<1>
ケセドニアの雑踏の中で、妙に人の視線を吸い寄せている方角があった。だからアッシュも何気なく向いた。それだけのはずだった。そこにいた女の姿に思わず目を剥くと、その女が同じようにアッシュを見つけ、大きな目をさらに見張り、ほっとしたように身体から力を抜いたのがわかった。
高く結い上げた朱金の髪に、白く透明に艶めく卵形の小さな顔。手の込んだアンバーホワイトのドレスには細かい純白の刺繍が施され、原色溢れるケセドニアの雑踏の中で、そこだけに光が当たったように周囲から浮き上がって見える。
ただ一度だけ、べルケンドの街にあるファブレ家の別邸から十五年後の世界に飛んで以来、アッシュの脳裏から離れなくなった女は、左右に真紅の髪の子どもを抱え、道の真ん中で途方にくれたように立っていた。
その美しい顔を憂いに曇らせていたものが、アッシュを認めたとたんに払われ、まさに光を浴びたように輝く。その変化に人々ははっとしたように目を見はり、その変化をもたらしたものを見ようと、女の視線を辿ってアッシュを振り返った。
「アッシュ!」
それだけでも変に目立って迷惑だというのに、その女はさらに人々の好奇心をあおるように、大声で名前を呼ばわった。
あせって人ごみをかき分けるようにそちらに向かうと、しがみつくように立っていた小さな少女が「大きいお兄さま!」と小さく叫んで駆け寄ってこようとしている。あまりに小さいので、人ごみに簡単に流されそうになり、アッシュは周囲の人々をはねのけながら少女に駆け寄ると、両腕を捕らえて引きずり出し、片腕で抱き上げた。
「──っぶねえな! 脇へ寄れ!」
残る片手で女の腕を掴み、人の流れに逆らうように少し歩いて路地裏に入る。女はアッシュの歩調に合わせて高いヒールでつんのめるようになりながら、掴まれていない手でしっかりと見覚えのない少年の手を握ってついてきた。
「ここ、十八年なの? その法衣を着ていて、私を知っているってことは、あの後なのね?」
「そうだが……二〇三三年から来たのか?」
「年、明けたの。もう三四年」ひどく女らしい仕草で髪を整えながら『ルーク』は答えた。「こんな話聞いてないのに。どういうことなんだろ?」
「え?」
『ルーク』が何か呟いたのを聞き咎めてアッシュが聞き返すと、隣にひっそりと立っていた十を少し出たくらいの少年が、なんだか笑いを堪えているようなひどく奇妙な顔をして母親の前に進み出た。
「あなたは、十七歳の父上でいらっしゃいますね」
「──ちょっと、ナイル!」
『ルーク』が慌てて遮ったがもう遅い。アッシュの耳には、『十七歳の父上』という聞き捨てならない台詞がしっかりと聞こえてしまった。
「お前は……?」アッシュは今気付いたように『ルーク』の連れていた少年を見つめた。
アッシュやウィスタリアと同じ、キムラスカ王族特有のピジョンブラッドの髪が、わずかに日焼けした顔を彩る。好奇心と慕わしさの混じった瞳は、濃い翡翠の色にきらめきながらアッシュをまっすぐに見上げていた。その顔はアッシュと比べるとずっと穏やかで優しげなものだが、兄弟と言ってよいほど互いに酷似している。
アッシュに似ていると言うことは、すなわちレプリカであるルークにも似ている、ということだ。だからこの少年が母親である『ルーク』、そしてその被験者双方に似ていたとしてもなんら不思議ではないのだが。
「今度は僕らが時を越えたということなんでしょうか。初めまして……というのも何か変ですが、ナイル・ヴィーラント・フォン・ファブレです。あなたの長男になります」
アッシュはあっけにとられてそれほど自分と年の差のない少年をまじまじと見つめたあと、信じられないという表情で『ルーク』に向き直った。
「お前の夫というのは、俺のことなのか……?」
「──違……っ!」
「そうです」
『ルーク』が慌てて否定するも、少年がすかさず肯定した。「母上……。僕は父上から、時間を超えた話を聞いてるんです。それに、ご覧下さい。僕らはこんなに良く似ています。否定は無意味ですよ」
「う……ん……」
困惑したように俯く『ルーク』をしばらく見つめ、少年の言葉がどうやら嘘ではないらしいとわかると、アッシュは思いも寄らないことに、自分が深く安堵したのがわかった。
あれから、一体どれほど幸運な男が彼女を手に入れたのかとあれこれ思い悩んだアッシュだったが、それが己であるかもしれないという想像はただの一度もしなかった。だが、『レプリカルーク』の夫が自分であるという少年の台詞は、なぜそんなにも当たり前のように己を除外していたのかと、不思議に思うほどすとんと胸に落ちたのだ。
「そう、か……。その髪の色……。なんで気付かなかったんだか……」
「大きいお兄さまは、お父さま?」
ウィスタリアが困惑してアッシュの顔を覗き込む。
「そうだよ、ウィス。この方は、まだお若いころの僕らの父上だ」
「そうなの。そうね、お父さまにも似ていらっしゃるわ」
わかっているのかいないのか、ウィスタリアは嬉しそうにアッシュの首に手を回した。
「とりあえず宿に移動しねえか。もう日も暮れるし、こんなところで立ち話をしていても人の邪魔になるばかりだ」
「ホテルに行くの? おやつもある?」ウィスタリアがかわいらしく小首をかしげる。
「どうかな……。頼んでみよう」
「ウィス。じきに夕食の時間よ」
「ありがとう。……お父さま?」咎める母親の台詞を少女はまるっと聞かないフリをし、おやつを頼んでくれるという甘い父親の方に擦り寄ってくる。
「あ? ……ああ……」
『ルーク』が甘やかさないでくれというように軽く睨んで来るが、子どもの扱いがわからないアッシュが困惑しているのがわかったのか、それ以上は何も言わずに肩をすくめた。
ウィスタリアを抱き上げたまま視線で付いてくるよう促し、踵を返したアッシュだが、大通りに戻る前に人の多さに怖じ気づいたように立ち止まり、ふと気付いて手を差し出した。「こんなところではぐれてもつまらねえ」
『ルーク』は驚いたようにそれを見つめるままになっている。アッシュが焦れてくる前に、少年が母親の手を取って声をかけた。
「母上。行きましょう」
「え。──あ、ええ」
ほっそりとした小さな手が、大きな黒いグローブの手に重ねられた。よく似合っているが、貴族の奥方に相応しいとはいえない華奢な結婚指輪が、一際目を引いた。
ところが間の悪いことはあるもので、アッシュは部屋を取っていた宿の前で、あろうことかこの時代のレプリカ一行と正面から出会ってしまったのである。小さな少女を腕に抱き、少年の手を引いた美しい女の手を取っているアッシュに、マルクトの軍人がなんとも言えない素晴らしい笑顔を見せた。ルークとナタリアは、女を除く──その女もまた赤毛であることは変わりないのだが──三人の髪色が『キムラスカの赫』であることと、アッシュとの容貌の相似性とに気付き、顔を強張らせている。
「おやおやいつの間に。これほど手の早い方だったとは、意外ですねえ」
「ちがっ……」
慌てて否定しそうになって、ふと気付く。
「……わねえのか? もしかして……」
否定するどころか首を捻ってしまったアッシュに親子とジェイドを除く全員がぽかんと口を開け、空気が凍り付いた。
「ジェイドのおじさま!」
「「じぇいどのオジサマ?!」」
小さな少女の嬉しそうな声が、その空気を溶かすように耳に染み入ると同時に、ルークたちは一斉に目を剥いて、飛びすさるようにジェイドから離れ、彼を凝視した。
だっこして、というようにアッシュから身を乗り出して両手を伸ばしている少女を、ジェイドがうろたえながらも反射的に抱き取ると、少女は今度はジェイドの首に腕を回す。
「おじさま、今日はおしゃべりするドラゴンのご本を持ってきて下さった?」
「──はい?」
「ウィ、ウィス……」
ナイル少年は一体どうしたら、というようにハラハラと母親と若い父親に視線を泳がせる。
「ウィス、この方は、ジェイドおじさまとは別の方なの。ご本はまた今度ね」
「そうなの? でも……」
ウィスタリアはジェイドの腕に収まったままで周囲の人々を見回した。「ガイにいさま、ティアお姉ちゃま、へいか……アニーちゃん? みんな別のかた? ミュウちゃんも?」
子どもらしく一人ずつを名指しで確認しているウィスタリアに、『ルーク』が顔を綻ばせる。
「そうよ。ウィスは賢いわねえ」
「……でも、みんなそっくりだわ」
不思議そうに少女は繰り返し、ルークに目を留めるとじっとみつめた。
「あなたは、だあれ? あなたもお父さまなの?」
妹の視線を追ったナイルが、やや呆然とルークを見つめた。
「ルークおじ、いや、ルーク・フォン・ファブレさま……?」
次の瞬間、兄の言葉を聞き取ったウィスタリアが嬉しそうに声をあげた。
「ルークおじさまなの?! お父さまもお母さまも嘘つきだわ、もう会えないっておっしゃったのに……!」
ジェイドの腕から身をよじるように抜け出して身軽に着地すると、少女は実に嬉しそうにルークにぱふりと抱きついた。ルークの肩の上で、ミュウが興奮しきったように跳ねる。
「え、え、なに? なに?」
うろたえまくった視線が助けを求めるようにアッシュに向けられたのに気付き、頭痛をこらえるように額を押さえていたアッシュが疲れたように横目でルークを見た。
「──抱いてやれ。それから、とりあえず中に入ろう」
「説明をして下さる気はあるのですね?」
ジェイドのうさんくさい笑顔に、アッシュは思わず目を逸らしそうになりながら頷いた。「──俺にわかることはな」
「ご主人様が二人ですの!」ミュウがルークの肩から飛び出して来て、『ルーク』にしがみついた。
「ああ、やっぱりお前にはわかるんだ」
『ルーク』は嬉しそうに笑ってミュウの鼻をくすぐり、抱きしめ、愛おしそうに頬ずりする。
「ご主人様はどうして、」
「しーっ、ミュウ。あとでね」
「は、はいですの!」