【11】


「き、消えた……」
「よく頑張った、ルーク」
 凄まじい疲労と脱力感に、へなへなと頽れるルークをヴァンが支え、ゆっくりと甲板に座らせてくれる。ほんの少しの時間であったのに、背筋や胸を汗が流れてゆく感触が気持ち悪いほど汗みずくになっていた。
「今の、いったい……」
「超振動が発動したのだろう」
「超振動? だっておれ……師匠が……?」
 タタル渓谷へ飛ばされたときにはティアがいた。今回はその兄であるヴァンと超振動を起こしてしまったのかと見上げると、ヴァンは苦笑して頭を振った。
「いや、私ではない。今、お前は単独で超振動を起こしたのだ」
「は……はあ? 単独でって……だって……」
「お前は、世界で──ただ一人、単独で超振動を起こすことが出来る。それが、七年間も屋敷で飼い殺されていた理由だ。キムラスカは、お前が一度誘拐されたことで、貴重な力を失うことを恐れたのだろう」

 超振動とはあらゆる物質を破壊し、再構成する力のこと。第七音素が干渉し合って起こる力で、通常は第七音譜術士が二人以上いて初めて発生する、そのはずだ。単独で超振動を起こすことができるなど聞いたこともないし、これまでに読んだ本にもそんな記述などなかったように思う。

 ルークはどこか苦々しげなヴァンの顔を呆然と見上げることしかできなかった。
 軟禁の理由は、ルークが性倒錯者の餌食になり、家名に傷を付けたからだ。そんな噂が蔓延る社交界にルークを晒して、これ以上好奇の視線を浴びることを避けるためだ。ずっとそう思ってきた。ルークにはどうしようもなかったことだったとはいえ、家名に傷を付けた、だから軟禁は仕方ないこと──そう思ったし、きっと自分を世間と言うものから護るためでもあるのだと自分自身に言い聞かせてきた。
 でもそうではなかったと言うのか?

「今はそのような有様だが、訓練すれば自在に扱えるようになるだろう。それは戦争になったときキムラスカを有利に導く。お前の父も、国王もそれを知っている。だからマルクトもお前を欲したのだ」
 ヴァンのその言葉に、すうっと波立っていた心が鎮まった。動揺し、混乱していた脳の芯が、冷静さを取り戻すのがわかる。
 ヴァンはあの誘拐が何のためだったか、まことしやかに語られていることを知らないのか。表向きに語られている理由をそのまま信じているのか。
「陵辱された次期国王」「男の子なのに穢されて」ひそひそと語られていたそんな噂が、胸の奥にひやりと沈み込む。

 単独で超振動を起こせる唯一の人間、そんな話を聞いた今、ルークは誘拐がマルクトの手によって行われたことだなどとますます信じる気を失った。本当にマルクトが行ったことならば、そんな貴重なものをキムラスカの廃墟などに転がしておくものか。ルークが誘拐犯ならば、キムラスカが簡単に手を出すことが出来ないグランコクマの中枢の奥深くにさっさと隠してしまっただろう。
「……いつ起こるかも知れない戦争のために、一生飼い殺しにされるっていうのか……?」

 ──兵器として。

 軟禁場所が屋敷から王城に変わるだけ、そんなふうに感じていた勘はやはり間違いではなかったようだ。
 目頭がかっと熱くなり、鼻の奥がつんと痛む。なのに涙が滲むどころか、くくっと喉から苦い笑いが漏れた。
「……ルーク、マルクトから和平の申し入れがあったこの機会に、なんとか戦争を回避するのだ。そしてその功を内外に知らしめる。そうなれば、平和をもたらした英雄としてお前の地位は確立されよう。少なくとも、理不尽な軟禁からは解放されよう」
「英雄……ね」
 ルークはますます苦笑し、頭を振った。
 屋敷でただ腐っていたころの自分なら、そんなものに憧れたのかもしれない。しかし、アッシュと共に様々なことを学び、屋敷を飛び出して世間というものを知った今になると、そんな言葉がどこか空しい、からっぽの称号なのだと感じる。英雄とは、私利私欲を捨てて、世界のため、他人のために尽くしたものがいつの間にかそう呼ばれるようになるもので、始めから目指してなるものではないのだ。
「残念だけど師匠。英雄なんておれには荷が重い称号だよ。頑張って働いて、得られる糧だけで養える家族を持ってさ……贅沢なんかできなくていい、シャツ一枚買うのも悩むような、そんな生活でいい。おれの力で手に入れたんだって胸を張れるだけのものに囲まれて生きていけたら、それだけでおれは──」

 幼いころから一流のものに囲まれ、美食の限りを尽くした贅沢な生活をさせてもらってきた。それに不満があるわけではない。屋敷で着ていたシャツは、旅に出てから買った古いシャツより着心地が良かったし、蚤やダニだらけの固いベッドで体が痛くなったり痒くなったりすることもない。まずいものより美味しいもののほうが嬉しいに決まっている。
 それでもルークが本当に手に入れたいものは、そんな生活では決して手に入らないささやかなものなのだ。

 くしゃり、と頭がかき回された。
「師匠……」
「お前らしいことだ」ヴァンは、どこか痛みを堪えるように歪んだ顔で笑んだ。「キムラスカが、お前のその思いに応えてくれる国であれば良いのだが……」
 それでも王になれば、ある程度の自由もあるはず。それに、立場や年齢が変われば、望みも変わってくるものかもしれない。真の望みは叶わなくとも、そのとき、そのとき、全力で生きていくことで充足感を得ることもきっとあるだろう。

 甲板に座り込んだまま、二人無言で髪を風に嬲らせていると、ボーッっと重く汽笛の音が響いた。
「ケセドニアに着いたようだな。ここからバチカルまでは……もう乗り換えもない」
「──師匠、おれは大丈夫だぜ? 父上や伯父上のもくろみがどうであれ……戦争なんかにむざむざ利用される気なんかねえ。だって、人とは違う力がおれに与えられたっていうなら、それはそんなもんじゃなく、もっとさ──良いことに使えってことだろ」
 低い笑い声が聞こえ、ルークの髪を大きな手がくしゃくしゃとかき回した。

 ケセドニアは町の中に国境が設けられた少し変わった町だ。とはいえ町の住人は買い物などで気軽に行き来するし、このような状態になる前に区分けされた道や建物はそのままだから、国境をまたいでいる通りや店もある。旅券に記された姓名もあるが、何よりヴァンの顔があるため、さらに簡単なチェックで国境を抜けると、一行はまっすぐにキムラスカの領事館へ向かった。

「……なんか騒がしくね?」
 実際に騒々しいわけではないのだが、領事館の中はどこか職員が浮き足立っているようなざわめいた感じがする。軍人がちらほらと出入りしているせいかもしれない。
「なにかあったのか?」
「その髪は……! し、失礼しましたルーク様ですね? お待ちしておりました!」
 頬を染めてがたがたと立ち上がる女性職員を手を振って宥め、ルークは視線を軍人に向けて再度なにかあったのかと問うた。
「オアシス近くの砂漠で遺体が発見されたんです。音素振動数から、キムラスカの者とわかりましたので……」
「ドライアップか。オアシス近くとは気の毒に」
「あ、いえ、死因はそうなんですが、手足を縛られていたようなので。バタバタしていて申し訳ありません」
 ヴァンの言葉に、職員はそう返した。ルークはぎょっと目を剥いたが、ヴァンにしろガイにしろ特別驚いたようすもない。タルタロスを降りてからガイに再三諭されたように、「外」の世界では別段珍しいことでもないのだろう。
「身元はわかったのか?」
 探している家族はいるのか、引き取り手はいるのか、そんなことが気にかかり、何気なく聞いたルークの耳に、思いがけない名が飛び込んだ。
「──え?」
 聞き取れなかったのかと再度告げられた名に、ルークは聞き覚えがあった。
 ありすぎるほどに。
「……」

 何年か前に屋敷に広まっていた噂話では、妻子を捨てて若い女性と駆け落ちしたという話だったはず。それがどうしてケセドニアの砂漠なんかで乾き死になどすることになったのか。

「……ルーク様?」
「ルーク? どうした?」
 無言で考え込んでしまったルークに、職員とヴァンが気遣わしげに声をかけ、ルークははっと顔を上げてガイを振り仰いだ。ガイはルークと目が合うと、少しばかり首を傾げてみせた。さして珍しくもない名だ、同姓同名の別人ではないとは、ルークにもガイにも言い切れない。
「……なんでもねえ」
「ルーク様にお聞かせするような話ではございませんでした」女性職員はバツが悪そうにそう言い、こちらへ、と腰を屈めて手でルークを誘導する。「船が出るまで少々お時間がございます。どうぞあちらでお休み下さい。すぐにお茶と軽食をお持ちします」
「あー……。ありがとな」
 彼女の示す方向を振り返ると、不自然なほどに漆黒の長い髪とそれを高く結い上げた美しい組紐が目に入る。アッシュはなにか考え込んででもいるのか、全く動こうとしていない。
「アッシュ? 行こうぜ」
「──! は、はい」
「なにか考え事か?」
 意図があっての問いかけではなかったのだが、口に出したとたん、当時──教師たちが立て続けに姿を消したあのとき、アッシュに小さな違和感を感じたことを思い出した。
「……いえ。オアシスの近くで、というのが不思議で」
「そういやそうだよな。乾き死にさせるのが目的なら、普通そんな近くで置き去りにしない。いくら縛ってるとはいえ」
 アッシュの疑問に、ガイも首を傾げている。
「流砂に乗って流されたのではないか?」
「あー……」
 にわか探偵たちにヴァンが苦笑してそう言うと、二人はすぐに納得したようすで頷いた。
「流砂ってあれだろ、底なし沼みたいに砂に飲まれてく……」
「いやいや。砂というのは人体よりも比重が重いのだ。すでに死んでいたなら暴れることもない。そのまま流されていくことは、さほど珍しくもないのだよ」
「へえ……」
 物語に出て来る流砂と本物は違うようだ。ルークは一瞬でもアッシュを不審に思ったことが申し訳なくて、そそくさとアッシュから距離を取り、ヴァンに並んだ。

「師匠、ちょっといいか」
 応接室らしき部屋の前でヴァンを呼び止めると、ヴァンは視線でアッシュに部屋で待っているよう促す。アッシュが一礼して素直に従うのは、ルークの護衛として不足がないからだろう。
「どうしたのだ、ルーク」
「……アッシュってさ」
「うん?」
 ちらと応接室の扉を窺ってから、ルークは声を顰めてヴァンに問いかけた。
「アッシュって……なんでおれにあんなに気を遣うんだ? 一人前に働いて地位もあるやつなのに、まるでおれの使用人みたいにさ……」
「……アッシュか」
 ヴァンは顎髭を軽く扱いて、ほんのわずか逡巡したあと、大きく息を吐いた。「……あれは、闇に囚われた人形なのだよ、ルーク」
「闇に囚われた人形……?」
「そうだ。あれの生い立ちは悲惨なものだ。どのようなことがあったのか、私には想像することしか出来ぬが……現実はおそらく、私の思うよりおぞましいものであったのだろうな。もっと早くに気付いておれば、あのようになってしまう前に助け出せたかも知れぬのに。私が気付いたのは、すでにあれが壊れてしまって何年も経ったのちのことでな……」
「……」
「かつて言ったことがあったか? お前には、凍り付いた人の心を溶かす力があると私は思う。そんなお前の傍にいるときだけはあれも心安らぐのか、微かに人のような感情を感じさせる……。残念だが、教団も神託の盾もあれの心を開かせることは出来なかった。周囲の反応も、腫れ物に触るようなものだ。皆、あれを恐れている」
 苦い、あまりにも苦痛に満ちた声に、ルークは一時言葉を失った。「師匠には心を開いているだろう」と言ってやりたかったが、少なくともルークはそのように感じたことはない。だが同時に、アッシュはルークにも心を許しているようには思えなかった。アッシュにとってルークとは心許せる友ではなく、崇め奉り、仕えるべき──そう、神の子のように扱うべきものなのだろう。闇に囚われたままだというアッシュの心を、ルークが安らがせているとは到底思えなかった。
「な、なあ師匠……」ルークはさらに声を顰めた。「『鮮血のアッシュ』って言うのは、ほんとにアッシュの二つ名なのか? なんかあいつっぽくねーなって、おれ……」
「その二つ名ほど、あれに似つかわしいものは、そうはあるまいな」
「……」

 なぜ似つかわしいと思うのか、その理由を聞くことができなかった。知りたくなかった。
 ルークにとってアッシュとは、穏やかで、優しくて……いつもルークを気遣ってくれ、その成長を我がことのように喜んでくれる兄のような存在でもあり、またルークの関心を引くため時に卑屈なほど顔色を窺い、構ったり褒めたりしてやれば犬のように尾を振ってまとわりつく、可愛い弟のような存在でもある。

 ルークは無言で応接室の扉を見つめた──正確には、中にいるであろうアッシュを。
 頭も良く、剣の腕も立つのに師をして「人形」と言わしむるアッシュ。火傷を負った理由や時期を聞いたことはないけれど、当然それは彼の「闇」に関係があるのだろう。じっとルークの顔を見つめる視線に、ルークはずっと目に見える火傷よりももっと深い彼の心の傷を感じてきた。なんとか癒してやりたいと思うのは、今のルークには荷が重いだろうか。
 ──思い上がりがすぎるだろうか。


(2015.11.19)