小さいが腕が立つ、というギルドに登録をすることができ、日帰りで出来る仕事の数回で技倆を証明することが出来ると、じりじりと回してもらえる仕事も増えて来た。
さすがに毎日そう都合の良い仕事があるわけはなかったが、無茶をしなければ、二人ぐらいなんとか食べて行くことが出来る。
仕事のない日にはルークにせがまれるまま、居間に棚を作ったり、物干台を作ったりした。大工仕事は初めてで意外なぶきっちょさを晒すアッシュに、ルークは「本当におれの被験者なのか」と吹き出した。憮然としたアッシュだったが、出来たものはなかなかで、木屑だらけで不敵に笑うアッシュの姿がまた滑稽で、とうとうルークは涙を零して笑い転げてしまった。
「あっはっはっはっはっ、あっ、あっはっは、はっ、はっはっはっは、アッ、アッシュ、」
アッシュは、驚いて立ちすくんだ。それは、彼が初めて見るルークの、陰の無い、明るい、全開の笑顔だったから。人の目を意識せず、大口を開けて、ぼろぼろと溢れる涙を拭いながら笑っているルークの顔は、未来の落ち着いたルークとも、二年前の少年だったルークとも違う、また別の顔をしている。
「……いつまで笑ってやがる」
「だ、だって、アッシュ、あは、あっはっはっは、ごめ、ごめん、だって」
横目でちらりとアッシュの顔を確認して、ルークは堪えきれずに腹を押さえた。笑い過ぎて、つったように痛む。それでもおかしかった。
眉間に皺は寄っているのだが、いつもと違って眉尻は下がっていた。自分のものよりも深い色合いの翠はなんだか困ったように泳いで、顔だって耳まで紅く染まっている。
まるで小さな子供のように、どこか途方に暮れた、アッシュ。
(か……可愛い……)
ずっと、アッシュには出来ないことも、知らないことも、勝てない敵も、何も無いような気がしていた。追いつくためには何倍も努力して、それでも決して手の届かない、完成された男、完璧な人だと。
でも、そうじゃなかった。アッシュは超人じゃない。したことがないことは出来ないし、四苦八苦したあげく、なんとか形になったものを見て、得意げな顔をしたりする。普通の、少年期を脱してやっと青年期に足を踏み入れたばかりの、普通の青年に過ぎなかった。
「アッシュ、ありがとう」
「……なにがだ」
「棚を作ってくれて。……おれが、色を塗るよ。白がいいかな。そしたら、大切に使おう、ね?」
「……ふん」
眉尻を下げたまま、ふて腐れて顔を背けるアッシュを見つめて、ルークは初めて──イオンを取り返そうと、雨のそぼ降る中斬り掛かり、初めて正面から見えて以来──己の被験者を、愛おしい、と思った。
一度棚を作ってやって以来、ルークが自分をを見る時の目から昏さが薄れたことに気付いて、そのあとも言われるがままにあれこれと作り続けたアッシュだったが、何故か木工の腕はルークの裁縫ほどに上達してはくれなかった。
そこそこの形にはなっているのに、そこはかとなく歪み、制作者に完全な満足感と達成感をもたらしてはくれない。頑丈なことだけは確かだったので、毎回笑いを堪えながらもルークは喜んでくれていた。
三年近くも前の自分、ベルケンドで未来のルークに会う前の自分なら、レプリカにこんな風に笑い者にされることは、到底堪え難い屈辱と感じただろう。だがこれが惚れた弱みというものか、そんなことでもルークが笑っているのを見るのは嬉しい。
近所の主婦たちともすっかり仲良くなって、アッシュの留守中には互いの家に行き来して昼食やお茶を楽しんだり、刺繍を教える代わりに絨毯の織り方を教わったりしているようだった。バチカルで招待を受けて出かける度に疲弊していった時と違い、今では出かける度に少しずつ少しずつ、ルークの内部の虚が埋められて行っているように見える。
その頃からじりじりルークの食事量が増えて来て、朝起きた時に、鬼気迫る顔で二の腕や腿、腹をなで回したり引っ張ったりしている姿も見られなくなった。身体が丸みを帯びてくると、眠っているルークが無意識に自分を抱き枕にしているのが本当に辛いのだが、それですら幸せだと感じたりもする。一体、いつの間にこんなにぐずぐずに惚れてしまったのだろう。いつか自分の庇護の腕から抜け出して、他の男の腕の中へ飛び込んで行ってしまう女なのに……。
アッシュが仕事に出かけ、帰宅するたびに、少しずつ家の中には物が増え、居心地良く整えられていった。
神託の盾に所属していたころ与えられていた小さな私室とも、バチカルの屋敷とも、この家は違っていた。ルークの縫ったもの、アッシュが作ったもの、二人で選んだもの、探したもの、ここは二人で一緒に作り上げた居場所だった。どんなに疲れていても、どんなに苛ついていても、ここに帰って来てルークの「お帰り、アッシュ」という台詞を聞くと、心はすぐに凪いだ。こういう場所をこそ「我が家」と呼ぶのだろうとアッシュは思う。
最初はどうなることかと思った料理の方も、失敗も少なくなり、ご近所の主婦達のお陰か少しずつレパートリーが増えて来た。当初は失敗する度に身も世も無く号泣するのを宥めるのに骨を折ったものだが、どんなものが出て来ても、アッシュは文句も言わず食べるのだと知って以来、どうやら緊張を解いてのびのびと料理を楽しむことが出来るようになったようだ。
元々ファブレ家専属のシェフの作る一流の料理を食べて育ったルークなのだから、味覚は確かだ。失敗を恐れて縮こまってさえいなければ、かなり美味しいものが作れるのだった。──食材は多少偏っているかも知れないが。
レシピを教わって初めて作ったチキン・サテが思いがけず上手に作れて、しかもとても美味しかったので、ルークは食後のショウガ入りの濃いミルクティーを啜りながらかなり上機嫌だった。
「あのねアッシュ、もしかしたら私の刺繍ってお金になるかも知れないんだって。前にアルヤの、──アルヤってほらご近所さん、前に会っただろ、果物屋さんのお隣に住んでる。そのアルヤの絹のハンカチに刺繍を入れてあげたんだけど、それを見た仕立て屋さんが、その人を紹介してって言ったんだって。それでアルヤが、私が仕事したいって言ってるのを知ってるし、良かったら、紹介するよ、って」
元々がアッシュと同じ、凝り性の完璧主義者である。ここに住み始める切欠になった例の刺繍も、パーティーの時の白い手袋も、少なくともアッシュの目には素人の刺したものには見えなかったくらいだ。それをここにきて毎日せっせと何か縫ったり繕ったりしているのだから、腕はどんどん上がっている。アッシュ自身は、木工作品の数々で図らずも証明することになってしまったが、自分がそれほど細かい作業に向いている質だとは思っていない──さして上達もしないようだし──この違いはどこから来るのか首を傾げるばかりだった。完全同位体であった頃から、その差異はあったのか、それとも性差によって、露になったものなのか。
ルークの話では、どうやら縫い物、繕い物、刺繍などを仕事にすることによって、ささやかながら自分も収入を得ることが出来るかもしれないという事だった。特に刺繍は主に貴婦人の嗜みで、平民の夫人にそれが出来る者は少ないのだそうだ。
「ああ、仕事になるとは気が付かなかったが、なるほどな。俺もお前の腕はかなりのものだと思う。お前の手縫いのシャツなんか、サイズはピッタリ合ってるのに肩の動きも全く邪魔されねえし、もう他のは着られねえと思うくらいだ。これまでもちゃんと採寸してたのに、何が違うんだか……? 針を教わって半年やそこらでここまでとは、お前、やっぱり才能あるのかもな」
「え……そ、そうかな? アッシュにそう言われると、誰に言われるより嬉しいなあ。じゃ、やってみてもいい?」
ほんのり頬を染めて、ルークが嬉しそうに俯いた。バラ色に染まった透き通った肌は、今や瑞々しく潤いふっくらとしていて、チョコレート色に染められた髪もしっとりと艶やかに纏まり、バチカルを出た時の幽鬼のような有様とは到底同じ人間とは思えないくらいだった──倍にはまだまだほど遠いけれども、「女の子らしく、丸く」、どこもかしこも柔らかい曲線を描いているのが、服の上からでも分かる。
「俺の許可なんかいちいち取らなくて構わねえよ。お前がやりたいことを楽しそうにやってるのが、俺は……」
「俺は?」
「い、いや。いいんじゃねえか、と」
赤くなって顔を反らしたアッシュの顔を見て、本当に言いたかったのはそんなことじゃないんだろうとルークは悟ったが、指摘しても怒鳴り出すだけなのだろうし、くすりと笑ってごまかされてあげることにした。
一月ほどはアルヤを介して知り合った仕立て屋から、下請けの仕事を回してもらっていたが、しばらくしてルークの腕が確かだと分かると、ルーク個人に名指しで仕事が直接持ち込まれるようになった。
「ヴェールの刺繍?」
「そうなんだ、あんた、貴族様みたいな刺繍が出来るだろ? 刺繍が得意な人、って要望を受けたんだけど、どうも相手のお嬢さん方は身なりもいいしさ。これは下手な奴に任せるよりはあんたに、って」
「分かった、受けるよ。ありがとう、小母さん。刺繍の仕事が、私一番好きなんだ」
「じゃ、受けて良いんだね? 結構大物だから、時間もかかるが実入りもいいはずだ」
「ほんと? やった!!」
日時を指定して、仕立て屋の受付で依頼主たちに会う事にして、ルークはかなり機嫌良く帰路についた。
繕い物だって嫌いではないが、やっぱり一から作らせてもらったり刺繍を入れたりするのがルークは楽しくて好きなのだ。
昔はじっと座っていることが苦手だと思っていたのに、そうでもなかったと今更のように気付かされるのは不思議な気分だった。思えば疑似超振動によって否が応でもなく旅立つはめになる前は、剣術の稽古以外の時間は部屋に閉じ籠っていることの方が多かったのだ。しかも今は、四角い空を見上げてただ溜め息をついているだけでなく、好きなことをして、生活の糧を得ているのだから……。
(いつから、こんなことが面白いと思い始めたんだろう? なんで前は興味がなかったんだろう? やったことがなかったから? それとも男だったから? ……でも仕立て屋って男も多いし、それは関係ないよな……。不思議だなあ……。とにかく、アッシュに早く話したい)
ここ一月ほど──ルークが仕事を得てからだが、突然号泣したり癇癪を起こしたりといったことが徐々に減ってきていたので、アッシュはルークの様子を窺いながら少しずつ数日かかる仕事を入れるようになっていて、三日前にも仕事に出かけていって以来、帰って来ていない。予定通りなら今日は帰ってくるはずだった。
アッシュの腕が恐ろしく立つ事をルークは身を以て知っているから、万一の心配などは全くしていない。さすがに初めてのアッシュ不在の夜は、ただただ一人が怖くて、このままアッシュが自分を見捨てて帰って来ないのではないかという不安に苛まれて眠れなかったものだが、翌々日の朝、予定よりも早く息を切らせて帰って来たアッシュに、その不安が杞憂だったのを知った。不安なのはアッシュの方も同じだったのだ。それが分かったので、ルークはほとんど寝ることすら出来なかったことを綺麗に隠して、笑顔でお帰りなさいと言った。その時のアッシュのほっとしたような顔を見て、ルークはバチカルを出た夜にアッシュが廃工場で言った、「追い出すんじゃない、一緒に行くんだ」という台詞がやっと信じられるものだと気付いたのだった。
(疲れて、お腹すかせて帰ってくるだろうし、今日はアッシュの好きな物でも作ろうかな? アッシュの好きな物といえばやっぱりチキンだよな。香草とマスタードを効かせたチキンソテーにしよう。スープはヒヨコ豆のポタージュ、ひまわりの種のパン。揚げた海老のサラダに……それからデザートには……)
頭の中で夕食の献立を考えながら市場に向かっていると、通りすがりの民家で、一仕事終えて帰って来た商人らしい夫を、飛びついて迎える妻の姿があり、ルークは半ば考え事をしながらぼうっとその光景を視界に入れた。
「お帰りなさい! 無事で良かった……!」
「ああ、ただいま。何も変わりなかった?」
「何にも。あたしは大丈夫。この通り元気だわ。──お腹すいたでしょう? 今日はあなたの好きな物ばっかり作ったんだから!」
「ほんと? 嬉しいな、お腹がぺこぺこなんだ──僕の方もお土産があるからね」
もつれ合うように家の中に消えて行く若い夫婦を、ルークは思わず足を止めて、呆然と見つめた。
たった今見かけた光景、夫婦の会話が、頭の中で何度も勝手に再生されていた。どこを歩き、どの店に入ったのかもさだかではない状況で、それでも買い物をすませ、パンの種を捏ねて寝かせた。ヒヨコ豆やジャガイモやタマネギなどを煮込み、裏ごしにかけてポタージュを作り、チキンには味が染み込むよう切れ込みを入れ、岩塩、黒胡椒を擦り込んでからオリーブオイルとローズマリーに漬け込んでおく。
(お腹すいたでしょう? 今日はあなたの好きな物ばっかり作ったんだから!)
(疲れて、お腹すかせて帰ってくるだろうし、今日はアッシュの好きな物でも作ろうかな……)
朝干しておいた洗濯物を取り込んだり、頼まれものの縫い物の仕上げをしたり、忙しく立ち働きながら、ふと、気付いた。
えっと。
なんか、おれ。
あの奥さんみたいな……?