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見知らぬ女をミュウが『ご主人様』と呼んだことに、ルークとティアはそれぞれショックを受けているようだった。ミュウはちらちらとルークの方を気にしつつも、女の腕から飛び出そうとはしていない。二人の子どもたちは少し興奮しているようすだが、母親らしき女はにこやかな笑みを絶やさず、腹立たしいほど一人落ち着き払っていた。
一体どういうことなのかと、アッシュを始め全員が疑問を押さえきれずにじりじりしていたのだが、女は寝る時間の早い子どもには先に食事をと言って譲らなかった。一同は宿の雑然とした食堂で、全く味のしない早めの夕食をなんとか胃に納めることになった。
「左利き……ですか」
「おじ……ルークさまも左利きでいらしたのですね。剣も左で扱われるのですか?」正体不明の女がカトラリーを左右逆に扱うのを見て、ぽつりと零したジェイドの呟きに、ちらちらとルークを窺っていたナイルという少年がキラキラした憧れの視線を真っ直ぐに向け、意を決したように話しかけた。
「え、う、うん……あの……その、『さま』っていうのは……」
戸惑うルークに、少年は顔をほんのりと染めて、なおも一生懸命話しかける。「母上も、左で剣を扱われるのです。結構、お強いのですよ」
「ほう……剣を。流派は何ですか?」戸惑って様子を窺うのが精一杯の面々の中で、アッシュは隣に座った小さな少女の危なっかしいマナーに気を取られっぱなしで、ジェイド一人が何食わぬ顔で正体不明の親子に話しかけていた。
「父上と同じ、アルバート流を修められています」
ほんの一瞬、アッシュとミュウ以外の過去の面々が動きを止めたことにも気付かず、少年は「ルークさま」呼ばわりに閉口しているルークに、なおも熱心に話しかけていた。
「ナイル、ウィスとお部屋で待っていてくれる?」
緊迫した空気の中で、食後にアッシュが追加で頼んでくれた冷たい菓子と、湯で薄めた紅茶を子どもたちが飲み干すのを見計らい、女が言った。母親の言葉に少年は大人同士の話し合いがあると察し、素直に頷く。
「ありがとう、助かるわ。じゃ、行きましょうか」
「ううん、おじさまと行く! ミュウちゃん、おいでー」ウィスと呼ばれる少女が母親を制してルークの腕を引っ張る。ミュウは見知らぬはずの少女の指名に「はいですの!」と嬉しそうに飛び跳ね、おとなしく華奢な腕の中に収まった。少年が軽く頬を紅潮させ、母親とルークとを見比べる。
「ルークさまとミュウちゃんはお母さまと大事なお話があるから、本当にお部屋までよ? このお宿にはお風呂はないから、二人でシャワーを使ってね。いつも通り八時にはウィスを寝かせてちょうだい。ごめんなさい、……ルーク? 部屋まで送ってやってくれる?」
戸惑い顔のルークに、女が微かに笑みを浮かべた。
それは疑問形ではあったが、明らかに強制力があり、ルークは首を傾げつつ立ち上がった。少女が小さな小さな手でそっと手を繫いで来るのを、ルークが面映そうに、だがとても大切そうに握り返す。何も知らずとも『母親』は血の絆を感じ取るのかもしれないと、アッシュはふ、と目を細めた。
ルークとミュウ、ナイルとウィスという小さな少年少女が完全に姿を消すのを見送った途端、口を開いたナタリアより早く、アッシュが切り口上で問いを発した。
「一体どういうことなんだ。なんでこんなことに?」
「……? 知り合いじゃなかったのか?」
不審そうに二人を見比べているガイにちらりと視線を向け、女は肩をすくめた。「怒んないでよ、私だってわけわかんないんだから。それに……ルークが戻るまで待ってよ……自分のいないとこで話を進められるの、ルークは怖いんだ。仲間外れにされたみたいに感じてしまうんだよ」
「……っ」
今更のようにそれに気付いた全員の間に、漣のように動揺が広がるのがわかった。女は申し訳なさそうに小さく息をつき、ルークの分も含めてお茶を淹れ直し始めた。場を持たせるのが目的であるように、殊更丁寧にゆっくりと。
ちょうど全員の分がカップに注がれたころ、ルークがミュウを掴んで急ぎ足で戻ってきた。
「お帰りルーク、ありがとう。お前が戻って来るまで話をしないって言ったんだけど、皆さんもう落ち着きなくじりじりしちゃっててさ。全員が爆発する前に戻ってくれて良かったよ」
「……言葉、」
「あ、うん」驚いて目を見開くルークをちらりと見上げ、女はそれぞれの前にカップをすべらせながら苦笑した。「ほんとはこうなんだ。けど、娘の前ではまずいでしょ? うちの人は短気だからそのあたりボロが多くてね。ナイルが時々真似をしちゃって困ってるんだ」
ちらりと本当に困ったような視線を向けられ、アッシュは苛々と繰り返した。「どうしてお前たちがこんなところにいるんだ。べルケンドにいるんじゃねえのか」
「確かに一年のほとんどはべルケンドにいるけど……。うちの人が仕事でケセドニアに行くことになったから、たまには子どもたちも連れて行こうかってことになったんだ。ここにも小さい家があるんだけど、ナイルは憶えてないだろうし、ウィスは来たことないから。せっかくだから、下町で食事させてやろうと思ったら、うちの人が知人に拉致されて……ちょっと仕事のお手伝いをすることになっちゃってね」
女は肩をすくめて苦笑した。眉尻の下がったそのばつの悪そうな表情は、ルークが時折見せるものと同じだ。
「私だけだとどこで食事するか目移りしちゃって、あちこち歩いてたら昔ありじこくにんに会った路地裏の近くに出たんだ。初めて会ったときにアップルグミをあげたら、代わりにからあげのレシピもらったのって話したら、二人とも会いたいと言い出して。さすがにもう本物だなんて思ってるわけじゃなかったんだけど、まだいたらいいね、なんて話しながら行ってみたら、いたの……。私の手袋を欲しいと言われて渡したら、例によって穴に放り込んだんだ。砂に吸い込まれて消えるのを見て、顔を上げたらさっきの雑踏に三人で立ってた」
「なぜあなたがからあげのレシピのことを知っているの?」訝しげに眉を寄せたティアを見やり、女はどうしようか、というようにアッシュをうかがう。
「正直に話すしかねえだろ」
「気でも狂ってんのかと思われるよ……」
「仕方ねえだろうが」
「そこを上手く濁して話せないかなー」
「お前には無理だ。本当のことを話せ。フォローはしてやる」
「……お前ってそういうとこ、昔からちっとも変わんないんだな。それなら先にフォローしてくれたらいいのに」
「お取り込み中のところ、すみません」何やらもめ始めたアッシュと女を興味深そうに見つめていたジェイドがそこでやっと口を挟んだ。「まずはレディ、あなたのお名前をお聞かせいただいても?」
それはアッシュも知りたいところだったため、黙って返答を促す。
「……ルシファ。ルシファ・フォン・ファブレ」
「──?! ファブレ一門の方ですの?!」
「えーと、まあ……」
口ごもるルシファを、皮肉ではない笑みを浮かべて見つめたあと、ジェイドは頭の中でファブレ家の系譜をめくっているであろうナタリアに首を振って見せた。「『黎明に光をもたらす者』……ね。身内は身内でしょうが……先ほどからのやりとりを聞いているとどのような立場の方か答えは出ていると思いますよ? あなたのご主人のお名前も、ぜひ聞かせていただきたいですね」
「わかってるなら、聞かなくてもいいじゃん」
「いえいえー。確証のないことを口に出さない主義なのは、あなたも良くご存知では?」
互いに知らぬ仲ではないと言いたげなジェイドに、ミュウ以外の全員が驚きをあらわにする。ルシファはほんの少し目を見張ってジェイドを見つめたが、やがて花開くようにあでやかな笑みを浮かべた。
「感じの悪い言い方。相変わらずだな、ジェイドは。お察しの通りだと思うよ。『アッシュ・ルーク・フォン・ファブレ』これでいい?」
「結構です」
「そ……それは一体、誰の……『どちらの』ことなんですか、大佐」
怯えたようなティアの質問と同時に、全員の視線がぴくりとも動かず睨むようにルシファと名乗る女を見つめるアッシュに向かい、次いで話が飲み込めずにきょとんとしているルークを一撫でしてジェイドに戻った。
「もちろん、ファーストネームの人のことですよ。そのミドルネームは、もう二度と帰って来ない『ルーク・フォン・ファブレ』の名だけでも残そうということですか?」
「……違う。死して英雄になってしまったファブレ家長子のレプリカのことを、世間の人々に深く詮索させないため、かな。彼が生還しなかったことを自然に風化させるために、被験者とレプリカ、二人の名をくっつけて、両者が元は別の存在だったってことが、年月が経つに従って曖昧になっていくようにしてくれたんだよ。もちろん、王統譜とファブレ家の系図には『ルーク・フォン・ファブレ』の名はファブレ家次男と記されてしまってるけど。ナイルの反応、見たでしょ? あの子は『英雄ルーク・フォン・ファブレ』が父親のレプリカだというのが誇らしくて仕方ないの。絶対に『ルーク・フォン・ファブレ』が本当はどうなったのか、知られるわけにはいかないんだ」
ルシファの話を完全に理解しているのは、アッシュとジェイドだけのようだった。ミュウも神妙にしているところを見れば、ある程度は本能で理解しているのだろう。『二度と帰ってこない』の台詞に悲しげに目を閉じたルークと、そんなルークに何か言ってやりたいが言葉が出ない、といった態で戸惑っているアッシュの姿を目の端に捕らえ、ジェイドがこの男には珍しい、泣き笑いのような表情を見せた。
「その姿は、大爆発を回避するための、ローレライの仕業なのですか?」
「うん。だから、安心してよ。ジェイドが苦しむ必要はもうないよ」
高くも低くもない、気遣うような優しい声がかけられた途端、カタリと音を立ててジェイドが立ち上がり、ルシファの真横に立った。「貴女を友人として抱きしめたいのですが……その姿ではもう、まずいですかねえ」
「まさか」
一同が驚く中、ルシファは静かに立ち上がり、まるで泣いているかのように長身を折り曲げて、小さな女の肩に伏せたジェイドを、慈母のように抱きしめた。「ずっとずっと苦しんでくれて……私を惜しんでくれて、ありがとう」
「──いえ。奇跡と言うものを信じさせてくれて、ありがとうございます。生きていてくれて、本当に良かった、『ルーク』」