顔を洗いたい、お風呂に入りたい、髪の美容液を忘れて来たから買って欲しい、化粧水用のコットンがない、それは質が悪いから駄目、これは香りが強すぎるからイヤ、あれが食べたい、それが飲みたい、これは食べたくない、野宿はしたくない、そこよりあっちの宿がいい、などなど。
徒歩で旅を続け、地図にも乗らない小さな村や集落を点々と移動しながら、ルークはひっきりなしにアッシュに我が儘を言い続けた。それが彼女の本当の欲求なのかはアッシュには分からなかったが──あのルークが美容液を欲しがって駄々を捏ねるなど!──屋敷にいた間、誰に対しても、小さな願い一つ口にしなかったルークが、自分にだけは甘えて、こうも遠慮なく口に出してくることが素直に嬉しく、アッシュははいはいとルークを甘やかし続けた。
──食事に関すること以外は。
見ていると、元々偏食の多いルークが、食べたら太ると思うものを更に注意深く取り除いた結果として、摂取量が激減したものらしい。小鳥だってもう少し食べるだろう。だが、まるで一口分しかないような量でさえ、ルークはしかめっ面で義務的につつくだけなのだった。
他の件に関してはどこまでも甘やかす覚悟のアッシュも、これに関しては宣言通り譲る気もない。食事の時間になると二人は怒鳴り合いを繰り返した。そうしていると、まるで二年前のルークとの、数々のやり取りが戻ったようにさえ思え、アッシュは懐かしいような気まずいような、不思議な気分に陥る。
あの不思議な出来事のあとは、それほど棘のある言い合いも無くなっていたのだが、今、ルークを思って怒っているのをやはり本人も分かっているのか、怒鳴り合ったり掴み合ったり、時に蹴ったり引っ掻いたり大暴れするルークを押さえ込んで、口に食べ物を抉じ入れるような乱暴な真似をするアッシュに反発しながらも、少しずつ食事の量を増やす努力をしてはいるようだ。
二人は、なんのかのと喧嘩をしたり仲直りをしたり、笑い合ったりしながらもおおむね仲良く旅を続け、ケセドニアに着いたあと、キムラスカ側の町外れに、家具付きの小さな家を借りた。
この巨大な街は、やはりなんといってもちっぽけな二人の人間が身を隠すのには向いているし、アッシュが仕事を見つけるにも都合が良かった。特に紹介状も特殊な技能も必要ない仕事と言えばやはり剣の技倆を活かせる傭兵しかなく、しかも毎日帰宅することが条件となればあまり高額の条件の良い仕事は受けられない。
しかしアッシュは稽古は欠かさず行っていたものの、実戦からは二年も遠ざかっていたのだし、リハビリがてらにこなせる仕事としてはその程度で良いと思っていた。
途方にくれたのはルークだった。
彼は音譜帯の上の疑似世界でこそ剣の稽古をしていたということだが、戻って来てからの半年以上、一度も剣を握っていない。体力も筋力も衰え、まともに剣を持ち上げることさえ出来なかった。
「アッシュと一緒に働く事も出来ないなら、おれは毎日何をしていればいいんだろう?」
好きな事をしていろというのは簡単だったが、今のルークにそれを言えば困るだけなのが分かっていたから、アッシュは首を傾げて言った。
「当分ここにいることになるんだ、取り敢えずはうちの中を住みやすく整えてくれたらありがたいんだが……」
二人して家の中を見回す。最低限の家具は揃っているとはいえ、カーテンや調理器具も何もない、人が長く生活するにはとても向かない空間だった。ルークがベッドをポンとはたくと、ぼわっと白い埃が舞った。
「……分かった、そうだな。マットを外に出して、埃を叩くのだけは手伝ってくれよ。今日寝る所だけでも、確保しなくちゃ」
四苦八苦して大きなマットを外に運び出し、ルークはぱたぱたとマットを叩き、アッシュが洗濯しない事には使えないシーツの類いを剥がしてかき集めていると、家の外から話し声が聞こえた。
どうやら近所の主婦達らしく、ルークもにこやかに応対していようで、アッシュは強ばった体から力を抜く。
「新婚さんなの?」
その問いに、ルークは否とも応とも答えず、笑みを乗せて俯いていた。うまいな、と思っていると、逆にルークからあれこれ話しかけ、いつのまにか輪になって談笑が進んでいる。
あれは一種の才能であるとアッシュは思う。完全同位体であった頃から、ルークには人を惹き付け、いつの間にか場の中心になるような不思議なカリスマがあった。自分にもあると人は言ってくれたが、それは人を無条件に従える王としてのカリスマなのだそうだ。さてどちらが真に王としての魅力を持つものかと問えば、アッシュにはそれは前者であるように思えた。人を惹き付ける王には、部下たちの忠誠心を最後の一滴まで差し出させる魅力があるものだ。
体力、知力、譜術、超振動の制御能力など、そういった面ではルークは、アッシュに遠く及ばない。だが、こうして、ルークのほうがアッシュより秀でた部分も、実はたくさん持っている。誰がなんという言葉で罵ろうと、ルーク自身がどれほど己を卑下しようと、決して劣化コピーなどではなかったのだ。
旅の間に実感したことだが、ルークと話をしていると、人は、自分がものすごく優れた話し手であると錯覚させられる。自分が特別な人間だと思い込まされるのだ。いつだって身を乗り出すように熱心に聞いているし、的確に繰り出される質問はルークが確かに話を理解しながら聞いている証拠で、笑わせたい、と思う所で素直に笑い、時には唇を尖らせて拗ねてみせたりもする。ルークの口車に乗って、特務師団所属のころの話も随分と吐かされたし、二年前に一人飛び回っていたころの話もいつの間にかほとんどを知られていた。辛いことばかりで、二度と思い出したくないとまで思っていたことの数々が、ルークの相づちや質問に答えているうち、そのころの自分はそれなりに楽しかったのだと、何故か気付かされたりもした。
(この俺でもそうなんだから、近所の主婦達、ましてや貴族のお坊ちゃんなんかはひとたまりもなかったろうな)
常になかった穏やかな気分で、ここ最近では見る事のなかったルークの楽しげな顔を見つめていると、ルークは自分の正体を知らない者の前では、案外のびのびとくつろいでいるのだと思い知らされた。新年のパーティーでもそうだったし、おそらくは招待された先でもそうだったのだろう。
(タタル渓谷であいつを捕まえたとき、すぐに屋敷に連れ帰ったのは間違いだったのかも知れねえ……)
自分には決して向けられることのない、明るく屈託の無い笑顔を窓越しに見つめて、アッシュはまた一つ、ルークに借りを増やしたような気がした。
ルークたちはなにやら約束を交わした様子で、皆楽しそうに手を振りながら去って行った。再びルークがマットを叩いている音が聞こえて来たが、今度はそれに歌声が混じっているのに気付き、アッシュは今度こそひっそりと破顔したのだった。
丸一日掛けて埃だらけのマットをはたき、シーツを洗って干し、窓にシーツを括り付けてカーテンの替わりにしてから、二人で買い出しに出かけた。大騒ぎしながら二人で料理し──料理に関しては、ルークは全く使い物にならないことが分かっているので、食材を切らせてもらっただけで、作るのはアッシュである──二人で食べた。
アッシュに怒鳴られ、怒鳴り返し、時には癇癪を起こしてアッシュの顔に皿を投げつけたりしながらも、少しずつ食べる事ができるようになっていたルークは、この日も叱られながらではあったが半人前くらいは食べられただろうか。
「明日ご近所の皆が、食材とか、金物とか、布地が安い店を教えてくれるって言うんだ。それでね、いつまでも窓にシーツを括っておくってのもなんだし、好きな布を買って来て自分で縫おうと思うんだけど……」
「わかった。金は好きなだけ持って行くといい」
「……おれもアッシュもあんまり着替えを持って来なかったから、それも作っちゃいたいんだけど……?」
「お前が作るのか? 買った方が楽だろう」
「既製品は高いから、数が揃えられないだろ。おれはまだ仕事決められないから、無駄遣いしたくない。一から作れば材料費だけだし、針はさぼると指が動かなくなる」
ここ半年ほどはクリムゾンの指示のもと、なまじの貴族では出来ない贅沢な生活をしていたルークだったが、バチカルを出て、ここに来るまでの、我が儘の数々をすべて聞いてもらえたことで、或は憑き物が落ちたのか、仲間たちと一年旅した間に染み付いた庶民感覚を取り戻したように、急に締り屋っぽいことを言うのがおかしく、また、「針」を「剣」に置き換えて考えると、なるほどそういうこともあるかも知れない、とアッシュは苦笑し、
「店ごと買い占めてくるといい」
と言ったのだが、内心はて、と首を傾げていた。この会話、なんだか……?
「ほんと? ありがと。どういうデザインにしようかなあ。あとで採寸させてね?」
まあいいか、とアッシュは思う。取り敢えずルークが楽しそうなら、それでいい。
アッシュはシュザンヌから手渡されたものに手をつけるのはいよいよの時と決めていて、それまでは出来るだけ自分の力でなんとかしたかった。万が一仕事がすぐに見付からずとも、手持ちの金でしばらくは家賃が払え、少し広めの庭も付いていて、日当たりが良く、ご近所ともいい感じに距離のあるここを一目で気に入ったのはルークだったが、アッシュは実はこの家には問題が一つあると思っている。
この家には寝室もベッドも一つしかないのだ。近いうちにもう一台入れるにしても、さすがに今晩はどうしようもない。
居間のソファを寝床として整え始めたアッシュに、ルークが不審な顔を向けた。
「なにやってるの、アッシュ」
「見て分からねえか。寝支度だ。──ち、これも明日は外で叩かねえと」
「ベッドはあっちだよ。でかいんだから、二人でも寝られるぜ?」
「お前、一応嫁入り、いや婿取り前だろ。被験者とレプリカといえど、同衾はまずい」
「じゃ、おれもこっちの部屋で寝る」
「……俺の話を聞いてなかったのか?」
「旅の間は一緒に寝てたじゃん」
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねえ。同じ部屋でもベッドは二つあったろうが」
「……一人で居たくないんだもん……」
(こいつマジでタチが悪くねえか……?!)
「お前も元は男だったんだ、男の生理ぐれえ分かんだろ」
「男の生理……ってなに? おれ……おれにはまだ来てなかった、かも?」
女性のそれと混同しているようなルークの発言に、アッシュは盛大な唸り声をあげて、頭を掻きむしった。ナリがこうなのでつい忘れがちになるが、ルークはまだまだ子供なのだ。
そう気付くと直接的な説明をするのも気が咎め、どうしたものかと困り果てて見つめていると、それに気付いたルークがふと俯いた。
「……困らせてごめん。おれ、あっちで寝る、よ」
「──ちっ」盛大な舌打ちをして、アッシュはぐしゃぐしゃと頭を掻き回した。「……何があっても後悔すんじゃねえぞ」
「え、あ、うん……?」
大きな瞳に涙の幕が張っているのを見て、アッシュの意志も簡単に砕け、あっさりと無条件降伏してしまったのだが、その後長く──実に半年以上も──しがみついてくるルークの豊満な胸がどんな体勢でいても背中に、胸に押し当てられるのに、度々こっそりとベッドを抜け出して、一人で処理しなければならないはめになるとは夢にも思わなかったのだった。