気付くと同時にへなへなと足から力が抜けて行った。ぼぼぼぼっと火がついたように顔に熱が集中する。
アッシュは外に働きに出て。
自分はその間家を守り、家事と内職を。
夜は同じ寝室の同じベッドで寄り添って眠り。
夫婦が夜行う──夜でないときもあるかもしれないが──営みを行っていないだけで、どこからどうみても平均的な夫と妻の役割をアッシュと自分で演じているような気がする。
(な、なんで今日の今日まで意識しないでいられたんだろ……)
自分のことで一杯一杯だったとはいえ、いくらなんでも気付くのが遅すぎやしないか。心の奥底に、未だに自分は男であるという捨てきれない思いがあったからなのだろうか。と、すると、今ここにいる「ルーク」は男なのか女なのか……。
台所の冷たい床にぺったりと座り込んで、とルークは真っ赤に染まって熱を持った両頬を、冷やすように押さえた。対外的には二人は夫婦ということで通しているのだが、今日まで現実感を伴ってそれを感じた事はなかったように思う。
(アッシュは……? アッシュはどうなんだろ……)
改めて思い起こしても、一体アッシュが自分のことをどのように思っている──と、思われるのか、あまり思い出せない。
思い出そうとしても無駄なことに、ルークはすぐに気付いた。嫌われないように、放り出されないように、使えない奴よと軽蔑されないように。そればかりを意識して、肝心のアッシュが自分のことをどう思っているのかなんて、一度も探ったことがないのだ。嫌われたり、軽蔑されたりはさすがにないように思うが、アッシュがどうしてこんなところまで自分に付き合って来てくれたのかもルークは知らない。うろ覚えだけれど、バチカルで仕事だって持ってやしなかっただろうか? 何故、何もかも放り出してここに連れ出してくれて……こんなままごとみたいな生活に付き合ってくれているんだろう?
(まあ、それだけおれがおかしかった、ってことなんだろうけど……)
元は男なのだと意識することのない、且つ、女なのだと殊更に意識しなくてもいい友達が大勢出来て、ルークは本当に素直な自分のままでいられるようになった。貴婦人としては乱暴な言葉使いでも、ここじゃ誰も気にしやしない。むしろルークなどよりもっと乱暴な言葉で話す女たちなど山ほどいるからだ。
彼女たちはルークの胸が大きくても、身体が柔らかく、まろくなっていっても、何も不審に思ったりはしない。何故と言って、彼女たちにとってはルークは元々そういう女だったのだし、自分は元は男だったのだと声高に叫んで腕立てを始めたり腹筋を割るために努力を始めたりしたら、それこそ気でも違ったのかと思われるのだろう。
自分とまるで対極にある、アッシュの身体。
二年の間にどうしても衰えてしまっていた筋肉が、過酷な仕事の数々をこなすことによって再びしなやかに張り詰めていき、あの頃は僅かに残っていた少年ぽさを綺麗に削ぎ落とした、固く、直線的な身体。
もしも、自分がまだ男だったなら……。
少年だったルークが、ヴァンに憧れてそうなりたいと願ったように、今だってそういう身体を手に入れているアッシュに対して憧れの気持ちがないわけじゃないが、そんな風に考えても前ほどの焦燥はもう感じない。むしろ、あのまま男だったりしたら、今頃髭でも伸ばしていたのかも、と考える方が鳥肌ものだった。
(最悪だ。……おれ、絶対髭伸ばしてた気がする……)
アッシュが髭を剃っているのを見ても、最初は心に澱が溜まっていくような陰鬱な気分に陥ったものだけれど──ルークは結局、そんな時期までは男のままでいられなかったから──今はアレが己の顔に、と想像するだけで発狂しそうな恐怖を感じる。
恐る恐る、ルークは自分の頬に触れた。滑らかで、柔らかく、線の細い輪郭や華奢な顎、鼻筋を辿り、被験者であるアッシュの顔との違いを確認し。
──ほっ、と安堵の息を吐いた。
(……アッシュ。今、アッシュの顔が見たいよ)
顔を傾げるようにして髭の剃り残しをチェックしていたアッシュの顔を思い出すと、本を読んでいる時の横顔や、剣の手入れをしている時の真剣な顔、何か作らされているときの奇妙な表情、ルークの話に笑いを堪えている顔、怒っている顔、心配そうな顔、疲れた顔、それに、帰って来た時に一瞬だけ見せる、安堵の表情が次々に脳裏をよぎっていった。
大声で叫び出したいような、何か正体の分からない、焦りにも似た衝動が身体の奥から突き上げてくる。
(おれ、アッシュが好き、だ)
ルークは、唐突にそれを自覚したのだった。
ぐるぐると思い起こせば、その気持ちの片鱗は随分前からあったような気もするし、そうではないような気もする。ただ、一つ言えるのは、「ルーク」がティアを想っていたように、「ルシファ」がアッシュを想っていると自覚しても、嫌な気持ちにはこれっぽっちもならなかったということだ。
ここに来てようやく、心が体に添って来たのだろう。ローレライが言ったように、これが「折り合いがつく」ということなのかも知れない。目を閉じて、男であったころの自分、男であったころに愛したティア、大好きだった剣術、思い起こしても懐かしいと思いこそすれ、ほんの僅かでも心が波立つ事はなかった。
こんなことなら戻ってくるのではなかった、あのまま音素に還ってしまっていれば良かったと思うこともあったのに、どんなことになっても人を愛することは止められない自分は、きっと、自分で思っているよりも柔軟で強かな人間なのだ。
ルークはくすりと苦笑した。
アッシュにはナタリアがいて、ルークは元々とても憎まれていた劣化レプリカ。自分の想いが受け入れられる可能性は限りなく低い。自覚と同時に失恋もほぼ決定、というわけだ。
中途半端に終わってしまったイレイン先生の教えを忠実に実行すれば、或はアッシュの身体くらいは手に入れることが出来るのかも知れないけれど、心が手に入らないのに、身体だけを手にすることに意味はあるのだろうか。イレイン先生の講義の狙うところは、あらゆる閨房術、読心術を駆使して、相手の心と身体を完全に支配下に置く技を身につけることだとルークは理解していたけれども、それはやはり敵国に一人嫁ぐことになった昔の王族の姫君が、相手の心を取り込んで内部から切り崩していくための技でしかない。愛する人を支配下に置きたいとは、少なくともルークは思えない。
(上手く行かないなあ……。なんでこう、好きになっても仕方ない人ばっか好きになるんだろ……)
ルークは膝を抱えて顔を伏せた。
二人が結婚するときには多分辛い想いもするだろう。もう二度と、誰も好きになれないなんて思ったりもするのかも。
だけど自分はまたいずれ、誰かに恋をする事が出来るんだろうと思う、きっと。
なら、後がないわけではないのなら、せめてそれまでは、精一杯頑張ってみよう。もちろん、アッシュに迷惑はかけないように。駄目でもともとなんだし、恋愛も、ままごとのような「新婚生活」も、その気になって楽しんでおこう。もしかしたらいずれ本当に結婚生活を送る事になったとき、役に立つかもしれないんだし。
(……って、強かすぎる。おれ、ほんとはこういう性格だったのか……。でも、前のおれよりはこういうおれの方が、好きになれそうかも。女は強いって言うけど、ほんとなんだな)
苦笑してぼんやりと顔を上げると、一体どれだけぐるぐる考えていたのか、外がすっかり暗くなっている。慌てて時計を見やると、アッシュの帰宅予定時間を大幅に過ぎていた。
──少し、遅すぎやしないだろうか?
心臓の鼓動が、少しずつ早くなっていく。
この辺り一帯に生息する魔物は数が多いだけでさほど強くないし、護衛をしていた隊商は特に危なげなく帰路についていた。予定の時刻より四時間近くケセドニアへの戻りが遅くなったのは、何か事故があったわけではなく、単に商売上の都合である。
到着前からルークが心配でイライラとしていたアッシュを、ベテランの傭兵達がからかう。ルークと付き合いのあるご近所の主婦の亭主が中にいるのである。
「まあ、新婚さんだしな。こいつんところのかみさんはすごい別嬪だし、心配なのはよっく分かるが、まあ落ち着けや」
「俺は別に……落ち着いている」
「やー、さっきからぴりぴりした空気が怖ええくれえだ。──美人のかみさん、留守がちな亭主、間男が入り込むにゃいい環境だもんな。急に化粧が変わったり、あっちのサービスが良くなったりしたら十中八九、浮気決定だ」
「誰も間男の心配なんざしてねえよ!!」
眉間に皺を壮絶に寄せてくわっと噛み付くアッシュにまあまあ、と皆がなだめる。
「ああ、新婚で、女房が美人だから誘っても娼館に行かねえのか?」
「そういうわけじゃねえ。──ただ……」
黒く染められたこの髪の下に、隠された真の髪色を思えば、万が一のしくじりも許されないと思えばこそ、その手の行動は慎重にならざるを得ない。己の与り知らぬ所で赤毛の子供が誕生する可能性など、決してあってはならないのだ。
「こいつのかみさんってそんな美人なの?」
「雛には稀なって言うか、掃き溜めに鶴と言おうか。美人な上になんか上品? つうのか、思い切り着飾らせたら、貴族のお嬢様でいけんじゃねえかと俺は思うね。少なくともうちのカカアとは大違いだ」
「ちっ。美男美女夫婦かよ、気にイラねー!」
「お嬢様みてえなかみさん……見てみてえなー」
「おお、こいつんち、俺んちのちょっと先だぜ」
「来るな! 見なくていい!!」
「固えこと言うな。美人は皆の財産だぜ〜」
「皆のじゃねえ!」
ケセドニアに到着して、後払いの半金を受け取り、アッシュは逃げるようにギルドを飛び出したのだが、残念ながらご近所の亭主が案内役を務めたため、払っても払ってもぞろぞろと付いてくる男達を振り切れずにいる。
そうこうするうち、街の外れに我が家の灯りが見えた。焦るあまりにどうしても早足になってしまうアッシュに、後ろから冷やかしの声が飛ばされたが、家の前でうろうろしている人影を見つけてはそのへんのすべてが吹き飛んだ。
(もう暗くなってるってのに、なんで外をうろうろしてやがるんだ……!)
そう思った途端、人影がこちらに気付いて、駆け出してきた。
「アッシュ! ──アッシュ、お帰りっ!!」
アッシュが気付いて駆け出そうと二、三歩を踏み出した時、ルークが全く勢いも殺さずまっしぐらに飛びついて来た。
「?!」
常にない熱烈な歓迎ぶりにうろたえて、小柄なルークの体を受け止め損ねそうになり、抱え込んだまま後ろにたたらを踏んだ。
「あ、アブねえじゃねえか」
「遅かったから、心配だった……! お前のことだから、絶対心配いらないって分かってたんだけど」
湿り気を帯びた、絞り出すような言葉に胸が詰まり、アッシュは思わずルークをかき抱く。「──悪かった。雇い主の商売上のトラブルで、何か危険なことがあったわけじゃねえ。俺はちゃんと帰ってくるから……泣くな」
「う、うん……ごめん。……お腹、空いてるだろ? お前の好きな物、山ほど作ったからね……」
なんでこんなに可愛いことを言う、と込み上げる愛おしさのままに抱きしめる腕に力を入れると、胸のあたりでもじもじと頭を動かし、ルークが言った。
「ね、あれ、知り合いなの?」
ヒューヒューと口笛など吹き、「熱烈な歓迎だねえ」だの「やっぱ色男は違うね!」だののだみ声がかかり、アッシュはルークを抱きしめたまま、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちをした。
──くそ、あいつらを忘れていた……!
たくさんあるから食べて行けばいいよ、とにこやかに誘うルークの顔を呆然と、或は驚愕の目つきで凝視する傭兵たち。中には瞬きもせずにルークを見つめている者や、胸から視線を外すことが出来ないでいる不心得者もいて、アッシュの顔色は怒りのあまりどす黒くなっているほどだった。人を射殺しそうな目つきで睨んでくるアッシュに恐れをなし、男達は言葉を失ったまま首を振り、後ずさる。
「そう? 残念だな。……じゃ、また遊びに来て下さいね」
残念そうに言うルーク以上に残念そうに、傭兵たちは帰宅していった。ルークが手を振っていると、遠くの方で複数の雄叫びが聞こえて来た。
「なんだろうね、あれ」
不思議そうに傭兵たちが消えて行った方角を見ているルークの肩を乱暴に抱いて、家の中に押し入れるアッシュに、
「……なに怒ってんの?」
「……あんまりよその男に愛想よくするんじゃねえよ。何度言や分かんだてめえ」
「愛想良くって。……でもアッシュが今回お世話になった人たちなんでしょ?」
「でも、するな」
子供のようにふて腐れていいつのるアッシュに、ルークもはいはい、と苦笑した。意外に、焼き餅焼きなのであるらしい。
「それに、お前。……なんかいつもと違わねえか……?」
アッシュは正面からルークの顔を見ることが出来ず、照れたような焦ったような紅い顔を反らし気味にぶっきらぼうな声を出した。
「えっ? なにが?」
「なんというか」
「何?」
「……なんでもねえ……」
「そう?」
アッシュがシャワーを浴びて着替えを済ませる間に、ルークはスープを温めたりマリネしておいた肉を焼き始めたりと、暖かいまま出したい料理の仕上げを始めた。気付くと、口から歌がもれ出していた。
アッシュは、おれのことが好きだ。
今の、一連のアッシュの行動、言動で、確信を持った。昨日今日、突然抱いた気持ちではないのだろうから、ルークがちゃんとアッシュを見てさえいれば、もっと早くに気付いていたのだろう。
アッシュはそれを自覚しているのか、そうでないのか。だが、もしも自覚しているのなら、アッシュがそれを、今日までルークに全く悟らせなかったということは、アッシュがナタリアとキムラスカを捨てて自分を選んでくれる可能性が限りなく低いことを示しているような気もする。
(でも、絶対じゃないよな? 頑張ろう……)
「パン、どう?」
「……うまい」
「良かった。おかわりしてね。……あのさ、自分でパンを焼くようになって、ちょっと腕に筋肉がついてきたみたいなんだ。でね、軽い剣なら持てるんじゃないかと思うから、今度稽古つけてくれないかな」
「分かった。今度選びに行こう」
「ありがと」
嬉しそうに笑ってパンを千切っているルークを、ふとアッシュは探るように見つめた。
(やっぱり、いつものこいつの顔じゃねえ。……ような気がする。なんというか、元々……元々整った顔をしちゃいたが、なんというか……今日に限って、……いつも以上に綺麗に見える、気がする。──いや、俺の気のせいだ。そんなわけねえ。こいつがいきなり抱きついてきたりなんてしやがったから……)
「……なにか、あったのか?」
「えっ?」
「機嫌が良さそうだ」
「私?」ルークはふと首をかしげ「そうかな? 自分じゃ分からないけど。そうだ、大口の仕事が入りそうだから……かな?」
ルークが何か、楽しそうに新しく受けることになる仕事について話していたが、アッシュは全く聞いていなかった。
『美人なかみさん、留守がちな亭主。間男が入り込むにゃ……』
『急に化粧が変わったり』
『サービスが良くなったら、十中八九、浮気決定だ』
──なんだか急に、綺麗になった気がするルーク──
「それで来週、おばさんのとこで話を聞「お前、俺のいない間に化粧変えたか?」」
「はあ?」話の途中で、全く関係のない質問が出て、ルークはあっけにとられてアッシュを見つめ返した。「──急にどうしたの?」
「いや、だから……」
眉を寄せて、何やら深刻そうな顔のアッシュを見て、ルークはさっきもアッシュが「いつもと何か違う」と何か気にしていたことを思い出した。
(いつもと違うって言えば、やっぱりアッシュのこと好きだって自覚したってことなんだろうけど……うわ、やだな。そんなに分かっちゃうもんなのか、おれ……)
「……化粧なんて、毎日あれこれ変えてるよ、服の色に合わせたり、気分で。アイシャドーの色とか口紅の色とか……。アイラインも入れたり入れなかったり。……気付かなかった? つーか普通は気付かないんだよな。トーヴァのとこの旦那さんは髪型変えても気付かない、って言ってたし」
「そ……そうなのか……」
毎日まめにそんなことをされては、突然化粧が変わったらと言われても分からないではないか。ルークは浮気をする時にいきなり化粧を変えるタイプではないのかも知れない、とアッシュは撃沈して、内心頭を抱えた。
(ルークに限って、んなことあるわけねえ。……いや、そもそも浮気ってなんだ。こいつの亭主になる奴から見たら、俺こそが間男、邪魔者、ってことになるんじゃねえか……。もしかしたら、もう、いるのかも知れねえのか、ルークの周りに……)