屋敷中の至る所で、ルークの夫と、ルークの結婚が話題にされていた。こんな明るく、華やかなニュースは久しぶりだから、屋敷全体が何か浮ついた空気に包まれている。それをたまらなく不快に感じるアッシュは、準備が進められているこの一月というもの、ほとんど屋敷により付かなかった。城の執務室で仮眠を取り、屋敷には風呂と着替えに戻って来るだけ、それも毎日ではなく。
ルークの結婚式前夜、昨夜遅くに戻り、シャワーを浴びて着替えたあと、強い酒を浴びるように飲んだが、その酒は酔いや眠りといったささやかな恩恵すら彼に与えてはくれず、酷い頭痛だけをもたらしたまま朝になった。
何故これほど結婚を急ぐ必要があったのか。
グズグズと文句ばかりのクリムゾンも、それを積極的に止めようとはしないし、シュザンヌはむろん、病弱というのはなんの冗談だったのかと思うほど、娘のために全力で飛び回っている有様だ。
ルークを捕まえて、本気で結婚するつもりなのかと問いつめたかったけれど、そんな面倒な気配を察したかのように、のらくらと避けられているうち、アッシュは嫌でもルークの気持ちを悟らされ、結局何を問うでもなく、口を噤まざるを得なかった。
──ルークは嫌がってなどいないのだ。
むしろ楽しそうですらあった。一度など二人が合わせている歌声が、離れの部屋まで聞こえて来て、窓を閉じて耳を塞いだ事もあった。
ぴたりと寄り添う、伸びやかで晴れやかな歌声は、屋敷中のものに感動の涙を流させたけれど、押さえた耳の奥でいつまでも流れるそれは、アッシュの心を軋ませるばかりだった。
「アッシュ様、お着替えはお済みですか?」
「──すぐにする」
先ほどから何度も繰り返されている問答に、メイドが焦って来ているのがわかる。遠縁、しかもレプリカの結婚式といえど、ファブレ家の総領としてアッシュが出ないわけにはいかない。
酒精を落とすために取り敢えずシャワーだけは浴びたが、出なければならない時間になっても、着替えるために指を動かすことすらおっくうで、ソファにだらしなく寄りかかって天井を見上げている有様だ。
「──アッシュ様」
「うるせえな!!」
何度目かの問いかけに、とうとう切れてドアに向かって酒瓶を投げつけた。重たい物がドアに激突する音、ガラスの割れる音がアッシュの憤りの大きさを表すように響き、ドアの向こうで小さな悲鳴と、駆け出して行く足跡が聞こえた。まだ中身が残っていたと見えて、強い酒の芳香が部屋中に漂う。
大きく舌打ちをして、がりがりと髪を掻きむしる。このままここにいてぐずぐずしていたところで式が中止になるわけではない。むしろメイドにあたるばかりだと諦めて、片手で胸元の釦を外しながら、綺麗に畳まれて用意されたドレスシャツに手を伸ばしたところで、控えめなノックが聞こえた。と同時に、返事を待たずにドアが開けられる。
「入りますよ?」
「……入室の許可をやった憶えはねえ。出て行け、死霊使い」
入り口に散らばるガラス瓶を避けるようにジェイドが入って来て、目を細めてベッドサイドのテーブルに置かれた空の酒瓶や、そこから転がり落ちて床に転がる酒瓶の数々を一瞥した。
「荒れていますねえ。はやく着替えないと、式が始まってしまいますよ?」
「出て行けと言っているのが、聞こえねえのか」
「……あなたを見ていると、ネフリーが──私の妹ですが──結婚した時のピオニー陛下の姿を思い出します」
「……何が言いてえ」
「互いに愛し合っていたのに、預言で結婚すると詠まれた男のところに、ネフリーは嫁いで行きました。ピオニー陛下はともかく、ネフリーは今じゃそれなりに幸せにやっているようですが、預言を無視して陛下と一緒になっていたら、果たして今より不幸になっていたのか、幸せになっていたのか」
「下らねえな」
これ以上はないほど眉を寄せた不機嫌なアッシュに頓着せず、ジェイドは光の反射で、内心を窺わせない眼鏡を押し上げた。
「やれやれ。あなたは女性一人、自分の力で幸せにする自信がないんですか?」
「なんだと……」
「あなたがルシファ嬢を好きなことは、屋敷中のものが知っていますよ。あなたは隠しているつもりでしょうが、それほど強い想いは秘めておくことも難しい。なのにあなたは彼女を他人の手にゆだねておきながら、なおも諦めきれずにあがいている。あの時、預言に負けてしまったピオニー陛下のようにね」
「──てめえに何が分かるってんだ! 預言なんかじゃねえんだよ……っ!!」
激情にかられてサイドテーブルの酒瓶を凪ぎ払い、アッシュはどさりとベッドに腰を下ろし、顔を覆った。「何も知らねえくせに、勝手なことを……」
「ええ、もちろん、知りませんよ? 預言はもうない。もしも預言があったなら、あなたと一緒になればルシファ嬢が不幸になると詠まれていたとしても、私がそんな預言を、知るわけがない。あなたもね。それとも何か? 預言ではないのなら未来を知っているとでも?」
「な……に……」
愕然と顔を上げて、アッシュはジェイドを見上げた。
「馬鹿馬鹿しい話ですが、例えそうだとしても、それがなんだというのです? 未来が決まっていれば、その通りに行動しなければならないのですか? 私が彼女の夫と定められていたら、私を引きずって彼女のところへ連れて行きますか? ──おやおや? なんだかどこかで聞いたような話ですねえ? そういう考えを修正させ、自由な未来を選べるように、命を燃やし尽くして消えていった可哀相なレプリカの少年がいましたが……。確か、あなたのレプリカではありませんでしたか?」
いつもの胡散臭い笑みを浮かべた顔ではなく、全く表情のない顔、いや、むしろ微かな憤りすら感じさせる顔で、ジェイドは嫌味に満ち満ちた台詞を吐いた。
──だがあれは、預言なんかじゃない。もっと確かな……。
──もしも未来を知らなければ、愛おしいというこの衝動のままにルークを手に入れることが出来たのか……。
預言が、詠まれなければ。
──未来を、知らなければ……。
「くそっ!」儀礼式典用の剣帯に、使い慣れた無骨な剣を下げながらアッシュはジェイドにぎらりと鋭い視線を向けた。「礼は言わねえぞ」
「要りませんよ。貸しとして、ツケておきます」
「けっ。言いやがる」
ジェイドを私室に残したまま、アッシュは部屋を飛び出した。
「アッシュ様?!」
ラムダスの呼び止める声が聞こえたが、構ってはいられない。式はもう始まっているはずだ。
俺としたことが、眼鏡に言われるまで気が付きもしねえとは!
レプリカのあいつが、何もかもを投げ打って、自由な未来を選べる世界をもたらしたってのに、被験者の俺が、まるで預言を盲信する狂信者どものような真似をしていたとはな!
あいつの亭主が本当は誰だって、関係ねえ。俺と一緒になったって、あいつが不幸になるなんて、絶対にありえねえ。
俺じゃない男の隣でどんなにあいつが幸せそうに笑っていたって、俺はそれ以上にあいつを幸せにしてやる。笑わせてやる。この俺以上に、あいつを幸せにしてやることの出来る男なんかいる筈がねえんだ。
どっかの誰かがどれほどあいつを愛したとしても、俺以上ではないはずだ。この俺以上に、あいつを愛する男など、いるはずがねえんだ。
──絶対に、だ!