それは、とてもありふれた奇跡。 02

 アッシュがこの屋敷に来た回数は数えるほどでしかなかったが、屋敷の中の様子も調度も記憶にあるものとはちらほらと変わっている。

 通された客間で、レプリカルークと名乗る女は軽く手を打ち鳴らしてメイドを呼ぶと、お茶の支度と、今年出版された本を数冊持ってくるよう申し付け、アッシュには少し待っているように頼むと部屋を出て行き、小さな薬瓶を持って戻って来た。
「これ。乖離は防いでくれないけど、痛みは治めてくれる……らしい。ジェイドがだいぶ前に作った薬なんだ。舐めてもいいし、噛んでもいいんだって。結局人の完全同位体は見付からなくて臨床試験できてないから、効果は保証出来ないんだけど……」

 女が薬瓶をアッシュに押し付けたとき、軽いノックの音が響いてウィスタリアと壮年の執事らしき男、お茶や軽食、お菓子を乗せたワゴンを押したメイドが入って来た。アッシュの視線の先で、二人の顔が困惑の色を浮かべたのが分かったが、さすがに躾の行き届いた公爵家の者、執事らしき男は瞬時に、メイドはややあってその表情を消した。奥方がどこの馬の骨とも知れぬ男を連れ込んでも、気にしないふりが出来ると言うわけかと、アッシュは皮肉に考えた。
「おかあさま!」
 だが、駆け寄る少女に手を伸ばしながら、女の顔は瞬時に母親の顔に変わった。それをアッシュはひどく落ち着かない気分で見つめる。
「おとうさまは、おにいさまとごいっしょにけんきゅうじょへむかわれたのですって」
 少女は母親の膝に抱き上げてもらいながら、アッシュが気になって仕方ないらしく、母の体の影から様子を窺っている。
「研究所へ?」
「はい奥様。先ほど急な呼び出しがありまして。先に研究所へ顔を出してから、予定通りバチカルに向かわれるということで、ナイル様もお連れでおでかけになりました」
 他の誰も気付かなかっただろうが、アッシュには女が思わずこぼしたとおぼしき「ちっ、まじかよ……」という呟きが聞こえた。
 だが女は、夫の見送りをしなかった自分の不明を恥じる言葉のみをもらし、膝の上のウィスタリアをそっと執事の方へ押しやりながら人払いを命じた。

 客間に二人になると、女はアッシュに本を数冊押しやってから、メイドが入れて行ってくれたお茶のカップとソーサーをアッシュの前に起き、何も聞かずに砂糖を二杯と、温めたミルクを注いだ。
 アッシュはその間すべての本の奥付を確認してみた。発行年月日はバラバラだが、どの日付も未来──自分から見てだが──であることには変わりがない。
 眉間を押さえてしばらくの間考え込んでいたが、心を落ち着かせる果物のようなお茶の香りに惹かれてそれを一口含み、ちょっと驚いてまじまじとカップを見つめた。
「お前好みのお茶だろ。……いつもは砂糖一杯のみ、でも今は砂糖二杯にミルクの気分で合ってた?」
「……もう一度聞くが、何者だ」
「……今はこんななりだから別の名前を名乗ってるけど、わ……おれはルークだよ、ルーク・フォン・ファブレ。お前の……えっと……う、正確には違うのか……この時代の? 被験者アッシュのレプリカ、ルークだ」
 信じられないだろうけど、と溜め息をついて答えた『ルーク』に、アッシュはうろんな目を向ける。
「俺は、俺のレプリカを知っている。俺は男で、当然俺の情報から作られたレプリカも同様だ。……それにこんなものはいくらでも偽造が出来る」
 本にちらりと視線を向けるアッシュに、『ルーク』は言った。「お前があらかじめ訪ねてくるって分かってれば偽造だってできるだろうけどさ。何の為にそんなことする必要があるわけ」
 その台詞にはアッシュもひるまずにはいられない。確かに、自分がここに転がり込んだのは偶然だったからだ。自分の体が今どういう状態に在るのか調べさせようと思ったのも思いつきにすぎない。
「最初に言っておくけど、お前は死んだりしないから。それだけは安心しててくれていいよ」
「……何故わかる」
「お前、ND2018年から来たアッシュだよね? 今はちょうど15年後のND2033年、お前は確かに生きて、存在してるもん」
 ばかな、と口元をゆがめるアッシュに、『ルーク』はへにゃりと眉を落とした。
「ローレライを解放したあと、大爆発は一旦起こるんだけど……まあ、色々あって、ローレライが戻してくれた、っていうか。そのとき二度と大爆発が起こらないよう、おれは女の身体に変えられて戻って来たってわけなんだけど……。うう、我ながら嘘くさい……。ア、旦那様が居れば、上手く説明してくれるのにな」
 何故この女の亭主なら上手い説明が出来るのかアッシュには分からなかったが、『大爆発』を知っていて、なおかつ信じる人もそう多くない『ローレライ』の存在をあたりまえのように口にするこの女が、何かを知っているというのは間違いなさそうだった。
「大爆発について俺がなにか誤解をしているとさっき言っていたな」
「え、あ、うん。大爆発っていうのは、被験者が抜き取られたレプリカ情報を回収するために起こす現象のことなんだよ。被験者が乖離してレプリカの体に入り、レプリカ情報を回収して存在を上書きする。……乗っ取るってことだ。レプリカの自我は無くなり、記憶だけが残る」
「なんだと……?」
 信じられない、というように呻いたアッシュに、『ルーク』は言った。
「取り敢えず、元の時代に戻ったら、ジェイドからもう一度話しを聞いてくれよ。私、おれの話に嘘はないって証明してくれるはずだ」
『ルーク』は笑った。
「……おれだって女になるなんて決心できずに、ローレライを解放してから二年も悩んだんだ、音譜帯でずーっとさ。なかなか皆のところに帰る決意がつかなかった。けど、きっとお前のレプリカも最後には同じ決断をするはずだからさ」
「……本当に、お前はあの屑なのか……?」
「屑!! 懐かしいな、その呼ばれ方」
『ルーク』はひとしきり笑い、滲んだ涙を拭って言った。
「おれ、今はすごい幸せなんだよ。二人子どももいるんだ。上の子は男の子で、下の子は……さっき会ったろ。旦那様も優しいしさ。毎日が楽しくて幸せで、お前の時代のおれからはちょっと信じられないくらい。……けど、昔は好きな女の子もいた。決心して女になって戻ってはきたけど、なかなか心と体が折り合ってくれなくて、後悔したり発狂しそうになったり。当時は結構ぼろぼろだった。お前、戻ったらさ、ちょっとは可哀想に思ってくれよな、おれのこと」
「ここがお前の言う通り未来の世界だとして、俺は過去の世界へ帰ることが出来るのか」
「このND2033年の世界にアッシュがいるんだもん、戻れたはずだよ」
 アッシュはしばらく事もなげに答えた『ルーク』の顔を改めて見つめた。 
 ND2033年というのが本当ならば、自分もレプリカも30歳を越している訳だが、とてもそんな歳には見えない。アッシュが知る己のレプリカの顔に一度も見出したことのない、幸福そうで活き活きと輝く美しい瞳だった。
 あのレプリカがこのような表情を浮かべたら、どんな感じになるのだろう? ふっとそんな疑問が胸をよぎり、消えた。

「……世話になった」アッシュは立ち上がり、『ルーク』に固い一礼をした。
「もう行っちゃうのかー。残念」
 歩き出すアッシュの横を、『ルーク』は残念そうなつぶやきを漏らして歩き出した。ちらりと横を窺うと、あのレプリカの騒々しい歩き方とは似ても似つかない淑女として完璧な裾さばきで、余計に首を傾げるはめになった。

 庭に出ると、一人で遊んでいたらしいウィスタリアが嬉しそうに駆け寄って来る。
「ウィス、お兄様がお帰りになるから、さようならをおっしゃい」
「はい。さようならおにいさま。……こんどいらしたら、ごいっしょにあそんでくださる?」
 小さな少女を見下ろして戸惑っているアッシュの肩を、ウィスタリアから見えないように『ルーク』がどついてきた。「せっかくだから、抱いてやって」
 母親の言葉を聞いて、ん、と言うようにウィスタリアが両手を上げたので、ほとんど反射的に抱き上げてやってから、
「約束しよう。……今度会えたら、一緒に遊ぼう」
「いっぱいあそんでくださる?」
「ああ」
「おやくそくですよ、おにいさま」
 とウィスタリアは笑い、桜色の小さな唇をアッシュの頬にちゅ、とくっつけた。
「…………?!」
「良かったな、アッシュ」
 耳元で笑い含みに『ルーク』が囁き、ウィスタリアを受け取って下に降ろしてやる。軽く背を押してやると、ウィスタリアはまたぬいぐるみを抱えたまま駆け出していってしまった。何が嬉しいのか、時折スキップなど混じっている。
「アッシュ、塀を越えて来たのか?」
 ころころと言葉遣いの変わる『ルーク』に戸惑いながらアッシュは頷いた。
「それなら、それを逆に辿れば戻れるのかも」
 わかった、とアッシュが踵を返すより早く、『ルーク』がアッシュの顔を捕え、くっと下に向けさせると、唇を押し当ててきた。
 何が起こったのか分からず、頭が真っ白になっている一瞬の隙を縫って、するりと甘やかな舌が入り込んでくる。頭の芯がくらくらするような甘い匂いに力も入らず、押しのけることさえ出来ない。
『ルーク』の舌はアッシュの口内を一巡した後、唇をゆっくり食むようにして離れた。
「な、な、な、な……!」
「おれからも激励! それから薬、忘れてくなよな」と『ルーク』は最後にアッシュの唇を人差し指でぷにぷに押してから、薬瓶を握らせた。
「今は皆が辛い時だけど、未来には自由と幸せが溢れてる。頑張ってくれよな。あ、おれにもたまには優しくしてやって」
 とんでもないことを仕出かしてくれたわりに、『ルーク』の表情は静謐で、真摯な労りに満ちていたので、アッシュはすぐに落ち着きを取り戻し、なんだか分からないけど得をしたと考えることにしようと思った。
 ふわりと塀の上に飛び乗り、外に飛び降りる時に一度だけ振り返った。女の泣くのを堪えたような顔が、見覚えのある面影と重なった。
(──レプリカ!)
 瞬間、体中の音素が外側に膨れ上がるような感覚が再び襲い、すぐに収束した。


名前しか出て来なかった息子『ナイル』は『ナイルブルー』から。ブルーとついてても、緑っぽいです。
ルークの目の色はこんな緑でもいいかな、って感じの色です。(と思ったけど、今ちょっと気になって調べてみたら、モニタで見ると濃い水色に緑を混ぜたように見えました。目の色はちょっと無しですね)