【6】
「完璧です。申し上げるところはございません」
淡々とした静かな声に感嘆と安堵の色を滲ませて、仮面の顔が答案から上がった。
ルークはだらしなく手足を伸ばして長椅子に座り、前回アッシュが置いて行った課題が採点されるのを、気にしていないそぶりをしながら息を詰めて窺っていたのだが、それを聞いてつまらぬげに肩を竦めた。だが内心ではほっと息をついていた。毎回、間違っていないか不安で、アッシュが来る日まで何度も何度も見直している答案なのだ。
「思い出す努力よりも、一から憶えるほうが早いなんてな……」
気が抜けたようにソファの上でだらけるルークの耳に、珍しいアッシュの笑い声が聞こえた。いや、笑い声と言うと語弊があるか。ふっと息を吐いただけなのだが、ルークの耳には笑い声のように聞こえたのだ。こういうとき、仮面は表情を見せてくれず、つまらない。
「礼儀作法と修辞学の新しい教師はどうですか? きちんと教えてくれますか?」
とんとんと紙束をまとめながらアッシュが問うのに、ルークは再度肩を竦めた。
「新しい教師なんか来てねーし」
内心の落胆と焦燥を隠して、ルークはなんでもないことのように言ってみせた。
「代わりの教師が来ていない……?」
だがアッシュは凍り付いたように動きを止め、愕然と呟いた。
一からきちんと教われるものなら。そうしてもらえればきちんと理解できることがもうわかったのだし、ルークだってこれからはそうして欲しいとお願いすることができる。
けれど修辞学の教師が失踪して半月、礼儀作法の教師が亡くなってからはすでに一月が経っているのに、ルークには未だ新しい教師が付けられない。なんとなくだが、探している気配も感じなかった。探しているなら、「もう少し待つように」とか「適任者が見つかるまで自習を怠らないように」とか、ラムダスあたりが父の言葉を持ってきそうなものだ。
お前には教師をつけても無駄なのだと、とうとう父にも見限られたのだろうか。
「幾何学の先生もこのごろ身体の調子が悪いってんで今月いっぱいなんだよな。……まあ、構わねーんだけど」
これも代わりの教師は来ないだろうと思えばそれなりに憂鬱にはなるのだが、来なくても構わないというのは掛け値なしに本音であった。
幾何学の教師だって好きではなかったのだ。むしろ礼儀作法の教師以上に嫌いだったと言っていい。彼はルークが授業を理解していてもしていなくても全く気に留めず、自分のやりたいように授業を行った。思わず居眠りしそうになっても、礼儀作法の教師のように鞭をふるうことはなかったが、それは彼が、すでに熱意を失っていたから。ルークが幾何学を理解できようができなかろうが、どうでも良かったからだ。
身分差があるから、直截には言わない。不自然に触れて来たりもしない。しかし、そのねめつくような視線や、同情を装いながらもルークが穢された子であると決めつけたような発言の数々で、教え子がどこでどのようなことをされたのか興味を持っていたのは間違いないと思う。わずか十歳の子供が大人の力に敵うはずもないのに、きっとねじ伏せられてしまったことを侮蔑してもいただろう。
「調子が悪い? どのような症状ですか?」
「あ? 顔色ずっと悪かったし、急に痩せたしさ。手とかいつも小刻みに震えてたと思う。最後の授業のときはお茶を運んで来たメイドに頭痛薬持って来させたんだよな。それっきり。あとは知らね」
「……そうですか。その教師はお気の毒ですが、幾何学も代わりの教師は来ないのでしょうか」
しばらく沈黙していたアッシュが、おずおずと問いかけた。
その声が酷く掠れていることに、彼の感情のゆらぎを感じ取り、ルークは寝そべったままさりげなくアッシュを観察した。低い位置からでは、唯一感情を見せる火傷の痕は見えない。
さあな、と答えかけ、ふとルークは口を閉じた。アッシュの科白に、どこか違和感を感じたからだった。
『幾何学の先生もこのごろ身体の調子が悪いってんで今月いっぱいなんだよな。……まあ、構わねーんだけど』
『調子が悪い? どのような症状ですか?』
『あ? 顔色ずっと悪かったし、急に痩せたしさ。手とか最近じゃいつも小刻みに震えてたんだよな。最後の授業のときはお茶を運んで来たメイドに頭痛薬持って来させたし、頭痛もしてたのかもしんねー。それっきり。あとは知らね』
『……そうですか。その教師はお気の毒ですが、幾何学も代わりの教師は来ないのでしょうか』
(──なにもおかしくはない、よな?)
うん、おかしくはない。
何に違和感を感じるのかも判然としないままルークは首を傾げ、身体を硬くして主人の関心が戻るのを待っている犬のような風情のアッシュをじっと見つめた。視線に居たたまれないように、アッシュが身じろぎする。
「……別に、来なくてもいいや。お前が教えろ」
「え」
「お、ま、え、が、教えればいいだけの話だろって言ってんだよ!」
「は──はい。はい!」
なんとなくしょげていたようなのに、ぱあっと雰囲気が明るくなる。
こういう可愛らしさが、剣術も勉強も今はルークより優れているのにも関わらず、ルークにとって弟分、守り庇ってやらなくてはならない者のように思わせるのかも知れない。
ルークが気付いていないと思っているのか、相変わらずアッシュはルークの目が逸れているとみれば遠慮なく見つめてくる。その視線に最初は苛立つこともあったが、最近ではそよ風のように気にならなくなった。ルークに対する好意と賛美しか含まれていないから、時々はくすぐったく思うが、屋敷の中にあまり心安んじる味方がいないだけにアッシュの好意はありがたいものだ。
アッシュは結局、どの教科も満遍なく初歩の初歩から教えてくれた。最初に簡単なテストを行って、ルークが基礎を教わらなかったにも関わらずなんとか理解できているところと、まったく理解していないところを明確にしてから教え始めてくれたので、ルークにもわかりやすかった。アッシュに「教師が逃げるのもあたりまえな出来の悪さだ」と思われたくないから、ルークも必死だった。
必死だ、と思われることは屈辱だったから、やる気のないふりをし、相変わらずだらけた態を取り繕いながらであったが、教わったことはアッシュの来ない夜に何度も何度も復習し、残して行った課題も紙に穴が開くほど見返し、ちょっとでも気に入らなければ何度でも書き直した。
最初の内は、前の晩に慌ててやったようなふりをするため、算術などは必ず一カ所わざとミスを作っておいたりしたものだ。
だが、少しずつ難易度が上がってゆくアッシュの授業に、苦労しながらではあったが自分がちゃんと付いていけているのが実感できるようになったころ、そのような不必要な努力をすることすら、ルークは忘れてしまっていた。昨日知らなかったことを、今日は知っている。先週解けなかった問題が、今は易しく感じられる。それが楽しくて仕方ない。その場で出された難しい問題にすらすら答えられた時、アッシュの囁くような嗄れ声に微かな昂揚が混じる、それが嬉しくて、誇らしくて、思わずもっと感心させてやろうと頑張ってしまうのだ。
一年が少し過ぎたころには、一方的に教わるだけではなく、こっそりと図書室に忍び込んでは新たな本を借り出して、二人で考えたり相談したりしながら一緒に勉強することができるようになっていた。
もう、どこの誰がルークを「できない子」だと言っていても構わない。
本当はできるのだということが、これほどの自信に繋がるとは、今まで思っても見なかった。
アッシュは元より、友を──アッシュはそう思っていないかもしれないが、ルークはとっくにアッシュを友達だと思っていた──与えてくれたヴァンにも感謝の念が尽きない。
──もちろん、決してそれを口に出したりはしないけれども。
昼食後に中庭でガイとだらだら話し、読みかけの本を読もうと「昼寝する!」と部屋に戻って来たとき、掃除途中のハウスメイドの少女と部屋でかちあってしまった。
少女は中規模な商家の娘だが、いずれ嫁ぐときのため少しでも箔をつけさせようと、親がありとあらゆる伝手を頼って貴族の屋敷に奉公に出した娘である。少々うっかりしているが、元々の育ちのためか純朴で明るく、あまり物怖じすることもないのでルークを疲れさせない。大体初めて部屋でかちあったのも部屋に置き忘れた雑巾を回収しにきたときで、驚くルークへの第一声は「わっ、王子様だ!!」であった。
「なんだよ、まだ終わってねーのかよ」
ルークは腕組みして尊大に言い放ったが、人目を気にして読書が再開出来ないことに腹を立てたりはしなかった。貴族というものと間近で接したことのない彼女は、ここに上がるまえに厳しく躾を受けたはずだったが、ルークの態度があまりにおおざっぱなため、憶えたことが頭からすっとんでしまったらしい。
「ガイさんとおしゃべりしてるって聞いたから、すぐには帰って来ないって思って後回しにしちゃったんです」
と、こんな調子でめちゃくちゃなのだ。ルークとの会話をラムダスが聞こうものなら、雷を落とすまえに倒れてしまうだろう。
「ガイも仕事あんだし、昼寝しようと思ったんだよ」
実際に眠いわけではないのだが、ルークはだらりと長椅子に寝そべって目を閉じた。そしてそのままいかにも興味無さそうに街の様子などを質問する。
いつか、アッシュに連れ出してもらえるかも知れないと思いながら一般庶民の娘に聞く話は、他では聞けない興味深い話ばかりだ。
「うち程度の店じゃ、従業員にそんなにお給料払えないんですよ。だからルーク様の場合はまだ若いし、未経験で一から教えて、ってなるからー……そうですね、しばらくは一万二千ガルドくらい? 使えるようになって一万四千から六千くらいでしょうか?」
「はあ?! 嘘だろ? そんな端金で何が買えるってんだよ?! シャツの一枚も買ったらおしまいじゃんか!」
世間知らずな自分が、例えばアッシュの侵入路から脱走したとして、自分の力で生きて行けるのかとふと気になって聞いてみれば、ルークの想像を絶する返答に愕然としてしまう。
「家庭持ちだと確かにその収入じゃきついですけど、庶民は普通、それで家賃払って一月ご飯食べるんですよ! うちはまだ余裕があるほうだけど、新しい服なんて普通は滅多に買えないんです。古着屋さんで買うこともあるけど、普通は作りますね!」
「つく……そんなことも出来ねえといけねーのかよ、庶民は!」
「そこができるかできないかで女の子は望まれ率も変わるんですよ。けどルーク様だったらきちんとした教育受けてるんだし、実際はもっと割のいい仕事が見つかるんじゃないでしょうか」
「割がいいったって、どうせシャツ一枚分が二枚分になるほどじゃねーんだろ」
絶望の呻きを上げて天井を見上げるルークを、まさか本気で脱走を夢見ているとは思わない少女が笑い声を上げた。
「それで思い出した。以前こちらで家庭教師してたって人、亡くなったみたいですね」
「あ? ……あー、あれか、礼儀作法の。天空滑車乗り場から墜落したらしいな」
乗ったことがなければ見たこともないので、どのような感じなのかは想像し辛い。なんだ、今更、と思っていたところに、少女の声が被さった。
「え? 病気って聞きましたけど」
「え?」ルークは気怠く横を向いて、暖炉の上をせっせと拭き掃除している少女の後ろ姿を見つめた。なかなか可愛い子なので、後ろ姿しか見られないのは残念だ。
「名前なんだっけ? 聞いたんだけどなあ……」少女は手を止めて斜め上を睨み上げるようになにか考え込んでいたが、ややあって諦めたように首を振った。「……すみませんちょっと忘れちゃいました。けど、体調崩して辞めたって言ってましたよ」
「ああ……体調不良で辞めた教師いたけど……一年以上前の話だぜ?」
「あ、その人だ! 間違いないです」今や上体を起こして呆然としているルークに気付き、少女はなぜこの屋敷の誰も知らないような情報を知っているのか、説明の必要があると考えたらしい。
「奥さんがうちの求人募集に応募してきたんですよ。しばらくは奥さんも体調崩してて、お子さんとご実家に戻ってたそうなんですが。両親もう亡くなってて、弟さん夫婦にいつまでも面倒かけるのも心苦しいって仕事探してたんですよね。でもうちは未経験の人の見習い期間の給料低いんで……。一人ならなんとかなってもお子さんいるとちょっと苦しいから、そういう事情なら、ってお子さん連れで住み込みで働けるとこ、母が見つけて紹介したんです」
いつものルークなら、「お前のオヤもお人好しだな」とまず嫌みを言わずにいられなかっただろうが、今は本当にそれどころではなく、ルークは再びどさりとソファに仰向けになって天井を睨みつけた。
三人。
今回は一年以上経ってからではあったが、ルークが教わっていた三人の教師が、理由はバラバラだがルークの前から姿を消した。
「いやいやまさかだろ。偶然だよな……?」
「はい? なんか言いました?」
独り言に反応した少女になんでもないと手を振って、ルークは再び天井を見上げた。姿を消したと言っても一人は駆け落ちだ。一人は事故、一人は辞めて一年以上経ってからの病死。全員がルークの元家庭教師というとなんらかの繋がりがあるように思えてしまうけれども、このくらいの偶然はきっとよくある話だ。ほら、「世間は狭い」ともいうし……。そもそも他の教師たちには何事もないのだから。
ルークが教師の一人に鞭打たれたと知ったとき、アッシュの見せた怖いほどの怒りがふっと脳裏に蘇る。
偶然だ。
それでもきっと偶然なのだ……。
だがその日以降、ルークはアッシュに、益体もない愚痴は洩らしても、家人への不満、怒りは一切見せないようになった。「前のルーク様」と常に比較し、ルークの態度や話し方、服装何もかもに眉を顰めていた使用人をルークはこれまで尊大な態度で無視してきたが、朝の挨拶や何かしてもらったときの礼の言葉などを返すよう努力した。急にどうしたのかとますます眉を顰める者もいたが、ルークは構わなかった。
それは決して無駄な努力ではなかったようだ。残っている教師たちはルークの目覚ましい進歩にすでにやる気を取り戻していたし、使用人たちも同様に、ルークの変化に慣れていくに従って、ゆっくりと変わっていった。
息が詰まるようだと思っていたルークの狭い狭い世界は、少しずつ息をつけるところに変化しつつあった。