晴れた日には、笑って。02

 誰にも気付かれないように、ルークのみならずアッシュまで全身を覆ってひっそりとバチカル入りし、静かに屋敷にすべり込んだ。
 先にアッシュが鳩を送っておいたにも関わらず、屋敷中が息を潜めてひっそりと静まり返っており、世界中に行方不明と知れ渡っている、救世の英雄である子息を二年ぶりに迎えるということを、世間にひた隠しにしてくれている様子が伺えた。
 だが、いつも寝室からでてくることすらなかったシュザンヌと、クリムゾンが連れ立ってそわそわと玄関ホールまで迎えに出ていたことと、用もないのに度々玄関ホールを覗いている使用人たちとが、ルークが帰って来たことの喜びと歓迎を、何よりも表していた。

「ルーク……!!」
 シュザンヌが両手を広げて駆け寄ってくる。体の弱い母の暴挙に、焦ってルークが一歩を踏み出せば、記憶にあるよりも小さくなったように思う母の体が飛び込んできた。
 ──自分だって背は小さく、横幅も細くなってしまっているのに、それでも小さく感じる母の体に、不在の間どれほどの心労をかけたのか、思い知らされる。
「ルーク……ルーク……ルーク……」
 ルークの名を呼ぶ以外、言葉もない母に、目から涙が溢れ出した。
「は……はは、うえ。長の不在を、お許し下さい……今、今帰還致しました……」
「ああ、ルーク……」
「よく、帰って来たな……」
 シュザンヌの肩を抱くようにして声をかけてくるのはクリムゾン。
 彼の頬にも、一筋の涙が伝わっていた。

「娘も欲しかった」と言ったのはシュザンヌ。
「娘が欲しかった」と言うのはクリムゾン。

 両名ともに良く似たことを言ってはいるのだが、些細なニュアンスの違いが二人の態度を大きく変えていた。それを熱望していたのはむしろクリムゾンの方であったらしく、彼は突然与えられた美しく、可憐な娘に夢中になった。その過保護ぶり、熱愛ぶりはあまり物事に動じることのないシュザンヌをも驚かせ、苦笑させるほどで、屋敷中の使用人たちが「静かで厳格な公爵閣下」のあまりの変貌ぶりにすこし引いてしまっているくらいだ。
 アッシュはそれほどあからさまな愛情を父に注がれた記憶がない。だから心のどこにももやもやした複雑なものがないと言えば嘘になるが、世間のいう、「娘の父親」とはかくあるものかと生暖かい視線を向けている。アッシュは小さなころからクリムゾンに似ていると言われ続けていたが、性格はむしろシュザンヌの血を濃く受け継いだのかも知れなかった。

 ルークの希望で、ファブレ家における彼女の立場は「行儀見習いの、死亡した遠縁の娘のレプリカ」ということになった。娘を自慢したくて仕方の無いクリムゾンは、最初それに盛大に反対の意を示した。
 聡いシュザンヌには、ルークが妾腹の娘という立場を忌避する理由が自分のためと分かっていたし、現実にはそうではないのだから、最初はなんとかルークを翻意させようと言葉を尽くしてもみたのだが、ルークはレプリカであることを隠して生きて行きたくはないと願い、その話題が出るたびに複雑そうな、苦い顔になる息子の顔にふと気付くと、なぜだかルークの希望通りにしておいた方が良いような気がして、「本当にそれで良いのですね」と何度もルークに確認を取ったうえで、ルークの意思を尊重することにした。無論、屋敷のものは全員承知の上だが、今更この屋敷に、それを外部に漏らすような者もいない。

『ルーク』がもう使用出来ない名になってしまったことから、ルークには『ルシファ』という新しい名前が与えられた。クリムゾンが長い時間をかけて決めたらしいその名には、『黎明に光をもたらす者』の意味があるといい、得意げなクリムゾンに、誰もがルークにはぴったりだと褒めたのだった。

 名前の他にも、大きな変化はあった。
 ルークがいつ帰ってもいいように、離れの部屋は改造されてアッシュと使える左右対称の部屋が作られていたのだが、年頃の男女が離れで二人きりというのも世間体が悪いということになり、ルークの部屋は母屋、両親の部屋に比較的近い所に用意され、家具からファブリック、壁紙までがこれまでルークが使っていたものとは違う、女性らしい優しい色合いのものに変えられる。
 シュザンヌが張り切って指示したらしいのだが、気配りの行き届いた彼女は、元は少年のルークでも居心地よく生活出来るようなものを選んでくれていて、年頃の女性の部屋らしさを強くアピールするのは巨大なドレッサーくらいだ。そこに置かれた山ほどの化粧品を目にした時には、ルークは最初、途方に暮れて涙目になった。

「男の時に使ってたのより、数とかすごいんだけど……。順番、憶えられるのかなあ」
「それぞれの役割を憶えてしまわれたら、大丈夫ですわ。お化粧はわたくしどもで致しますし、ルシファさまはご就寝前のお肌のお手入れのみ、ご自分でやっていただくことになります。──大丈夫、しばらくは見ておりますから」
「そ、そう? ありがと……」
 一体何に使うのかも分からない大小様々な筆の数々を、恐る恐る指先でつついていると、
「化粧筆の使い方も早めにレッスンしなければなりませんね……。ご結婚されたら、就寝前でもお化粧をしなければなりませんし……」
「寝る前に化粧?! なんで?!」
 正気の沙汰とも思えず、目を剥いてメイドたちを振り返ると、彼女たちは少し頬を染めて、「それは……ねえ」と言葉を濁して顔を見合わせた。

 思わせぶりな態度をしつつも口を割らないメイドたちに最初こそ腹も立てたのだが、一月ほども経ち、彼女たちが「ルークさま」が女性になったということにそろそろ慣れ始めると、あまり男性であったころを知らない若いメイドが口火を切って、ルークは身の毛のよだつ恐ろしい話の数々を知ることになったのだった。

 男性であったころからその手の話には免疫のない、知識も少ない奥手なルークに、完全にルークを「仲間」と見なした彼女らの生々しいあけすけな話は、完全に理解の許容量を超えていた。その日は衝撃に発熱までしてしまい、シュザンヌが心配して付き添ったのだが、うなだれたメイドたちに事情を聞いて、シュザンヌは苦笑した。
 あまり耳年増になりすぎるのも初々しさが損なわれるが、ある程度の知識は女の子であれば、少しずつ勝手に知って行くものだ。案の定心配するほどのこともなく、しばらく立つとその手の話も興味を持ってメイドたちと話す事が出来るようになったようだった。

 高くも低くもない、澄んで透明な歌声が、母屋の音楽室から離れの部屋まで流れてきて、アッシュは読んでいた本から目を離して微かな笑みを浮かべた。誰も見るものがいなければ、彼とてこのくらいの柔らかい表情ができるのである。
 知らなかったのは当然アッシュくらいなもので、屋敷のものは皆知っていたことだが、ルークは歌を歌うのが意外なほど上手かった。変声期を迎えた頃から彼には剣術という夢中になれるものが出来、窓辺に訪れる小鳥たちを相手に一人、歌を歌っている姿も見られなくなったということだったが、今こうして彼──彼女の歌声を聴いていると、皆が「ルーク様の変声期前のことを思い出す」という。
 一度シュザンヌのお見舞いにやって来たナタリアも、たまたまルシファの歌の練習時間に行き会ってしまい、同じようなことを言ったらしい。話にだけは「亡くなったファブレの遠縁の娘のレプリカ」が行儀見習いに滞在しているのを聞いていたようで、ガラス張りの音楽室から遠目にその姿を見て、本人と話したいとも言ったらしいが、シュザンヌを筆頭に皆で何のかんのと言いくるめて対面を避けた時には、誰もが肝を冷やした。
 ナタリアは残念そうに、それでもしばらく目を閉じて流れてくる歌に聞き惚れていたが、やがて、目尻に浮かんだ涙を拭い、「……胸に迫る歌声だと、ルシファ様にお伝え下さいな」とだけ言って、帰っていったという。帰宅した後でアッシュとクリムゾンはそれを聞いたが、ルークを動揺させないために、このニアミスは本人には厳重に隠されたのだった。

 ルークは、屋敷に帰って来てから最初の数日こそのんびりと過ごしていたのだが、今はシュザンヌと相談の上、「女性としての」作法、ダンスの憶え直しから、歌を歌ったり、楽器を憶えたり、裁縫、レース編みなど──もちろん化粧もだ──貴婦人としての嗜みをほぼ一日中詰め込んでいる有様だった。
 これらを完璧にやり通せばやり通すほど、人はルシファの上にルークの面影を見ないはずだとルークは考えたし、その意見には全員賛同もしたのだが、いささか詰め込み過ぎのスケジュールには誰もが首を傾げざるを得なかった。
 少し無理をしすぎてはいないかと、屋敷の者全員がはらはらと見守っているのだが、ルークらしい伸びやかで楽しそうな歌声を聴いていると、当初アッシュが気を揉んだほど心配はいらなそうだった。
 アッシュは少しの間ルークの歌声に耳を澄まし、やがて穏やかな気分で再び本に視線を戻した。
 ルークの声に寄り添うように、小さな声でハミングしていたことは、ルークの歌が終わってしまってもアッシュが気付くことはなかった。

 ルークからルシファへ。
 誰の目にも少しずつ少しずつ、自然に女性化していっているように見えていた。

 ──この頃までは。


(2011.03.20)