【7】


 さ……刺した……。おれが……殺した……?

 うつ伏せに倒れた男の躯の下から、軍服が吸いきれなかった赤黒い液体がゆるゆると這い広がってゆく。
 手に腕に、肉を切り裂いた感覚が残っていた。まるでバターに刃を立てたように、剣は容易く人を貫いて、男が自重で倒れるのと同時に厚い布地を剣先に引っ掛けながら容易く抜けていった。
 人体がこれほど脆いものだなんて、ルークは全然知らなかった。
 足下から、漣のようにじわじわと悪寒が這い上ってくる。
 傷つけるつもりなんかなかった。ルークはただ、不思議に思っただけだ。知識でしか知らなかった第七音素の譜歌に、人を眠らせる力があるということが。ただ眠っているだけ、昏睡しているわけではないということなど、ルークは知らなかったのだ。

「ルーク様!!」

 慌ただしく近づいて来る乱れた足音にはっと顔を上げると、こんな場所にいるはずのない、良く見慣れた白い仮面が目に入った。驚くよりも安堵が先に立ち、血の気の引いて強張った全身から力が抜けた。握った手が解けて剣が転がり落ち、がくりと膝が折れる。それを抱きとめた男はルークの良く知る人物で、おまけにこの場において唯一絶対の味方だった。
「一体なぜ、あなたがこんなところに……」
「お……お前こそ……」
 よほど驚いたのか、いつも穏やかにルークを落ち着かせる枯れた声は、彼の感じた驚愕と狼狽とを帯びて微かに震えており、そのことが逆にルークを少しだけ落ち着かせてくれた。
「あ……こ、この人、お前の部下だったか……? お、おれ……おれ……」
 アッシュの姿を見て、この艦を襲撃した神託の盾兵たちが師やアッシュの関係者であるという至極当然のことに改めて思い至り、ぞっと身を震わせると、アッシュは倒れ伏した兵を一瞥すらせず、ひどく静かに──無情に言った。
「兵はいつか己が剣によって倒されることも覚悟の上で兵になるのです。彼に力があれば、傷ついたのはあなたのほうだった」
「……っ」
 その言葉は労りとして掛けられたにもかかわらず、ルークは勝手にも傷ついた。ルークは剣を持ちたかった。木刀ではない、本物の剣を。師のように、剣一本で身を立てることに憧れすら抱いていた。むろん、そんな覚悟などあるはずがない。これまでに一度たりとて、自分が剣を抜いて立つとき目の前には自分に害意あるものがいるはずなどということを真面目に考えたことがなかった、己の浅はかさを指摘されたようで傷ついたのだ。
「……はは。情けねーよな。剣なんて習っててもさ、いざとなったら、ほら」
 瘧のように震える両手を自嘲とともに差し出すと、アッシュは頑是ない子供のような仕草でぷるぷると首を振り、柔らかな革の手袋の手でルークの両手をそっと包み込むようにして体勢を整えさせてくれた。革の手袋はアッシュの体温で温かく、なぜかルークの手と同じく少し震えていた。
 アッシュはルークがなんとか一人で立ち上がったのを確認すると、彼も未だ混乱しているのかおぼつかない手つきでタバードを脱ぎ、恐縮しきったように小さくなりながらルークにそれを羽織らせてくれた。
 ルークの震えはむろん寒さからではなかったが、ルークに羽織らせる前ににおいを嗅ぐような仕草を見せたアッシュを傷つけるのが怖くて──それに体の震えを寒さからと勘違いしてくれているのならそのほうが良いと、素直に胸の前で掻き合わせると、アッシュがほっとしたように肩から力を抜くのがわかった。
「私がもう少し早くあなたに気付いていれば、あなたが剣を取られることなどなかったのに」
 心の軋みを表すような、苦渋に満ちた悔恨だったが、その声にはいつも通りやはりルークを少しだけ落ち着かせる作用があったようだ。大きく息を吸い、吐くと、ほんの少しだけ震えが収まったような気がした。人を──命を傷つけるのは恐ろしいこと。嫌だ。そんなことを自分の代わりにアッシュにやって欲しいなんて思えるはずがない。最も、アッシュが駆けつけるのがもう少しだけ早ければ、この兵士は死なずに済んだのだろうけれども。
「お、おれだって、自分の身くらいは自分で守れなきゃ……」
「なにをおっしゃいます! ルーク様は尊き身、御自ら御手を汚されるようなことがあってはなりません。そのようなことは護衛の者がすべきことです!」
 必死で絞り出した言葉は、思いがけないほどきっぱりと否定された。でも、と反論の声を上げようとしたルークは、ひやりとするほどのアッシュの気配の変化に狼狽え、視線を彷徨わせた先にルークをこの艦に連れ込んだマルクト軍人ジェイド・カーティスと、思いがけず屋敷を飛び出す──文字通り飛び出したのだが──原因を作ったティア・グランツの姿を見つけて口を閉じた。
「お前がヴァン謡将の妹か? このような愚昧な身内がいようとは、あの方も難儀なことだ。この方はキムラスカ・ランバルディア王国王位継承権第三位、キムラスカ王女の婚約者で時期国王であらせられる。その尊き御方を無理矢理連れ出した挙げ句、お護りもせずに放り出すとは、貴様、万死に値する」
 アッシュはほんのわずか仮面の顔を思いもかけないありさまに動揺しているティアに向けた。

 その掠れた声がひどく冷たく聞こえ、ルークははっと顔を上げてアッシュの白い面を見つめた。その仮面の奥で、彼がどんな顔をしているのかは全くわからない。なぜ、幾何学の教師に鞭打たれていた恥ずかしい秘密を知られたときのことを思い出してしまうのかも。

 ただアッシュには、出逢ったころから得体の知れない部分があり、そこがルークにとって彼への興味をそそられる部分であると同時に、あと一歩を踏み込ませないとよそよそしく感じる部分でもあり──時に恐ろしく感じる部分でもあった。
「べ、別に放り出されたわけじゃねえよ、おれはここで見張りをしてたんだ。ティアたちはなんとかこの艦取り戻せねえかって……」
 反論の声が思わず小さくなってしまったのは、人間相手の戦闘に及び腰のルークが足手まといだと思われている自覚、本当は自分に見張りの役が果たせるなどとティアやジェイドが思っていないであろうこと、そして事実、役立たずであり、自分で自分を過大評価していたことへの羞恥からだ。
 だがアッシュは、囁くように、だが力強く断言した。「あなたは将として後方にあられるべきご身分であり、前線の兵士のようなことをなさってはなりません。──はっ、二人もいてなおこの方お一人まともにお守りすることが出来んとは、とんだ無能軍人どもだ」
 地の底を這うような低く掠れた声にはっと顔を上げると、見慣れたマルクト軍人の呆れ顔と、倒れ伏した兵の遺体とルークとを焦り顔で交互に見つめる少女の姿がある。
「アッシュ、あのさ──」一応ティアはおれたちの師匠の身内なんだぞと、取りなそうとかけたルークの声に、口の中で消えるほどの詠唱が重なった。譜術と気付いてアッシュの腕に縋ると同時に、視線の先で標的の二人が昏倒する。
「殺せ」アッシュは遅れて現われた神託の盾兵に鋭く命じ、ルークには別人のように柔らかな声をかけた。「ルーク様、ここからは俺がお守りします。どうぞこちらへ」
「──アッシュ! ふ、二人に酷いことしないでくれないか。そりゃ……屋敷から連れ出されたのは確かだけど、ジェイドはともかくティアには色々教えてもらったし、世話になったんだ」

 ルークはアッシュに、あまりに世間知らずの自分に最初こそ呆れた様子をみせたものの、エンゲーブで端切れを器用に縫い合わせて財布を作ってくれたり、そこから小銭を出して買い物をすることを教えてくれたりと、屋敷で話を聞いただけでは決してわからない様々なことをティアから学んだのだと必死で訴えた。
「ジェイドはキムラスカとマルクトを和平に導こうとしてる。嫌な奴だけど……戦争は嫌なもんだろ? おれが協力できることなら、したいしさ。だから……っ」
「……あのような者たちに、慈悲をくれてやるなど……あなたは本当に、お優しすぎる」
 アッシュは途方に暮れたように呟き、それでも牢へ、と命令を変えてくれた。
「すまない、ありがとな」ルークはほっと息を吐いた。一度下した命令を部下の前で撤回させるなど、アッシュにいらぬ恥をかかせたのではないかと心が痛む。
 だがアッシュはルークの心配するようなことを気にしたようすもなく、部下の前にも関わらずひどくおずおずとルークを船室に案内し、部下を下がらせて自ら紅茶を淹れ、ルークに勧めてくれた。
 丁寧に淹れられた熱い紅茶は、エンゲーブで半ば脅されるようにこの艦に乗せられて以来ずっとささくれていた心と、初めて人を害してしまった恐怖と後悔に苛まれ震える体を鎮めてくれる。
 ルークはカップを両手で包んだままほっと体を弛緩させ、ぼうっと周囲を見回した。

 襲撃があるまで割り当てられていた殺風景で狭い船室とは随分様相が違う。床には厚い絨毯が敷かれ、年代物の応接セットやよく手入れされた調度など、本当に軍艦の中なのかと首を傾げてしまうほどだ。要人が乗艦することもある、ということなのだろうか。

「続きの部屋には寝台もございます。ルーク様はしばらくそちらでお休み下さい。……少し、おやつれになったようだ」
 気遣いの言葉に、ルークは小さく苦笑する。これまで絹の布団にくるまって眠ってきた身で、突然野宿、野宿の生活になったのだ。食事だってティアと二人少ない路銀をやりくりして餓えることなどなかったけれど、栄養価も量も育ち盛りの身に十分とはいえなかった。
「そりゃ快適な生活とは言えねえけどさ、おれは結構楽しんでる。こんなことにでもならなきゃ、あと三年も屋敷から出られなかったし、この旅で経験したようなことは知らずに終わったんだろうしさ」
 己の身分を考えれば、こんな貴重な体験は二度と出来ないだろうと思う。どこに行くにも護衛や侍従が付き従い、自分で財布を出して買い食いすることも、宿を探したり野宿に適した場所を整えたりなど到底できないはずだ。

 一体ルークの何を気に入ったのか、アッシュは過保護なほどルークに気を遣うから、そうは言っても納得いかなげな、どこか不満そうな雰囲気は仮面越しにも隠せない。
 思えば、アッシュが神託の盾の軍服──少し前に詠師を拝命したという話を聞いたから法衣というほうがいいのだろうか──を着ている姿は初めて見たのだった。この部屋に来るまでに見たどの兵士たちよりも立場が上なのだと一目でわかる、際立って凛々しく、高潔そうに見えた。命令を下すことに慣れた態度、この若さで兵を完全に掌握している様子で、師が自慢する通り優秀な上官であるのだろう。なのにそんな男がルークの前でのみおどおどと顔色を窺い、少しの不興も買わぬように気を配っているのはなんだか似つかわしくないと思う。
「お前、すげーちゃんと上官してんだな。普段の様子からじゃピンとこなかったけどさ」
 は、と息を飲んだような気配があって、アッシュが少しだけ背筋を伸ばした。
「……この艦襲ったのって……やっぱヴァン師匠の命令、なんだよな?」それは疑問ではなく、応えを期待しない、確信をもっての独り言のようなものだった。「……師匠は導師が乗ってんの、知らねえのかな……」
「導師は許可を得ず、行き先も告げずに外出されました。なので教団に関わるお役目を果たしていただくのに、少々手間取ってしまい……」
 言い辛そうに口ごもりながら、出来る範囲でなんとか説明をと苦心しているアッシュに、ルークはひらひらと手を振って黙るように示した。
 部外者に話せないことも当然あるだろう。なんとかルークの役に立とうとしてくれるのはありがたいことだが、板挟みに苦しめるのは本意ではない。それに神託の盾の内輪のことなど、ルークが知る必要のないことだった。部外者のルークに対して上手い言い訳などアッシュが考える必要もあるまい。元より神託の盾とマルクトが敵対するのならば、ルークは当然師と友の所属する神託の盾を支持してしまうだろう。もちろん初めて接触するマルクト人がいけ好かない人物であったというのも、ルークの評価を大いに左右している。

 ジェイド・カーティスという男は、本人曰く「安っぽいプライド」の固まりのような男だった。世間知らずの十七歳よりも、その内面は遥かに幼い。子供の言動になど左右されない大人のフリをしながら、ちらりちらりと己の立場や能力が上だと知らしめることに余念がなかった。こちらの身分や立場を十分に承知していながら、見下した態度を改めようとしないどころか、バレても構わないとばかりに──いや、悟れるものなら見下されているのを悟ってみろと言わんばかりの態度は、これまでにルークが屋敷で接して来た大人たちにはなかったものだ。ルークはその顔色、一挙手一投足を冷静に観察しながら彼らの本音を嗅ぎ取ろうと苦心したものだが、ジェイドの本心を読み取るのに少しも苦労しなかった。あれほどわかりやすいと、二つの国の命運を左右する大切な交渉をこいつがやり遂げられるのかとむしろ心配になったほどだ。あの愚かな軍人は、ルークのほうこそが何も知らない世間知らずのお坊ちゃんを演じ、時に切れてみせたり物わかりの悪いフリをしながら相手を分析していることなど、露ほども気付いていないに違いなかった。

「他所の事情なんかどうでもいい。興味もねーし、お前と師匠の思うようにやってくれ」ルークはそう言ってアッシュをほっとさせたあとで、慌てたように付け加えた。「けどティアはさ、師匠の妹だろ。そりゃこんなことになってんのはあいつのせいだけど……あいつにも言い分ってのがあんだよ。あいつ、師匠がなにか良からぬことをしでかすつもりだって思い込んでんだ」
「……立場が違えば、正義も違います」
「おれにだってわかるっつーの、そんくらい! だから話し合いが必要なんじゃねえかって言ってんだよ!」
「……あなたは、優しすぎる」
 いかにも不承不承アッシュは唸ったが、折れてくれたのだとわかってルークは脱力し、ソファに深く身を沈めた。
 なにより、あの優しい師を悲しませたくない。たった二人の兄妹なのだ、敵対されたことすら師には辛かろうと思えば、どれだけアッシュの逆鱗に触れたとしても、決して害するようなことがあってはならないと思うのだ。だがアッシュは、弟子を気遣う師とは反対に、誰にも頑なに心を開こうとしない。師を師として敬愛していることは確かだが、その情がその家族にまで及んでいないのは確かだった。 
「お前は少し人嫌いがすぎんじゃねーの? ヴァン師匠も心配してたけどさ、そんなんじゃお前、女も出来ねえぞ」
「この通り、俺は醜いですから……」
 苦笑したのか、アッシュは焼けた喉から空気の漏れるような音を出した。


長らく放置で申し訳ありません。8話も出来るだけ近いうちに……!(2015.09.03)