「どうして? 残しておいたら、家賃がかかるよ」
この家に住んでいる間に増えていった家財のあれこれを、思い切り良く、すべてご近所に配ってしまおうとしたルークを、必死で押しとどめたのはアッシュだった。
「ここの家賃ぐらい、俺が払って行く。とにかく、このままでいいんだ」
「……そう? アッシュがそう言うなら……」
一度気持ちが定まると、女は後など振り返らない。ぐずぐずと色々なものを抱え込んだまま、身動きが取れなくなるのは、いつだって男の方だ。
それが分かっていても、アッシュは初めて得た「我が家」を失いたくなかった。大家が手放す気になってくれるなら、買い取ったっていい。この家に誰も住む者がいなくなり、残されたままの家具や家財に厚く埃が降り積もり、ルークが選んだ布で作られたカーテンもいつか色褪せ、崩れ落ちていくのだとしても……。
仲良くなったご近所の友人たちや、互いにお世話になったギルド、仕立て屋に、しばらく留守にするとだけ告げて、二人はバチカル行きの船に乗った。
「楽しかったね。……ね、アッシュ」
遠ざかるケセドニアの岸辺をいつまでも見つめているルークに、アッシュはかける言葉を持たない。
留守がちだったアッシュと違い、ルークは近所にしっかり根を下ろしていて、大勢の友人を得ていたのだから、あの家を離れるのはアッシュ以上に辛いことだろう。
「こんな風に穏やかな気分でいられるのは、アッシュのお陰だ。みんなが言う通り、屋敷にいたままだと、私多分駄目だった。でも今度は、あんまり気張らず、私は私のまんまで楽しくやれるんじゃないかなって思うんだ。無理して自分じゃないものになろうって、私、馬鹿みたいに必死だったんだよね」
潮風に、チョコレート色に染められた長い髪がなびく。その毛先はほんの少し色が抜けて、金色になっていた。
「……どうしていきなり帰ろうなんて言い出した」
「どうしたんだ、今更」
ルークは目を見張って、アッシュを見つめた。ふっと苦笑をもらし、目の前に近づくと、そっと頬に手を触れた。俯いた顔を、降ろしたままの長い前髪が隠し、アッシュの目が見えない。表情がわからない。けれど、多分泣き出す寸前の子供のような顔をしているんだろうということが、なんとなく分かった。
同い年の男女なら、女の子の方が大人なんだとどこかで聞いたような気がする。自分はまだ、本当は十一歳やそこらの小さな少女なんだろうけれど、こんな泣きそうな顔をした「少年」を前にすると、うんと大人になったような、面映い気分になった。
「ね、こないだまで私が刺繍していたヴェール、憶えてる?」
「……ああ」
「あれね、糸は絹だよ。ちょっと普通じゃ手に入らないくらい上質のやつ。あんなに細く、丈夫な糸にするのは大変なんだ」
「……」
「それを、人の手で丁寧に織ったものなんだ。被ると多分膝まで覆うくらい大きい。私がやったのは、その淵に入れる刺繍。アッシュも見てたでしょ? 私、一針一針を大切に入れたよ。これを付けて婚礼を挙げる人が、幸せになりますようにって、祈った」
「……それが」
それが何だっていう。
「……ナタリアのだよ」
「?!」
「依頼主は、ティアとアニス。……だいじょぶ、バレてない……と思う。いや、そうだね、わざわざばらす気はないけど、別にもう、私はバレたって、多分平気だ」
「ルシ……ルーク」
「うん」
ルークは一瞬目を見張り、笑った。二人だけで過ごしたこの数ヶ月、結局アッシュは一度もルークともルシファとも呼ばなかった。バチカルを飛び出した夜に、ルークが呼ぶなといったのを、律儀に守ったのだろう。今、ルークと呼ばれたからルークは返事したけど、別にルシファと呼ばれたって気にしやしなかった。
「……お前、もうナタリアのところに帰らなきゃ。多分、ナタリアの方は結婚の準備に取りかかってるんだと思う、よ。婚約者変更の打診をしようにも、お前がこんなとこで行方をくらましてたんじゃ……」
ルークはアッシュの肩をとんとんと叩いてから、小さく伸びをした。
「私、もう船室に戻るね。少し休みたい。……夕食は一緒にしよう?」
「……」
立ち尽くしたままでいるアッシュを甲板に残し、ルークは足早に自分の船室に戻った。もう二度と、二人が同じ部屋で眠る事などない。
自分の船室に駆け込むと、ルークは小さな寝台に身を投げ、気の済むまで、泣いた。
アッシュは卑怯だ。なぜこんなところで、今頃になって、そんなことを言い出したんだろう。それほどにあの生活が惜しいと思うなら、ルークが惜しいと思うなら、あの夜にそう言って、彼女を手の中に納めるべきだったのに。
(大丈夫、大丈夫。……辛いのは、今だけだもん……)
(ナタリアと結婚……?)
嫌なわけではない。ナタリアを、そういう意味ではもう愛していないと思う。──いや、これまでただの一度も、ナタリアに対してルークに感じるような強烈な肉の欲を覚えたことがないことを考えれば、ナタリアへの愛は初めから姉弟同士が抱くものと変わりがなかったのかもしれない。だが王族の結婚とはしばしばそういうものだし、アッシュもナタリアもそれは承知の上だ。ましてや互いに好意は持っている。約束の事もあるし、王家の血を引かず、茨の道を歩む事になるだろう彼女を、支えてやりたいとも思う。
だがそういったことは、漠然と頭のどこかに引っかかってはいただけだ。正直アッシュにとって、未だにはっきりしないその話は、ルークの結婚、ルークの夫のことを考えるほどには、彼を悩ませはしなかったように思う。
(俺は結婚するが、お前はしないでくれなんて、言えるわけねえ……)
例え言えたって、無駄な事は分かっているのだ。ルークは誰か優しい、彼女を幸せにしてくれる男と結婚する。夫と、子供に囲まれて、幸せに、自信に満ちた輝きに包まれて。
(俺には結局、ルークにあんな顔させるのは無理だった……)
一体どこの誰が、自分の半身にあんな幸せを与えるんだろう。誰が彼女を自分の物にするのだろう。
(誰が、お前を抱くんだろう……)
アッシュは絶望の呻きを上げて、ぐしゃりと頭を掻き回した。
「ルー、ルシファ!」
「父上、母上! ただいま!」
玄関ホールまで迎えに出ていたクリムゾンとシュザンヌに、ルークは歓声をあげて飛びついた。
「まあ、ルシファ。すっかり元気になって……!」
「おおルシファ、我が娘。これは一体何処の誰だ? お前は前から美しかったが、これはまた光り輝くようだ……! シュザンヌ、見なさいこの子を。我が家に天使がやってきたぞ!」
「ぷっ、父上ったら、また。ガイ並みにクサすぎるんじゃない、それ……」
クリムゾンに抱き上げられ、ぐるぐると振り回されながら、ルークは笑った。ホールに迎えに出ていた騎士達、メイド達、ラムダスも、涙を浮かべながら笑っている。
ルークが明るい表情をしているだけで、この屋敷はぽっと灯りがともったように暖かく、明るく感じる場所になるのだと、その場にいたものは皆改めてそう思った。
『聖なる焔の光』──使われなくなって久しいその名こそ、彼女の本質を余さず表すもの。
「父上、母上、皆、心配かけてごめんね」
「アッシュと来たら、報告書みたいに短い手紙しか寄越さないのですもの、どうしていたのか、お話ししてちょうだい」
「うん」
「それにしても、見違えるように美しくなったこと。……これなら、バルツァー子爵様の隣にあっても全く見劣りしませんわ。ね、あなた」
「ルシファの隣に置いて、見劣りしない男こそいるはずがない!」
「あなた……」
「バルツァー子爵? って誰?」
ルークが説明を求めてアッシュを見やったが、アッシュはその場に立ちすくんで、凍り付いたようにクリムゾンの顔を見つめていた。
身動きもしないアッシュから視線を周囲に転じると、メイドたちは紅くなった頬を押さえて俯いたり、夢見るようなうっとりした表情を浮かべていて、何やら異様な雰囲気が漂っている。
「父上?」
「……お前を妻に欲しいと言う、若造だ」
もの凄く嫌そうな顔で憮然と答える父親の顔をしばらくルークはじっと眺め、そしてぷっと吹き出した。
「ならなんでそんな顔してんの、父上。レプリカの私を、なんてありがたいお話じゃないの」
「なんでありがたいものか! 私はあんな「あなた!」」
アッシュに良く似た仏頂面で怒鳴りかけた夫をにこやかに、且つ厳しく、シュザンヌが止めた。「ルシファ、あなたが療養に出かけたあとも、たくさんの縁談がきているの。娘の結婚ですからね、わたくしと旦那様で厳しく選びました。あなたのお部屋に、絵姿をたくさんお預かりしているのだけど、中でもバルツァー子爵様という方は……。いえ、あなたも直接、絵姿をご覧なさいな。とっても素敵な方なのよ」
ルークは夢見る少女のようにうっとりと頬を染めているシュザンヌの顔を見て、驚きに目を見張った。女性の使用人たちの反応も見過ごせない。なりたてとはいえ、年頃の女性であるルークは、すっかり「バルツァー子爵」とやらに興味を抱いた。
「あっ、うん。見る見る」
母娘が連れ立ってルークの部屋に消えていき、使用人達の苦笑の中に、憮然とした父親と、全く表情のない息子が残された。
「父上。……バルツァー子爵とは……」
「……クーニッツ公爵の所の八男坊だ。新年のパーティでルシファを見初めたらしい。遠縁の娘とはいえレプリカだし、体調を崩していると一回は断ったが、諦めてくれなかった。……まあ、我が娘ながら、レプリカだということなど何の弱みにもならぬほど素晴らしい娘なのだが……これまであまり共に暮らせなかったのだから、あんまり早く手放したくはない……。だが、クーニッツ公爵家は我がファブレ家とも遠戚であるし、八男坊ならこちらに婿入りしてもらうのに特に障害もないしな……。だが、シュザンヌ初め、この屋敷の女たちときたら、口を開けば子爵様、子爵様と、全く忌々しい」
「そう、ですか……」
「もしこの話がまとまれば、お前より先になってしまうが、まあルシファは適齢期の娘であることだし、構わないな?」
「……ルークに否やがないのなら」
「お前も絵姿を見せてもらってくるといい。いずれ、どれかは兄弟になるやも知れんのだからな」
「ええ。──いえ、結構です。すみません、少し疲れたようなので、部屋に戻ります」
「おお、これは気の利かないことだった。──ゆっくり休みなさい」
「ええ。──失礼します」
どう収めてよいかもわからない激情が胸の内を荒れ狂う中、ただ、顔に出さぬ事だけに集中してアッシュは自室に飛び込んだ。
まさか、いくらなんでもこれほど早く話がまとまろうとしているとは! 自分はどこかでルークはレプリカだからと安心していなかったか? ルークの天性の魅力の前に、そんな事実何の欠点にもならないことを、自分が一番良く知っていたはずであったのに!
(ほんの少しでも傷ついた顔をして欲しかったと思うのは、俺の我が儘でしかねえ……!)