それは、とてもありふれた奇跡。 01

 ズキッ……

 突然の頭の痛みに立っていることも出来ず、アッシュは思わず側の塀に寄りかかり、ずるずると膝をついた。体を引き搾られるような激しい痛みに、目が眩む。
(くそっ、だんだん痛みが酷くなってやがる……!)
 奥歯を食いしばって痛みをやりすごそうとしたが、収まらず、思わず唸り声がもれた。

 もう本当に時間が残されていないのかも知れなかった。この発作は起こる度に痛みを強くする。あとどれくらいの時間が残されているのか、その出来る限り正確な時間が知りたくて、ベルケンドまで来たついでにスピノザを訪ねようと思っていたところだった。
(ここは……ファブレ家の別邸か。今なら皆バチカルだから、たいした人数はいないはず……)
 この姿が幸いして、見とがめられても大事にはならない、そう判断して、アッシュはファブレ邸に忍び込んだ。積まれた煉瓦の上にブロンズの柵があり、そこを掴むと腕の力で一気に身体を跳ね上げる。自慢にもなりはしないが、職業柄こういった所業には慣れていた。貴族の別邸であろうが、所詮ただの民家、内部に侵入することなど容易いはずだった。
 だがちょうど塀を乗り越える段になって、突然体がぶわりと乖離しそうな感覚に襲われた。どこに足を付け、何を掴んでいるのか。己と他を隔てる境界が曖昧になる。受け身を取ることさえ出来ずに転がり落ち、植え込みの影に倒れたまま身体を丸め、ばくばくと暴れ回る心臓を押さえ、大きく深呼吸を繰り返した時。

「……あなたは、だあれ」

 真後ろから突然発せられた声に、アッシュは仰天して跳ね起きた。汗に濡れ、乱れた髪の帳の向こうに、小さな少女が立っていた。
 いくら発作の最中とはいえ、人の接近に全く気付かなかったとは……。ほんの少し、隠れて休ませてもらおうと思っていたが、家人に気付かれたからにはすぐに出て行かなければ。
 そう思いつつも、アッシュは少女から目が離せなかった。

 歳の頃はまだ五歳に満たないだろう。髪は真紅。アッシュの色と寸分変わらないピジョンブラッドの髪は、つやつやとまっすぐにミルクの色をした小さな顔を縁取っていた。瞳は琅玕ろうかん翡翠のように、どこまでも澄んだ、無垢な光にキラキラと輝いている。
(王族か……? 誰だ……?)
 こんな赤毛はキムラスカの王族にしか存在しない。瞳は……まあ、王族にしては明るすぎるような気がするが、アッシュは同じような色の瞳を持ったキムラスカ王族に一人心当たりがあった。
(あいつの場合は、単なる劣化かも知れねえが……)
 ここがファブレ家別邸であることを考えれば。
(……まさか、父上の隠し子か)

「おおきいおにいさま」
 少女は居心地が悪くなるほどに澄んだ瞳でじっとアッシュを見つめて何か考え込んでいたが、やがて得心がいったというようにそう呟いてから、
「おにいさまは、ごびょうきなの?」
 と、手に自分の身体ほどもありそうなブウサギのぬいぐるみを抱いたまま、心配そうに言った。
「……いや、病気ではない。少し休めばすぐ治る」

 驚いたことで気が逸れてしまったのが、頭の痛みが急速に治まっていた。が、見付かってしまった以上長居は無用だろう。

立ち上がろうとしたアッシュの手を、しかし少女がはっしと捕まえた。ブウサギの巨大なぬいぐるみが転がり落ちた。
「だめっ!! おうちにきて。おかあさまがいらっしゃる。おかあさまはおけがをなおせるのよ」
「これは怪我じゃねえんだ。ありがたいが……」
 小さな少女の腕を振り払うのはさすがに躊躇われて、アッシュはどうしたもんかと首を傾げる。これまでこんな稚い子どもを前にしたことがなかったので、取り扱いがよく分からない。

 逡巡していると、
「ウィス! ウィスタリア、どこなの」
 と少女の名らしきを呼ばわりながら女の声が近づいてきた。やべえ、と今度こそ少女の腕を振りほどこうとしたその時、子どもがそんなアッシュの様子に頓着せずに大きな声で返事を返した。

「おかあさま」
「っと、こんな隅っこで何をして……」
 アッシュの潜んだ植え込みを、庭を歩く人の目に触れぬよう幹で隠してくれていた大きなミモザの影から、少女の母親らしい女がひょいと顔をのぞかせた。

 ばっちりと目が合ってしまう。
 少女と同じ色合いの瞳が、まんまるに見開かれた。
 ほとんど同時にアッシュも目を見開いていた。

 女は、シュザンヌに面差しが良く似ていた。もちろんだいぶ若くはあったのだが……。シュザンヌも息子の贔屓目でなくかなり美しい人ではあるのだが、この女と同じ年頃まで時を巻き戻したとしても、これほどであったかどうか。
 人前に女性が出るのに、礼を失することのない程度の薄化粧ではあったが、この生気に満ちた、輝くような美しさを十分に引き立てている。少なくともアッシュはこれまでに、これほど目を惹かれる女性には出会ったことがなかった。

 だがそれほどの美貌も、ある事実の前では付加価値にすぎない。
 その女もキムラスカ王族の色を纏っているという事実の前には──。

 アッシュも幼い頃に家を出たきりなので、王族のすべてと面識があるわけではない。頭の中で王統譜をめくり、年頃の合致する名前を必死で探っていると、女が信じられない、とつぶやいた。

「アッシュ……? もしかして、アッシュだったり……する?」
「……?! その名前を知るものは極一部のはずだが……あなたは誰だ……?」

 奇しくも最初にウィスタリアと呼ばれた少女が発したのと同じ問いを発して、アッシュはよろよろと立ち上がった。
 その様子を見て女は即座に顔を引き締めた。
「ウィス、お父様にお客様だとお知らせしてきてちょうだい」
「はい、おかあさま」

 少女はアッシュを気にしながらも、母親の言いつけに素直に従い、ぬいぐるみを拾うと駆け出していった。

「あの話はほんとだったわけ? 信じらんない……一体どうしてこんなことが? いや、そんなこと言ってる場合じゃない、アッシュ、どこか具合が……? っと、そっか。もう音素乖離が始まってるんだな? スピノザに話を聞く前? 後?」
 少女がいなくなると、女の口調ががらりと変わった。シュザンヌに似た美貌の女の、高くも低くもない透明な声で語られるのには違和感を覚える口調だった。
「な……? 何故それを」
「本人から聞いたから」女は苦笑してアッシュに肩を貸そうとしたが、女性に肩は借りれないとアッシュがそれを手で制したので、持て余した手を一瞬だけわきわきとさせた。
「スピノザに大爆発の話を聞いてる?」
「……聞いたが」
「それ、誤解だから」
 女は言い、手で屋敷を示した。
「取り敢えず、少し休んで行ってよ。多分、お前がここにいるのは少し休んでけってことなんだと思うんだ。お前、このころ一人で走りっぱなしだったろ」
「お前、誰だ? 何故俺を知ってる?」
 うーん、と女は軽く腕組みをして天を見上げた。
「なんで、ってそりゃ」
 女は少しの間ためらっていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「わた……おれが、レプリカルークだからさ」

 アッシュは無言で目の前の女をじっと見つめた。言われて良く良く見れば、面影がないわけではないような気はする。眉が整えられ細くなっていたり、鼻筋や顎が華奢になっていたり、唇が艶やかに紅く、ふっくらしていることに目を瞑れば。
 髪の色は確かにあのレプリカの色だ。綺麗に纏められて複雑に結われているが、毛先に行くに従って金色に変じる特徴のある色だった。

 だが。

 ふっと視線を落とし、彼のレプリカが持ち得るはずのないものを見下ろす。
「な……なんだよ」
「……俺のレプリカにそんなメロンがくっ付いていたとは。何度か会ったが全く気付かなかったな」
「……最初に突っ込むところがそこなの……? この頃のアッシュは堅物だったとばかり思ってたのに、やっぱアッシュはアッシュってことかあ。それにさすが完全同位体、例えまで同じだったとは! っていうか、信じてないね」
 目の前の女は呆れたような笑い出したいような、何とも微妙な表情を見せて、しょうがないなあと言ったように腰に手を当てた。
「証拠、って言われてもちょっと困るんだけど。あ、本の奥付とかどうかな? まあ、実際に会えば分かるか……。とにかく、中へ。お前の知らないこと、色々話してやれると思うからさ」


 色の名前の付いているキャラクターがちらちらいるようなので、捏造家族も色の名前を付けてみました。
『ウィスタリア』は薄紫っぽい色です。