居間のソファに座って本を読んでいたアッシュは、ふと、床の上に直接座り、薄い布を敷いた上で爪にやすりをかけているルークの横顔を見つめた。
ルークと暮らし始めてから、アッシュは初めて女性が爪を切らないことを知った。ルークは屋敷で教わった通り、こまめにやすりで爪の形を整え、磨いている。屋敷にいる間はルーク付きのメイドが手入れをしていたのだろうが、ここに来てからは自分で、案外楽しそうにやっていた。
アッシュとどこかに出かけるときにだけ、その爪が綺麗な色に染められているのに気付いたのはいつ頃だったか。その手が自分の腕に絡まる瞬間が、アッシュはとても好きだった。
少し削っては、唇をかすかに尖らせてふっと息を吹きかけ、手を翳して形を確かめる。合間に鼻歌なども聞こえてきて、機嫌もよさそうだった。
削った爪の粉をふっと吹く仕草がドキッとするほど可愛くて、飽かずに眺めていると、ルークが横顔を見せたまま、笑んだのが分かった。
「……なんで見てんの?」
「……っ」
「ずっと見てたでしょ。分かるんだよ? 視線で」
「……」
「面白い? アッシュのもやってあげる」
「……いや」
「やらせてよ」
ルークは跳ねるように起き上がり、悪戯を思いついた子供のような顔をしてアッシュの足元に座り込んだ。読んでいた本を取り上げて横に押しやると、アッシュの右手を取ってしげしげと眺める。
「爪、短いね。でも先が少し欠けたり割れたりしてる」
案外真剣な顔でやすりを掛け始めたルークの手元をじっと見つめた。昔から爪を噛む癖があるせいで、ぎざぎざになっている部分に、ルークは丁寧にやすりを当て、時折形をチェックして、またやすり。そして、ふっ……と指先に息をかける。びくりと指先が跳ねるのを、ルークが大丈夫だよ、というようにとんとんと叩いた。
アッシュには何が違うのか分からない数種類のやすりを、ルークは器用に使い分けて無心に削り、ふっ……と息をかける。時間がひどくゆっくりと流れているように感じるその繰り返しに、アッシュは慣れることが出来ない。顔に熱が集まって行き、心臓はばくばくと音を立てる。もしかしたら、ルークには聞こえているのかも知れないと思うと居たたまれず、とうとうアッシュは紅潮した顔を隠すように伏せてしまった。
「……お前の手、大きいな」
作業を続けながら、ぽそりとルークがこぼした。「剣ダコだらけで、掌はかちかちだし、荒れてざらざらだ。指は長いけど、細くはないし、節も太いんだな。──私があのまま、男のままでいたら、きっと、こんな手になってたんだろうな……左右は逆だけど」
「俺は、お前の手、好……嫌いじゃない。真っ白で細いし、小さくて柔らかくて頼りないが、器用に動いて色んなものを創り出していくのが」
「うん」
すべてヤスリをかけ終えた右手をアッシュの膝の上に戻し、左手を取りながら、ルークは嬉しそうに頷いた。
「私もそう思う。私も今は、この手が気に入ってるんだ。美しいものも、美味しいものも、作りたいと思ったものを、この手なら生み出せる。──前はね、アッシュを見るたび辛かったよ。私が失ったもの、諦めたものを全部持ってるお前が憎かった。私は、お前を生かすためだけに生み出され、お前を生かすために死んでくれと言われ、二人で生き残るために私だけが性別を変えろと言われたんだ。ちょっとお前が憎いと思ったって、仕方ないでしょう?」
「俺は……。済まない……」
指先に力が籠り、ぎゅっと拳を握ろうと動いたのを、ルークの柔らかな、優しい手が、宥めるように撫でた。
「……剣の稽古はやっぱり楽しいけど、アッシュに全然敵わなくなってても、ちっとも悔しいなんて思わなかったんだ。心のどっかで、敵わなくて当たり前、って納得しちゃってるんだ。それに……今、アッシュのこの手を見て、私の手がこんな風になるのは嫌だな、と思うんだ。わた……おれ、感じることや考えることが、前とは全然違ってきてる。あ、前はこう考えただろうな、っていうのが自分でも分かるんだけど、もうそれを嫌だと感じない。……だから、謝んなくていいんだ。もしかしたら「男だったルーク」にはそれが必要なのかも知れないけど。今の私には、もう、アッシュが私に罪悪感を抱く気持ちが、分かんないんだ。……さ、これで終わり」
最後にふっと削った爪の粉を吹いて、ルークは何に使うものやら爪の手入れをするための数々の道具が入った木箱にやすりを仕舞い、削り滓を受けていた布をまとめて立ち上がろうとした。
途端、すごい力で引き上げられ、気付くとアッシュの膝に乗り上げるように抱きしめられていた。
「……アッシュ? どうしたの?」
返事はなく、胸に押し付けられたアッシュの表情は見えない。あまりに強い力で抱きしめられたために、身体の骨が軋むように痛んだが、その腕が震えていることに気付いては、抗議の言葉を口に乗せることも出来なかった。代わりに、込み上げる愛おしさと欲望のままに、アッシュの頭を抱え込んで、そっと頬を寄せる。
──落ちる、と思った。
今、私もそれを望んでいるのだ、と一言伝えるだけで。
アッシュは、ルークの手の中に落ちてくる。
まるで互いの出方を窺うように、二人は息さえ潜めて身の内に荒れ狂う情動を感じていた。
ティアを好きだと思っていたときとはまるで違う、愛おしい、欲しい、キスしたい、抱きしめたい、抱かれたい、もっとずっと深いところで溶け合うように一つになってしまいたいという、剥き出しの愛情と欲望が、獣じみた荒々しさで胸の中を逆巻いている。アッシュを抱きしめるルークの腕にも力がこもり、何かを言おうというように、開いた唇から熱い吐息がもれた。あまりに大きく、あまりに強すぎる想いに、目尻に涙さえにじんでくる。欲しい、欲しい、欲しい、この男が──!
──言えない、や……。
胸から喉へと迫り上がり、今にも好きだと叫び出しそうになる想いの塊を、ルークはぐっと押しとどめた。
頑張ろうと思ったけど、ナタリアから奪って自分のものにしたいと思っていたけど、元は自分の婚約者でもあり、愛する幼なじみでもあるナタリアから、彼女の愛する男を奪い、幸せを壊すような真似をすることなど、最初から出来るルークではなかったのだ。彼女の顔が曇るところなど、ルークはもう二度と、見たくない。同時に、自分を強く求めているのが分かるのに、決して行動に移さないアッシュもまた、同じことを考えているのだろうと思った。どちらかが先に相手を求めれば、互いに容易く相手の腕に納まるのだろうに……。
「……今受けてる仕事が、お互い全部終わったらさ、」ルークは苦く微笑んで、これが最後というように頬をすり寄せた。「帰ろうか、バチカルに」
「……?!」
「半年以上も経っちゃったもん。これ以上ここにいると、私、多分帰りたくなくなる」
「お前がまだここにいたいのなら、いつまでもいればいい。俺も付き合う」
「アッシュがファブレ家を継いでくれる?」
「お前が望むなら、そうしよう」
「ほんと? そしたら私はここで、一人で生きて行ってもいいよね」
「……」
叶うはずのない我が儘に、間髪入れずに返されたアッシュの答えが、ルークは嬉しかった。いつまでもこのままではいられないことを分かっていながら、アッシュもこの生活を惜しんでいるのだと良く分かる。
「ごめん。言ってみただけだよ。……私、もうちょっとやることあるから、アッシュ先に寝てて」
「……わかった」
言外に潜む「一人になりたい」というルークの意を受けて、アッシュは素直にルークを放して立ち上がった。寝室に入ると、本をベッドに放り投げ、ドアを背にもたれかかって片腕で顔を覆った。深く、長く、溜め息を吐く。誰もいないしんとした部屋に、それは思いがけず大きく響いた。
「……一人で生きてなんて、いきやしねえくせに……! くそっ……」
気が狂いそうだ。こんなことなら、未来など知らない方が良かった。知らなければ或は、愛おしいというこの衝動のままにルークを手に入れる事が出来たのだろうか。
ルークはじきに出来上がる、質の良いヴェールをそっと撫でた。
これを纏うのはナタリア。このヴェールに寄り添うように立つのはアッシュ。二人ともルークの愛する人だった。
ナタリアへの愛情と尊敬と、祈りを込めて、一刺一刺丁寧に大切に針を入れて来た。そんな気持ちで刺繍を入れて来たルークが、どうしてアッシュを奪い取れると思ったのだろう。
まるで憑き物が落ちたように穏やかに、思ったより長くここにいたなあ、とすっかり新婚家庭の居間のように整えられた部屋をぐるりと見回した。両親には悪いと思うけれど、ここに連れて来てもらって良かったとルークは思う。それで糧を得る事までできるほど上がった針の腕に、母上はなんとおっしゃるだろう。帰ったら、親孝行も兼ねて二人に新しい服でも作ろうかな。出来もしなかった料理も出来るようになったのだから、何か手料理を食べてもらうのもいいかも知れない。
パンだって自分で焼けるようになった。細身で軽い女性用の剣を買ってもらって、アッシュに稽古もつけてもらった。勘も戻りつつある。このまま研鑽を積めば、何かあったとき自分の身くらいは守ることが出来るだろう。
一人で生きて行ける、と思う。そうしたって、多分両親は何も言いやしないだろう。寂しがりはするだろうけれど。
だがそうするとファブレ家がどうなるのか、と思うと、そんな我が儘を言う気にはなれなかった。アッシュとナタリアが結婚すれば、やがてアッシュは王になる。彼は、血を分けた息子でありながら、息子と呼べない高みへ昇る。彼らは三たび息子を失うのだ。
これから先は老いて行くばかりのクリムゾンとシュザンヌの元に、ルークはせめてもの慰めとして残りたい。アッシュの代わりにはなれないけれど、自分だってちゃんと愛された子供なのだ、慰めくらいにはきっとなれるはず。
アッシュの事を忘れることは出来ないと思う。愛の形は変わっても、やはりルークはティアに特別な思いがある。だけどルークはアッシュを好きになった。それと同じように、今度もまた、愛する人を増やす事は出来ると思う。
きっと、自分は、まだ見ぬ夫を愛し、尊敬して、クリムゾンとシュザンヌと、皆で生きて行く事が出来るはずだ。