それは、とてもありふれた奇跡。 03

 月が美しい晩だった。

 眠るにはまだ早すぎる時間だったので、アッシュは宿の窓を開け放ち、窓辺に移動させた椅子に座って外を見ていた。風が髪をなぶるに任せ、無意識に手の中の華奢なガラス瓶を弄びながら。
 グランコクマ中に張り巡らされた運河の澄んだ水に月が映り、ゆらゆらと揺れる水面の影が白で統一された家々の壁に反射して、複雑な陰影を付けているのを飽くこと無く眺める。

 ふと視界の隅に目を引く銀朱が映り、目をやると彼のレプリカと仲間達がぞろぞろと歩いて行くのが見えた。

 一月ほど前に、アッシュは不思議な体験をした。ルークの姿を見るのは、それから初めてのことだ。

 なんともなしに眺めていると、橋の上でルークが立ち止まり、運河の側に立ち並ぶ壁に映るゆらめきをじっとみていた。ティアとなにやら言葉を交わしたようだが、しばらくして橋の上でぼんやりしている彼を置いて皆立ち去ってしまった。
 水面の影をアッシュと同じように飽くこと無く眺めている姿を見つめて、やはり自分たちは完全同位体なのだという事実が改めて胸に落ちたが、少なくともND2033までは生存していると聞いた今、前ほどの焦燥を感じなかった。

 あの後、アッシュは衝動のままに正面から屋敷を訪ねたのだ。
 使用人達は『ルーク様』が来られたのだとばかりに思っていて歓待してくれたがその愚痴とも言えぬ話を聞いていると、この屋敷にはこの数年当主であるクリムゾン以外にはルークが仲間達を連れて時折訪れるくらいのようだった。
『ルーク様』がいらっしゃるようになって、使用人達の生活にも張りが出て来たというこの家の若い従僕は、ラムダスが領主とともにバチカルへ行っているため、今は代理で自分がここの一切を取り仕切っているのだと語った。
 それを聞くまでまるで忘れていたことに気付いたが、確かにファブレ家の執事はラムダス一人のはずで、少し前に会った見覚えのない男であるはずがなかったし、屋敷の内装は幼い頃訪れた時と全く変わりがなかった。
 人はともかく、この短時間で内装をすべて取り替えることなど出来るはずもなく、そうすべき理由もまた無いように思われた。

 まるで頭の痛みに気を失っている最中に見た白昼夢のようだった。

 だが、最後に『ルーク』に握らされた薬瓶だけが夢ではなかった証拠として手元に残っている。
 手の中で転がしていたガラス瓶を目の前まで持ち上げ、軽く振ると、中に入っている白い錠剤がかさこそとかすれた音をたてた。

 細かな細工の施された美しいガラス瓶の色は、どこまでも透明なコバルトグリーン。
 グランコクマの前に滞在したケセドニアの露天で通りすがりに目を惹かれ、求めたものだった。本当は香水瓶だということだが、中には『ルーク』から貰った薬の半分ほどが移してある。
 この一月の間に一度、激しい頭痛に見舞われたが、この薬は劇的な効果を示してくれた。痛みのあまりにすぐに噛み砕いてしまったが、爽やかな甘みが口内に染みてくるにつれ、頭痛は急速に遠のいていった。この薬らしからぬ味は、開発者のジェイド・カーティスが子どもっぽいレプリカの味覚を基準に作ったからなのだろうか。
 スピノザにもジェイドにもまだ大爆発の真相を聞いてはいないのだが、なんとなくアッシュは疑う気持ちをすでに失っていた。

 しばらくして、ティアだけが戻って来て、ルークになにか紙に包まれた食べ物らしきものを手渡した。そのまま二人で並んで立ち、何か話しながら時折手の中のものをかじったりしている。
 未来のレプリカが言っていた『好きだった女の子』というのが彼女なのだろうか? ルークの視線はティアから離れることなく、大げさな手振り身振りで何か一生懸命に話していて、ティアがそれに合わせて楽しそうに頷いたり手を叩いたりしている。離れていても二人の笑い声が聞こえてくるようだった。

 俺なら、とアッシュは思った。
 俺がもし、生き残る為には女として生きて行くしかないと言われたら。
 ナタリアを諦めなければならないと言われたら。
 俺もレプリカと同じく男と結婚し、子どもを産んだりする人生を選択するのだろうか?

(ありえねえ)
 ボボボボボと体中に浮き出た鳥肌が、その選択を即座に否定した。
(だが、あいつも、二年も決意が出来ず、戻って来ても後悔して発狂しそうになったと言っていた)
 それがどれほどの苦しみであったのか、想像することは出来ても本当のところは分からない。今はとても幸せだと言っていたのが、救いと言えば救いであったろう。真似をされないようにだろう、娘の前では完璧な母として話していたが、自分の前では少年のように無邪気に話していた。女として暮らし始めて経つからか、男のように話していても時折女らしさが覗き、完璧な淑女として振る舞いながらもとっさに舌打ちが漏れたりする。その歪な姿が逆に不思議な魅力として映っていた。
(過去はどうあれ、卑屈さなど微塵もまとわずまっすぐ前を向いていた)
 自分がレプリカに理不尽に抱いた憎しみは、もう随分前に無くなっている。心にわだかまっていた最後の澱みも、この不思議な出来事の前で霧散してしまった。自分もそろそろ本気で前を向かねばならない時が来たのかもしれない。

 そういえば、結局会いそびれた『ルーク』の亭主というのはどんな人物なのだろう。研究所と言っていたから研究者の中の一人なのだろうか。
 ベルケンドに元・男のレプリカを妻にしそうな男がいただろうかと記憶を巡らせて、ふと嫌な予感がした。
(まさか、あの眼鏡じゃねえだろうな……)
 だが研究所から呼び出されたと言っていたし、作ったと言う薬も貰った。なによりその亭主がいれば、アッシュが未来にいるということが証明できるとかなんとか言っていたような気がする。とすると、アッシュ自身もその人物を知っているという可能性があった。
(……眼鏡のような気がする)
 あいつは今いくつなんだろうかとアッシュは思った。見た目に反して結構年上なのだとは当のレプリカが話していたような気もする。

 不穏なことを考えつつなおも二人を見ていると、ガイが走って来て何事かを話した。するとティアが食べかけの串をガイに押し付けて、皆が消えて行った方向へ走り出し、橋の上にはルークとガイだけが残された。
(ガイかも知れねえが……)
 良く良く考えるとこの二人以外の誰かと言う可能性は低いように思える。どちらかがレプリカを妻に娶り、生まれた子どもを慈しんで育てているというのだろうか? 抱きしめたり、キスをしたり……も? 

『ルーク』と交わしたキス。

 アッシュはふとした瞬間に、それを何度も思い出した。幼い頃ナタリアと交わしたキスとはまるで違う、親愛の気持ちの込められた、だが性の匂いを全く孕んでいないわけでもない、蜜よりも甘いそれを。
『ルーク』は全く躊躇せずに唇を押し付けてきた。同じ庭に娘もいたわけで、もしも見られていたら、亭主に話しでもしたらどうするつもりなのだろうと人事ながら心配になる。もしかしたら未来の自分たちはキスを交わすのが当たり前のような、今とは比べ物にならないくらい家族的な関係を築いているのだろうか? そう、兄弟のような? 兄弟のキスで舌を入れたりはしないように思うが、兄弟のいないアッシュは絶対ないと断じる根拠も持ち合わせていない。
 だが、その想像は何故かアッシュの気分を沈ませた。

 目を閉じて、未来のレプリカを思い起こしてみる。見る人の気持ちを和ませる優しげな微笑み、低くも高くもない、澄んだ声。歳を感じさせないむき身のたまごのような白い肌、その顔は男なら大抵の者が振り返りそうな美しく繊細な造り。柔らかく、甘い唇。白を基調に金糸で縫い取りされた細身のドレスがとても似合っていた。
(……胸もでかかった)
 少なくとも「無い訳ではない」としか言えないナタリアのそれとは、同じものと呼ぶのも恐れ多いくらいだった。アッシュも男なので、残念ながら女性の体に期待すべきところは世の男性とあまり変わらない。
 少なくとも彼のレプリカは、理想の女性像をかなりの高水準でクリアしていたように思う。そうすると、レプリカを妻にした男はかなり幸運なやつなのかも知れなかった。
 再び橋の辺りに目をやると、ルークがガイの腰に軽いタックルをかけたところだった。ガイがよろけてルークの頭をぐしゃぐしゃとかき回す。相変わらず子どものようにじゃれている二人をみて不快感がこみ上げてきた。
(いくら幼なじみったって、ガイも男なんだ。なんだってそう無防備に男の腰にしがみついていやがる!)
 理不尽極まりない憤りに本人はそうと気付かぬまま、アッシュはイライラと爪を噛んだ。
 このまま眺めていると不快感が増すばかりと判断して窓を閉じ、勢い良くベッドに座る。しばらくの間手の中でガラス瓶をくるくると回しながら怒りが収まるのを待っていたが、ふと我に返り、パタリと身を投げ出した。
「別に、俺が怒るようなことじゃねえだろ……」
 それとも、あれか。日頃放ったらかしていたオモチャでも取られそうになると惜しくなるという例のアレか。
「はっ。ガキか、俺は」
 ガラス瓶を握りしめた腕で両目を覆って自嘲の笑みをもらす。そのまま窓をちらりと見やり、目を閉じた。
(レプリカ。聞こえるか)
(つ……っ、アッシュか……? う、うん、聞こえる)
(窓からお前の姿が見えた。そこの宿の、二階の右端にいる。一人で来い)
(命令形かよ……。分かった、すぐ行く)
 しばらくすると、剣士らしからぬ無防備な足音が近づいてきて、部屋の扉が控えめに叩かれた。
 入れと告げると、ルークがやや不満そうな顔で現れた。
「こんな近くにいるなら回線使わずに呼べばいいじゃん。少し大声出せば聞こえる距離だろ」
「他人の迷惑だ」
「おれも迷惑だっつーの! まだ真夜中じゃねーんだし! 大体お前はいいかも知れないけど、ほんと辛いんだぜ!」
 ひとしきり文句を垂れたあと、ルークは寝転がったまま片腕で顔を覆っている被験者に気付き、口を噤んでおずおずと近寄ってきた。
「アッシュ、どっか具合が悪いのか」
「いや、今は平気だ。……受け取れ」
「今はって……」問いただそうとした言葉をルークは慌てて飲み込み、手を伸ばして放り投げられたガラス瓶を受け止めた。「……薬?」
「音素乖離の痛みを消してくれる薬だ。効果は折り紙付き。水はいらねえ、舐めるか、噛み砕けばいいそうだ」
「大爆発、か。……アッシュには痛みがあるのか? それならこれはアッシュが持っていた方がいい。おれには今のとこ痛みはねえから」
 ことんとベッドサイドのテーブルに小瓶を置いて、ルークは寝転がるアッシュの側に腰掛けた。
「……ごめん、アッシュ」
「何を謝る」
「俺の体、アッシュの体になるはずの体なのに、なんかあんまり持たねえ感じなんだ」
 奇しくも、『ルーク』の大爆発についての説明が、ジェイドに確認するまでもなくこのような形で証明されることになった。
「気にすることはねえ。……薬は持って行け。今後体がどう変わっていくかなんて分からねえだろ」
 最も、レプリカにも効き目があるかどうかは分からねえが、とアッシュは唇を曲げたが、ルークはそれを言葉通りの皮肉とは取らなかったようで、ありがとうと素直に礼を言って小瓶を摘まみ上げた。
「凄い綺麗な瓶だな。これ、どうしたんだ?」
「貰った」
 言ってから、アッシュは慌てて起き上がり言葉を継いだ。「知人から貰った薬だが、眼鏡には見せるな」
「ジェイドに? なんで?」
「なんでもだ。今はまだ拙い。……と思う」
「ふうん? ……分かった。苦いのか?」
「いや、飴みたいな味だった」
「そうなのか。ちょっと楽しみだな」
「菓子じゃねえんだぞ」と苦笑し、アッシュはルークの額を軽く小突いた。するとルークは大げさによろめいて見せてから、子どものように笑った。険のないやり取りが嬉しかったのかも知れない。
 もう憎んでいないのに、認めているのに、長いことレプリカとどう接すればいいのか分からなかった。俺と二人で話していて、悲しげな顔をしないのは、しかも笑いもしたのは初めてかも知れないと気付くと、アッシュは素直に嬉しく感じた。
「用はそれだけだ。もう戻れ。遅いとお前の大勢の保護者が心配するだろうからな」
「保護者じゃねーっつーの!」
 ルークは顔を赤くして立ち上がった。そのむくれた顔もアッシュに見せるのは初めてのものだ。今日はルークの表情がころころと良く変わる。
「じゃ、帰る。ありがとな、アッシュ!」
「ああ」
 全開の笑顔で扉を開いてから、ふとルークはアッシュにガラス瓶を掲げて見せた。「このガラスの色、アッシュの目の色みてーだな!」
 来た時と同じ、騒々しい足音を立てて階段を降りて行く音が消えるまで、アッシュはルークが出て行った扉をじっと見つめた。
 やがて、参ったなというように前髪をかき上げ、そのまま額を押さえてふ、と笑みを漏らした。
「……それは、お前の目の色だろう……」

 誰も聞くことの無い呟きが、そっと静かな部屋に落ちて、消えた。


『幸運な男』が自分かもとはちっとも考えつかないアッシュです。タイムスリップ前はナタリア6割レプリカ3割なアッシュでしたが、徐々にレプリカ10割にと変わって行き、ウィスタリアとの約束もきっちり守るんだろうと思います。