どこにでもあるような、足下までをすっぽりと隠してくれる黒いマントを着込み、フードを目深に被って、ルークはタタル渓谷に佇んでいた。
ここは、七年間屋敷に閉じ込められていた自分が、生まれて初めて見た外の世界。時刻もちょうど同じくらいか、あの時と同じように、岩山の隙間から見える海が月光に照らされ、白く輝くセレニアの花びらが、キラキラと舞っていた。
ルークは今、二年ぶりにオールドラントに戻って来たのだ。
本当はもっと早くに戻ってもこれたのだが、ローレライの作り出した音譜帯の疑似世界で、戻るか残るか、ルークはずっと悩んでいた。戻るなら、ローレライ解放の直後にさっさと地上に戻されたアッシュとの間に、再び大爆発が起こるのは避けられない。それを回避するためには、ルークが女性体に身体を作り替えなければならなかった。
いや、それだけならば、案外ルークはこれほど悩まなかったかも知れない。身体の性別を変えるということがどれほど大変なことなのか、ルークは分かってなかったし──いや、今だって本当に分かっているとはきっと言えないのだろうが、それなりに覚悟は決めたつもりだ。
嫌だと思ったのは、時間が経つにつれ、心が身体に添ってくる、とローレライが言ったことだった。それは心まで女性化していくということで、ルークにとって、それは到底受け入れられることではなかった。だが今のまま──心が男性のまま身体のみが女性になってしまうと、いずれルークの心はその齟齬に耐えきれず、砕けてしまう可能性があるというのだ。
もちろん、皆の所には帰りたいと思う。
けれど、皆の前に女性として立つ勇気が、ルークにはなかった。ましてやティアの前に女性としての身体を晒すなど……。多分、ルークの気のせいでなければ、二人の想いは通じ合っていたように思うのだ。そんなティアに、心まで女性と化して行く自分──男らしさを失っていく自分など、見せられるわけがない。
(おれ、約束は守ったよ……。ティア、皆。もう二度と会えないけど……。ちゃんと帰って来たからな)
セレニアはルークの旅立ちの象徴。
誰にも知られず生活出来る場所を探しに旅立つ前に、この光景を目に焼き付けておきたかった。しばらくは身動きもせず、息さえひそめてこの幻想的な光景を見つめた。
「ローレライ、ありがとう……。おれは、生きるよ」
聞こえることもないかも知れないが、ルークはぽつりと呟いた。
ようやく思い切りを付けて、さて、まずはケセドニアだと踵を返した時。
正面よりやや右側にある大岩に、腕組みしてもたれかかっている人影を見つけてどきりとした。
(……アッシュ)
月光に照らされた深い翠の瞳が、燐光を放って炯々と光っているように見えた。二年前と同じ、不機嫌そうな顔がルークを真っ直ぐに見据えている。
「どこに行く気だ」
ルークは答えることも近寄る事も出来ず、俯いて唇を噛んだ。今、一番会いたくない人物だった。いつからいた。なぜここにいるんだろう。なぜ、ここが分かったんだろう? 自分とアッシュはもう完全同位体ではないはず。完全同位体同士が起こす大爆発現象を避ける、そのために自分は犠牲を払わねばならなかったのに。
フードを被っていても、近寄れば変化がバレるだろう。以前より身長も縮んでいるし、何より話せば声で一発だ。
こんなところでの再会は想定外だったため、ルークは対処の方法など考えてもいない。どうやりすごせば、バレる前に彼の目の前から去る事が出来るんだろう。
黙ったまま俯いているルークを、アッシュは特に何か急かすでもなく見つめ続けたが、やがてどうあっても顔を見せる気もなければ声を聞かせる気もなさそうだと判断すると、深い溜め息をついてずかずかとルークに近寄って来た。仰天して同じだけ下がると、それに気付いたアッシュがぴたりと足を止める。
ルークがほっと気を抜いた次の瞬間、アッシュはルークに身構える隙も与えずに突進してきた。驚愕して一拍遅れてしまったせいで、ルークはあっさりと、強い力で二の腕を掴まれた。逃げようともがいた末、セレニアの花畑の中にもつれ合って倒れ込む。花びらが白く輝きながら、儚く舞った。
混乱してなおももがくルークの体の上に、アッシュは思い切り体重をかけてのしかかり、身動きを取れなくしてから、目深に被ったフードを押し上げた。
遮るものなく煌々と照らす月光の前に、ルークが隠し通したかったもの、誰にも知られずに生きて行こうと決心されたものが晒された。
毛先に行くに従い、金に色を変えていく明るい朱色の髪。透き通った最高級のろうかん翡翠、明るい翠の大きな目を縁取る睫毛は長く、濃い。真っ直ぐに通った華奢な鼻筋と顎。艶やかに紅い、唇。黒子の一つもない、白く透明な肌。
国を滅ぼすほどの凄みがあるわけではないが──あるいはまだ若すぎるのと、自信の欠片もなく不安そうにゆらゆら揺れる瞳のせいであるかもしれないが──それに近い、美しさの、
「女」の、顔が。
ルークは諦めて、正面からアッシュを睨み返した。笑いたきゃ笑え。罵るなら好きなだけ罵るがいい。
そんなふて腐れた気分でいたのだが、アッシュは笑いもしなければ、罵りもしなかった。驚いた顔をしてはいたが、己のレプリカが突然女性に変わったと知った驚きとは何か違うような、なんだか懐かしむような表情すら浮かべて、大きな両手でルークの小さな顔を包み込んだ。
「久しぶりだ」
「……おう」
まるで予想外の反応にルークも毒気を抜かれて、素直に返事を返す。すると急にアッシュが夢から覚めたように瞬きをした。
「……レプリカ?」
「……お、おう?」
奇妙な反応にルークが疑問を抱く前に、目の前のアッシュの顔が急に大きくなった。
え、と思う間もなく唇が合わさり、するっと舌先が入り込んで来た。混乱に押し返す事さえ出来ないルークの口内を一巡り舌先で撫でて、下唇を食むように離れる。と、思うと再び戻って来て、今度はちゅ、と軽いキスが落とされた。
「甘い……な。おんなじ味だ」
「な、な、な、な、な……!」
唇を拭いながら片手でアッシュを押しやると、彼は押されるままに抵抗無く上体を起こし、そのまま立ち上がってルークに手を差し出した。カッとして、それをルークはぴしゃりとはねつける。
「どこか、打ったりしてねえな?」
気にした様子もなく問いかけるアッシュに、
「……そういうことは最初に聞くもんじゃねえの」
マントに付いた草を払いながら立ち上がり、「今の、何の真似だよ」と恨みがましく問うと、
「知らねえのか? これはキスというもんだ」
「そんなこと聞いてんじゃねーよ! もう、いい!」
「どこに行くつもりだった?」 横目でルークを見やり、アッシュは言った。「……てめえが帰る場所は、一つしかねえだろ。戻ってきたことや……身体のこと、誰にも知られたくねえって言うんなら、お前の仲間の誰にも連絡はしねえ。ナタリアにもだ。約束する。……屋敷に帰れ」
それを聞いて、ルークはしょんぼりと俯いた。
「……やっぱ、気付いた、よな……」
「てめえの仲間たちは、そんなこと気にする連中じゃねえとは思うが……」
そんなことは、ルークだって分かっている。皆、驚きはするだろうが、きっとルークの帰還を喜んでくれるだろう。泣いてくれるかもしれない。あるいは遅いと言って怒ってくれるかも。
だがやはり、ルークはどんな顔をしてティアの前に立てばいいのかわからなかった。もっともっと自分が大人になれば、いずれは深い大人の愛情に──性的な欲求も孕んだものへと昇華していったはずのティアへの幼い好意は、彼女に伝えるまでもなくいずれ泡のように消え去るのを待つだけのものになってしまった。
ガイはガイで、もうこれまでのようにルークを親友だと思ってはくれないだろう。いや、彼の事だから、きっと口ではいつまでもお前は親友だと言ってくれるかも知れない。
だがルークが、ガイが未だにトラウマを解消し切れていない、「女」という生き物になってしまった以上、これまでのように気の置けない関係でいられるとはとても思えなかった。
「……済まない」
「えっ?」
澱んだ思考の海に沈んでいたルークは、彼と同じくらい悄然とした顔をしたアッシュが突然謝って来たのに驚いて顔を上げた。
「アッシュ?」
「てめえにだけ、辛い選択を強いた」
こんなところにまで被験者とレプリカの優劣が明らかにされる。大爆発を避けるために体を変化させようというなら、何もそれはルークでなくても良かった。アッシュでも良かった。
だが、その選択は、レプリカのルークにのみ迫られたのだ。彼が第七音素のみで体を構成しているため、乖離を起こしやすい体をしているため。ばらばらに崩すことの出来るパズルのブロックは、新たなかたちに再生させるのもまた、容易だ。
「……その身体は、大爆発を避けるためなんだろう?」
「──っ、アッシュ」
ルークは込み上げて来た涙を、乱暴に拭って笑った。アッシュは分かってくれてるんだ。だから、おれを罵ったり笑ったりしなかったんだ。それどころか、簡単な選択ではなかったと、悩んだ果ての選択だと、アッシュは理解してくれている。それだけでほんの少し、心が軽くなるような気さえする。
「よせ、目が痛む」
ごしごしと目をこすっているルークの手首を、アッシュが掴んだ。途端に熱いものにでも触れたように、彼は手を離した。
「……すまん」
「あ、うん」
戸惑うルークの前で、アッシュはまるで掌がどうにかなっているのではと確かめるような仕草で自分の掌を見つめていたが、怪訝そうなルークの顔を見て、慌てたように言った。
「真っ直ぐに屋敷でいいか? 寄りたい所があるなら付き合うが」
「……帰らなきゃ、駄目かな……?」
「駄目だ。……嫌なのか? うちに帰るのが……」
そんな言い方が卑怯なのは、アッシュも承知の上だった。嫌なのかと言われれば、ルークに否やがあるはずがない。ルークは、家に帰りたくないわけではなく、帰るのが怖いだけなのだ。これ以上、父母を失望させたくないと思っているから。息子が娘になったなど、やっぱりレプリカはレプリカでしかないなどと思われたくないから。
「実は」アッシュは少しルークから視線を外して言った。「俺はてめえが女になって帰ってくるのを知ってた。父上や母上には、てめえを迎えに行くと言って家を出て来たし、性別が変わってるはずだってことも、その理由も話した」
「な……?! なんで、知って……? ローレライが? いや、父上と母上は、なん、て」
「てめえの気持ちを心配なさっていた。辛いだろうと……。後のことは何も心配せず帰ってこいと、我々は娘も欲しかったと伝えてくれとおっしゃっていた」
「そ……そ、か。父上、母上……」
「嫌なら、てめえがルークとバレないようにする、父上の妾腹の子を引き取ったことにしてもいいし、ファブレの遠縁の娘が行儀見習いに来ていることにしてもいい、とにかく帰って来い、会いたい、だそうだ」
アッシュの言葉に、ルークはふ、と笑んだ。「妾腹の子じゃ、母上に悪いや。遠縁の娘ってことにしてもらおうかな……。ごめん。やっぱおれ、誰にも知られたくない……」
頬にくっきりと陰を落とす長い下睫毛に、涙が絡んでいるのを見つけて、罪悪感と、相反するもう一つの感情がアッシュの胸に込み上げた。だが、彼はそれを綺麗に押し隠して、ただ、そっとルークの背に手を回し、移動するよう促したのだった。