久しぶりに全員が揃った夕食の席で、いつもより眉間の皺の多いアッシュと、どことなく機嫌が良さそうに見えるクリムゾンとをちらちらとルークが気にしていると、クリムゾンが苦笑して気にするなというように首を振った。
「いや、実は、お前の事が宮廷で噂になっているのだ。しばらく前から密かに流布していたらしいのだが、おしゃべりなバイルー男爵夫人のところで靴職人が熱弁を振るって以来、どうも勢いを増したらしい。一体どういう姫なのかと根掘り葉掘り聞いてくる連中が多くてな」
えっ、なんで? という疑問を顔中に浮かべて思わずアッシュを見やると、彼はちょっと腰が引けてしまうほどの渋面でルークを睨みつけた。
「お前が貴族御用達の職人たちが居並ぶ中で、目立つ真似をするからだ」
「靴職人……ダンスのこと? だって動きやすい靴を選ぶ必要があったんだよ?」
だけじゃねえだろ、とアッシュは舌打ちをしそうになるのをなんとか堪えた。あの靴職人、まるで王冠でも捧げ持つようにルークの足に触れていた男。恍惚とした目つき、今にも賛美の歌を歌い出しそうな表情。それを思い出すだけで、アッシュは、身の内に隠された恐ろしい力が、制御を失って暴れ出しそうになるのを感じる。
シュザンヌも大きく頷いた。
「そうですよ。とても素晴らしいダンスでしたもの、まるで一対の天使が宙を舞っているようでした。……口止めをしたわけではないのですし、外部のものが思わず口にしてしまっても咎められませんわ。それにその職人はルシファを悪く言っているわけではないのでしょう?」
「どころか、褒めちぎっているらしい……なかなか見所はある奴だが、ふむ……。私とのダンスがちっとも噂になっていないことには疑問を感じるな。あれはあれで、良いダンスだった。そうは思わぬかルシファ」
憮然とした顔で同意を求められても答えようがなく、ルークが笑ってごまかしていると、
「亡くなった遠縁の娘の『レプリカ』と発表しているのにも関わらず、パーティーや茶会への招待状を何通か押し付けられたぞ。まあ、体のいいお見合いということだな」
「まあ……」
本来なら喜ばしいことなのだろうが、『ルシファ』が本来男の子であったことを考えれば素直に喜ぶこともできないシュザンヌが少し顔を曇らせた。それはクリムゾンも同じのようで、喜びや気遣い、困惑、様々な感情が混じった、実に複雑な顔をしている。
「レプリカといえど、ルシファは美しく、性格は良いし、頭も悪くない。何より容姿は端麗で、歌はまるで天使の声だし、気だてはよく、使用人たちにも慕われている。何より愛らしいしな。どこに出しても恥ずかしくない、最高の淑女になりつつあるわけだが……」
「私は、出来るだけ長くこの家から出さない方がいいと思いますが。……今のままではまだまだ。どこかで襤褸を出しかねません」
愛娘を褒めちぎるあまり何度も同じことをぶつぶつと繰り返しているクリムゾンに、壮絶に苦々しい顔をしてアッシュが吐き捨てるのを、ルークは悲しみと微かな反発心が半々になったような気持ちで俯いた。随分頑張っているつもりなのだが、アッシュから見ればまだまだ足りないらしい。それも仕方がないだろう。アッシュは何でも教わればすぐに出来てしまう能力と勘の良さを生まれつき備えているが、ルークはその劣化レプリカ。アッシュの何倍も努力をしなければ、同じ結果を出すことは出来ないのだ。
「……ごめんアッシュ。おれ、私、絶対に皆に迷惑かけないようにするから。もっと頑張るから……」
「……っ! そ……」
ルークの落ち込んだ顔を見て、アッシュは自分がみっともなく彼女に当たってしまったことに気付き、なんとかその俯いた顔を上げさせるような言葉はないかと必死に探したが、彼がそれを探し当てる前に、シュザンヌが咎めるような視線をちらりとアッシュに向けて、ルークに優しい声をかけた。
「あなたは少し頑張り過ぎなのですよ、ルシファ。わたくしたちのことなど考えなくてもいいのです、楽しみながら出来る程度のことを、徐々にでいいのよ」
クリムゾンも大きく頷いた。
「確かに、やっと親子四人で静かに暮らせる日が来たのだ。しばらくはこのままでいいだろう。あまり急いで婿を取る必要があるとも思えん。……年を考えると、いつまでも家におれとも言えないのだが……」
「「婿?!」」
アッシュとルークが同時に声をあげた。
「……? で、あろう? ナタリア殿下の婚約者である「ルーク」が不在のまま、殿下の結婚問題が宙に浮いた状態になっているが、いずれアッシュ、お前に打診が来るのではないか? もったいなくも、殿下はお前を慕ってくださっているようだしな。そうすると我がファブレ家はルシファとその婿殿が継いでいくことになろう」
婿……。
アッシュは行儀悪く皿の上のものをつつき回しながら、結局会う事のなかったルークの夫のことを考えた。確かに、彼らはベルケンドのファブレ邸に住んでいたのだから、考えてみればルークが嫁入りしたはずがなかったのだ。
レプリカに居場所を奪われたと思って生きて来た。だがすぐに消えてしまったそんな思いに比べれば、この屋敷がそのうち自分の「家」とも呼べなくなるのだという事実が、改めて怒りを伴い、胸に渦巻いた。自分は王家に婿入りすることになるのだろうし、そこが自分の居場所になるのだろう。ここは彼が、二度と帰る事のできない場所になるのだ。
替わりに、どこの誰とも知れぬ男が、いずれこの屋敷の主となる。
……ルークをその腕に抱き、傍らに添わせることの出来る男が……。
胸の中に、どうしようもない黒い靄が立ちこめて行くのを感じ、アッシュは完全に食欲を無くしてカトラリーを置いた。
今日宮廷では、誰もがまだ見ぬ「ファブレの姫」のことをあれこれと噂していた。時には美しいという娘への憧れを、時にはレプリカであるという侮蔑を含ませ。アッシュは常日頃から気安い人物とは思われていなかったため、何事にも如才ないタイプのクリムゾンほどには質問攻めにされなかったが、それでも「ファブレの姫」のダンスの相手、噂の渦中にあるアッシュが何も問われないはずはなかったし、そうでなくとも何か探るような視線が執拗に絡んで来ていた。
誰もが、おそらくアッシュがナタリア王女と婚約するものと思っている。二人の年齢を考えれば、それは遠い先の話ではないだろう。いずれ跡取りが不在になるであろう今この時、ファブレ家が行儀見習いと称する娘を引き取ったのは何故なのか。ファブレ公爵夫妻がその娘を溺愛しているというのは本当なのか。
ルシファという娘を手中に収めたとき、もしかしたら他に付随してくるものがあるかも知れない。それの多さと大きさを、誰もが意識しないではいられないのだ。
ルークの夫は違う。
最初からそれを意識しない人物であったのかどうかは分からない。が、間違いなくその男は純粋な愛情を一身に注ぎ、自己否定の強い彼女に自信を持たせ、深い信頼を得ている。ルークにもルシファにもない、あの生き生きとした輝く瞳は、まぎれも無く自信からくるものだ。愛されていると、必要とされているという自信。
──それはかつてのルークも、今のルシファも、共に持たないものだ。
だから、それを与えるのは彼女のまだ見ぬ夫でしかない。
(俺では……ない)