パーティ会場にアッシュとルークが入場したのは、本当に最後の最後だった。『ルーク』の知人も多い王城の、ファブレ家のために用意された部屋から、震えの止まらないルークをなかなか連れ出すことが出来なかったからだ。
挨拶回りもあるので、公爵夫妻は後ろ髪を引かれる思いをしながらも後事をアッシュに託して先に会場入りしている。じきに国王や王女が入場する、その前にはなんとか会場に潜り込んでいないと、とアッシュが表には出さずに焦り始めたころ、ルークはそれを感じ取ったのか、もう大丈夫だと消え入るような声で言った。
「……本当に大丈夫なのか」
どう見ても大丈夫なようには見えない、真っ青な顔色のルークの前に視線を合わせて膝を付き、手を取ってみると、薄いレースの長手袋越しに、まるで生きている人のものとも思えない、芯から冷え冷えと凍え、細かく震える手が触れた。ルークの感じる緊張と恐怖が伝わって来て、何かそれを軽くしてやれる言葉はないかと考えても、元来気の利かない彼にそんな魔法の言葉が使えるはずもなく。どんな一言もその口の端に乗せることが出来なかった。結局彼がルークにしてやれることといえば、ルークの小さな両手をぎゅっと握り込むように包んで、温めてやることくらいか。
ルークは驚いて目を見張り、自分の手を包む、白い手袋に包まれた大きな手を見つめ、「お前の手……大きいな」と暗い表情で呟いたが、やがてふ、と諦めたような笑みをこぼしてアッシュの顔を覗き込んだ。
「その手袋の淵飾りと紋章、私が刺繍したんだよ。──本当なら、長男のアッシュにはファブレ本家の跡取りが継ぐ……なんだっけ? なんとか伯爵家の紋章を入れるのが筋って聞いたけど、アッシュはやっぱりファブレを継がない可能性の方が高いっていうし、今は他に爵位を持ってないから、ファブレ公爵家の紋章にしたんだ……ごめん」
「お前が、これを?」
アッシュは驚いて、ルークの手を握ったまま、自分の真新しい白い手袋を見つめた。袖口に隠れて、淵の部分は見えないが、同色の艶のある糸で目立たないよう入れられた紋章の上の部分は袖口から覗いていた。手にはめる時には気にもかけなかったその恐ろしく細かい意匠が、剣士にあるまじき身のこなしでどたどた走っていたあのルークが刺したものとは……。
「謝ることなんかねえだろ。……いや、驚いた。これが素人の手とはとても思えねえ……。職人が刺したものと思ってたから、気にもかけなかったんだが、意外な才能に恵まれているなお前」
思いがけない素直な賛辞に、ルークは一瞬だけ意外そうな表情を閃かせ、頬を染めて俯いた。
「え……そ、そう? そうかな? そう言われると……すげー嬉しい。良かった……」
しばらくの間、二人はほのぼのと手を握ったり握られたまま、手袋を見つめていたのだが、ふとルークが我に帰って顔を上げ、「時間!」と叫んだ。
「! ……行けるか?!」
「行けるよ!」
アッシュがルークの手を取ったまま立ち上がると、ルークも釣られたように立ち上がり、すっかり良くなった顔色に笑みを乗せる。
アッシュの手の中の、ルークの手は相変わらず冷たいままであったが、震えはすっかり収まっていた。
パーティー会場にはすでに参加者のほとんどが到着していたが、アッシュがルークを伴って会場入りすると、一瞬、ざわりとその場がざわめいた。
「アッシュ、いらしたのね」
青を基調とした華やかなドレスを纏ったナタリアが近づいてきた。アッシュの腕を掴んだルークの手に力が込められるのを感じ、大丈夫だ、というようにルークに小さく頷いてやる。
「入りが早いな。……遅れたか?」
パートナーをいつも務めていたアッシュがそういうと、ナタリアはいいんですのよ、と笑った。
「大丈夫、お父様はまだですわ。今日はガイにパートナーをお願いしてますので、わたくし、ガイと一緒に会場入りしましたの。──こちらがルシファ姫ですのね。一度ファブレ家にお邪魔したときに姿だけはお見かけしたのですけど、お歌のレッスン中でいらしたので、声をおかけ出来ませんでしたの。素晴らしいお声でいらしたので、すこし聞き惚れてしまいましたわ。こうして近くでお会いすると、噂通りとても美しい方」
「……ナタリア、殿下……」
ナタリアに会ったら、どう挨拶するか。
きちんと打ち合わせてあったはずなのに、ルークは恐怖のあまり言葉を詰まらせた。
ナタリアは微笑んで優しく手を取ると、
「緊張なさっているのね。初めてのパーティではわたくしもそうでしたわ。すぐに慣れますから、どうか楽しんでいらして」
そういって二人にもう一度笑いかけると、他のものにも挨拶するために、すぐに踵を返してしまった。
「……大丈夫か」
「あ……ご、ごめんなさい、上手く挨拶出来なかった……。バレてないといいんだけど」
「あの様子なら、大丈夫だろう。……それより、顔をあげろ。皆がお前を見ている」
アッシュはさりげなく周囲に目を流し、クリムゾンの断言通り己のパートナーが一番美しく、衆目を集めているということを素早く見て取った。喜びと、誇らしさが胸を満たしたが、同時に、結局の所ルークは自分のものではないという事実、この場にいる誰かが、将来自分からルークを奪い取っていくのかも知れないという事実が重苦しく迫る。
「アッシュ……」
「大丈夫だ。お前の許可無く、俺は離れたりしねえから」
「う、うん、頑張る」
「頑張らなくていい、適当に楽しめ。ナタリアも言ってたろ」
「ガイ、どうでした?」
「君の言う通りだ……。あれはルークだ、と思う。他の男たちには普通に手を取らせていたのに、俺の時だけ躊躇したしな。……俺の、恐怖症のことを考えたんだと思う。……けど、ごめん。断言出来るほどの自信は……ない」
「やっぱり……。ファブレ家で、ルークが歌を歌っているのを聞いた時、わたくしはすぐに分かったんですわ、あれはルークだって。昔良く聞いたんですもの。ガイ、あなたもあれを聞いたら、きっとお分かりになったはず。……でも、今日初めて正面から会ってみて、一瞬自信がぐらつきました。二年前のルークどころか、そのとき見かけた感じとも、今日の雰囲気は全然違うんですもの……」
悲しげに顔を伏せるナタリアを見つめ、ガイもしょんぼりと眉を下げた。
「君に言われなければ、俺は彼女がルークだと、思いもしなかったかも知れない。言われて、その気になって観察したからこそ気付けたって感じなんだ……ずーっと一緒にいたのになあ……。正直、頭ではルークだと思っているのに、手を取る時には……震えた。……恐怖症のせいじゃなく」
「──ガイが気付き難いと思うのは、多分、ガイが男性だからなのですわ。もしもここにジェイドがいらしたとしても、おそらく確証のないことは言えない、とおっしゃったんじゃないかしら」
首をかしげて、ナタリアが言った。
「えっ、どういう意味だい?」
「わたくし、ルークが、いえ、ファブレ家がルークの帰還を公表しないのは、単純にルークが女性に変わってしまったからだと思っていましたの。──恥ずかしがっているとか、皆に知られたくないと思っているとか。自分自身に置き換えますと、そんな気持ちは分かりますでしょ?」
ナタリアはそこで言葉を切ると、ルーク、いやルシファに目を向けた。
先ほどまでパートナーを取っ替え引っ替え、疲れも知らぬ気にダンスをしていたのだが、今はさすがに疲れたのか壁際のソファに腰掛けており、その周囲を七、八人の貴族の若者たちが、己のパートナーを放ったらかして取り囲み、何か一生懸命に話しかけている。ルシファはそれに笑ったり問い返したり、時には目を見張って身を乗り出したりして、熱心に聞いている様子だ。
若者たちは、皆家格の高い名門の子息たちで、その他にも彼女を気にしている者たちが大勢、ちらちらと様子を窺っているのが分かった。取り巻きの若者たちとの身分差に遠慮して、近寄れないでいるのだ。
アッシュはといえばお偉方に捕まってあれこれと話しかけられていて、振り切れていない。ルシファの様子が気になっていらついている表情が、離れていても良く見えたが、ルシファの方はアッシュがいなくとも、特に退屈している気配がなかった。
「わたくし、ずっとルーク、ルシファを見ていましたの。彼女、会場入りしたときは、かなり緊張して怯えている様子だったのに、今は自信を持って人々に接している。パーティを楽しんでいますの。何故だか、ガイにわかりまして?」
「慣れてきたんじゃないか?」
「もちろん、それもありますわ。でも、わたくしにはわかりましたの。会場中の人々と挨拶を交わしながら、ルシファが相手──女性の方ですのよ──と自分を比較しているのが」
「……えっ……? 俺には意味が……」
「男性は、自分の連れと相対する相手の連れを比べますわね。そして、自分の方のパートナーが勝った、負けた、そう、考えますわね。実際、アッシュがそう思ったのもわたくしにはわかりましたわ、そしてありがとう、ガイ、あなたが同じように、他の殿方が連れてらした女性たちを見て、「勝った」と思って下さったのもね」
「う、そ、……そうかもしれないが……でも」
「女性はパートナーを比べたりはしませんの。パートナーは女性に取ってアクセサリーの一部に過ぎません。女は自分自身と、同性の相手を比較するのですわ。わたくしは、ルシファが挨拶を交わしながら私の方が上だと自信と落ち着きを取り戻すのを見ていました。もちろんわたくしともですわよ。正体がバレるかも、という緊張があったからか少しおどおどしてましたけど、ルシファがわたくしを一瞬で値踏みして「勝った」と思ったのが分かったし、わたくしは相手にそう判断されたことが分かったし、実際に「ああ負けた!」と思いましたわ。……ルシファが「ルーク」、元は男性であったことなど、その時のわたくしの頭にはありませんでした」
「……」
「これが姿形だけのことなら、可愛らしい男性が女装をさせられているのと一緒。ルークも頑張っていらっしゃるわね、ぐらいにわたくしも微笑ましく思ったのだと思うんですのよ。でもわたくしたちは、お互いに相手を、より良い相手を──殿方を、巡って争うことになる相手かどうか、値踏みしあったんですわ。……女は怖いと思いまして?」
いたずらそうに目を煌めかせるナタリアに、ガイは苦笑して頭を掻いた。
「いや。それが女性の戦いなんだろう? 怖い怖いと怯えるほど、もう俺も子供じゃないと思いたいが……。でも、じゃあ」
「ええ、ルークは心も女性に変わってしまっているんですわ。……或は変わっている最中か。あそこにいるのは女性という生き物、そのものですの。だからあなたには分からなかったのかも知れません。そしてその推測が間違っていなければ、ルークがわたくしたちに会いたくない、知られたくないと願い、ファブレ家がそれを隠す理由もきっとそれ……。わたくしたちが一度、彼を、あるがままの彼を否定してしまったからなんですわ」
「……っ」
唇を噛んで、ガイは俯いた。屋敷にいた頃のルーク、弱く繊細で、優しい心を持っていた小さなルーク。そういう自分を恥じて傲慢さで心を隠し、我が儘に振る舞うことで本心を悟られないようにしていた本当のルークに誰一人気付かず、否定した。その後必死に変わろうとした──皆が気に入るようにだ──彼を皆が褒めたが、そのことで彼に、「皆が気に入る自分」「気に入らない自分」というものを意識させてしまった。外見のみならず、中身まで変わって行く自分を、皆は気に入るのか気に入らないのか。もしまた、否定の言葉を投げつけられたら。
ルークがそう考えてしまっても仕方が無いことを、自分達はしてきたのだった。
「アッシュは、アッシュだけ、なぜ側にいることを許されたんだろう……いや、同位体だものな。俺たちには分からない何らかの絆があるのか……。なんだか悔しいが、こんな事態にアッシュやファブレ家があいつを守っていることだけは救いなんだろうな」
「これから素知らぬ顔で友人になることは出来ますわ。だってあれは確かにルークですもの。彼、いいえ彼女は「約束」を守ってくれたし、わたくしたちは確かに「ルーク」を取り戻したのですもの。そしてわたくしたちは、アクゼリュスを崩落させてしまったルーク、その後のルーク、そして女性になって戻って来たルーク、全部が同じ、大切なルークだと、もう分かっていて、二度と間違えることはないのですわ」
「そうだな……」
ガイは束の間目を閉じて、屋敷にいた頃のルーク、大切なものを守るために一生懸命走り続けたルーク、先ほど会ったばかりの、背筋が震えるほどの美貌の女性を思い浮かべた。不思議とそれは、違和感無く彼の中で綺麗に重なり、ガイはやっと、ルークが帰って来たのだと実感を得て、涙ぐんだ。
ナタリアはそんな彼に気付いて少し微笑み、礼儀正しく視線を逸らして、気付かないフリをしている。
「……それよりナタリア、君が二年前から言っていたことについても、君の言う通りだったみたいだ」
ややあって落ち着いたのか、ガイが苦笑して、アッシュの方へ視線を移した。
「あら。……わたくしの言った通りだったでしょう?」
「ああ。噛み付きそうな顔で周囲の男どもを威嚇していたな。今離されて、キレそうになってるのが分かる」
「まあ、ふふ」
「二年前、君が「アッシュがルークを意識しているようだ」と突然言い出した時には気でも違ったのかと思ったが。ルークは男だったし……。確かにアッシュがよくルークを構うようになったなとは思った。ルークも会ったり声をかけられたりしたら子犬みたいに喜んでいたから、完全同位体同士、なにか通じるものがあるのかなくらいにしか思ってなかったんだよな」
「でも、ルークが女性に変わってしまうと、良く分かりますわね、アッシュの気持ちが」
「ルークがそういう意味でアッシュに関心を持ってないみたいだってこともね」
「それはどうかしら。こういう場で男性の視線を集めることを楽しむのと、好きな人への気持ちは全く矛盾しませんわよ。……わたくし、もしかして叔父さまや叔母さまは、アッシュとルークを一緒にさせるおつもりで「亡くなった遠縁の娘のレプリカ」ということにされたのかと思ったのですけど」
「まさか……」
「わかりませんわよ? アッシュのためにも、そうであったらいいのに、と思いますわ」
「ナタリア、君は……平気なのかい?」
「……わたくしは二年も前に、アッシュの気持ちがわたくしから離れたと気付いたので、ある程度気持ちに整理がついてますわ」
ナタリアは寂しそうに笑った。「そう……確かにアッシュは、再会してからしばらくはわたくしを想って下さっていた。だからこの二年、或はアッシュの気持ちがもう一度変わってくれないか、とも思いましたけど……。ああやってルークが女性になって帰って来て、アッシュの気持ちがわたくしに向く事などない、と分かりましたの」
「……でも、性別はともかく……血は? 血の繋がりは濃すぎて問題じゃないか? 被験者とレプリカなんだから」
「まあ、ガイ」ナタリアは驚いて目を見開いた。「王家と貴族は、血族結婚の繰り返しの末に存在するんですのよ? 今更その程度のこと、なんですの?」