、いつからここに」
「メイド達が言うには昼前からだそうだが……」
「お昼、あ、そ、そう、刺繍、駄目にした。一度も失敗せずに綺麗に出来てたのに……汚しちゃったんだ……駄目、駄目、駄目だこんなことじゃ、ああ……」
「刺繍していた布地は綺麗になったんだろう? メイドが洗ったのを見せたと言っていたが、憶えてないのか?」
「血で汚しちゃったんだよ?! 血は取れないんだ洗ったくらいじゃ綺麗になんてならないんだ失敗したんだからそれは捨てなくちゃ駄目なんだよ。失敗したのはいらねえんだ。ああ、ああ……イレイン先生は? もう帰られたわよね? どうしようただでさえ遅れてるのにもう一度いや明日来ていだたいて。でも生徒は私だけじゃないのにまた迷惑かける迷惑……」
子供のように口を尖らせて血走った目を見開き、指を鉤状に固く曲げて、ぶつぶつとうわごとのように何かを呟いているルークを見下ろして、アッシュはぞっとし、汗ばんだ体が急速に冷えていくのを感じた。
これは、一体誰なんだろう?
生命力に満ちて活き活きとした未来のルークどころか、これは二年前の、巨大な闇を身の内に抱え込みつつも、いつも明るく振る舞おうとしていたルークですらない。
「ルシファ」の目には何も映っていない。目の前の自分の姿ですら。
ぽっかりと開いた光を失った両目の奥から、ルークの内部に広がる巨大な虚が覗けるような気がした。
──このままでは、まずい。
アッシュは薄い夜着一枚の冷えきった体を脱いだ上着で包み、抱き上げた。あまりの軽さに思わず舌打ちが漏れる。
「アッシュ?」
「ルーク、部屋に戻ったら、旅支度を整えろ。動きやすい服を持ってるか」
「う……うん。あるよ。旅に出るのか?」
「ああ。たまにはいいだろ」
「ほんと……? 嬉しいな。アッシュ知ってた? おれ、旅が大好きなんだ。うんと広くって、誰も知らない遠いところへ行きたいな」
爆発寸前の狂気を孕んでいた瞳が、ほんの少し和らいだ。「あ……けど、駄目だよ。今日イレイン先生のレッスンさぼっちまったんだ、明日お願いして来てもらわなきゃ」
「しばらくさぼってもいい」
「それは駄目だよ。私はスタートが遅くって、ただでさえ憶えが悪いんだもの」
ルークはアッシュの腕の中で駄目だ駄目だと繰り返し続けたが、特に暴れたりはしなかったので、アッシュは無視して足早に母屋に急いだ。途中次々に、同じくルークを探していたメイドたちや白光騎士たちに行き会う。ルークの疲れ切った表情を見て、皆一様に胸を突かれたように表情を変え、痛ましそうに俯いた。