【5】
師匠であるヴァン・グランツは、二十歳をようやくいくつか過ぎたばかりでありながら次期主席総長と目されるほど多忙な人物で、バチカルの屋敷まで指導に来られるのはこれまでせいぜい月に二度というところだった。
初めてアッシュが紹介されてからは、毎週とまではいかないもののそれ以外にも三、四度くらいは一人で来てくれて、ルークと二人で稽古してくれる。本人はまだ人に教えられる立場にないと謙遜するが、その腕はやはり師匠に見込まれるほど卓越したものだ。自主練習の多いルークの型の崩れをほんの少しだけ指摘してもらったり、ただ型をなぞりながら剣を合わせているだけで、ルークは自分の力が急速に伸びて行っているのを実感できた。
アッシュは約束通り稽古中だけはヴァンの兄弟弟子として対等に接してくれた。それ以外ではまるで別人のようにおずおずと、まるで崇拝の対象を敬うように一歩も二歩も距離を置いてルークに接したが、寂しいと思いはしても、同時にそうせざるを得ない身分の違いもルークは心得ていたし、それを無視するよう強要したところでアッシュには苦痛を与えるだけだろう。
ヴァンは最初こそ稽古中アッシュがルークを呼び捨てにし、対等な口を聞くことに驚いたようだったが、彼にとってもそれは望ましいことだったらしく、休憩のおり、アッシュがワゴンに用意された冷たい水を取りに行っている間に、汗に濡れたルークの髪をくしゃりとかき回して笑った。
「あれの雰囲気が少し柔らかくなったのは、お前のお陰かも知れぬな」
「えっ、おれ?」
「そうだ。お前には、凍り付いた人の心を溶かす不思議な力がある。もっとも、アッシュがあのように柔らかな態度でいるのはここにいる間だけなのだが……。向こうでのあれは、頑なに他人を拒絶する。友人の一人も作ろうとはせんのでな、少々心配なのだよ。お前という友人を得て、少しでも殻を割ることができればいいのだが」
アッシュばかりを気にして、などという嫉妬の念は沸かなかった。それよりも、人の心を溶かす力があると言われたことのほうがルークには嬉しかった。十年分の記憶を失い、何もできなくなったと周囲の人々を失望させてばかりの中で、なんとかルークの良いところを見つけて褒めてくれるのはヴァンだけだ。アッシュはアッシュ、ルークはルークとして可愛がられているのが十分飲み込めていたし、ルークの髪を気に入っているらしいヴァンが何かと髪をくしゃくしゃ撫でてくるのも、ルークは大好きだった。心がじんわりと温かくなる。
だからルークは、ヴァンが望むように、アッシュがもっとおれに心を開いてくれたらいいと思ったし、いずれガイとは違う形での友達になってくれたらとも思ったし、そのために出来る努力はしようとも思ったのだ。
その日に屋敷にやってきたのはアッシュ一人だった。
中庭で待つルークのところへ薄気味の悪い仮面の少年を案内して来たメイドは、逃げるようにすぐに小走りで去ってしまう。
アッシュは二人きりであろうとなかろうと、どの道いつも緊張している。人払いするのはアッシュのためではなく、少しでもアッシュと打ち解けたいルークが、好奇心も露な第三者の目を嫌うためだ。このときばかりは、庭師のペールにも中庭に入らぬよう命じてある。
「すぐにやるだろ?」
「ええ」
出稽古にやってきたアッシュに、まず茶など振る舞っていたのは最初だけだ。ルークはアッシュとの稽古が楽しみで、実際楽しくて仕方なく、今ではそのまま稽古に入る。そのぶん終わったあと早々に暇乞いをするアッシュを何度も引き止め、サンドイッチや焼き菓子、何種類ものケーキを中庭のテーブル一杯に用意させて、二人きりで、ルークが見ることの出来ない世界の話をゆっくりと聴くのだ。
が、この日、羽織って来た薄手のコートを脱ぎながら、グローブを着けているルークをいつものように横目で窺っていたらしいアッシュが、ふいに手を伸ばしてルークの手を両手で掴んだ。いきなりのことでえっと思う間もなく、アッシュはぐっと顔を近づけて手の甲を凝視する。彼の着けている仮面は視界を狭めるとはいえ、ここまで彼がルークに近づくのはほとんど初めてのことだった。もしかしたら、触れるのも最初の握手以来ではないだろうか。
「──どうなさいました?」
炎と煙に舐められたアッシュの声は嗄れ、変声期まっただ中とはいえ少年の声としては低い。
その声が緊張を孕み、さらに掠れて、その問いはひどく聞き取り難かった。
「え?」
「お手が腫れておられます」
ああ、とルークは苦笑してアッシュから手を引き取った。ちりちりとした痛みはもはや常態となり、指摘されるまで意識することもなかった。
「大したことねー。……ちょっと打たれただけだし」
礼儀作法の教師は、ルークが間違ったり戸惑って動きを止めたりするたびに口で注意せずにぴしりと鞭で甲を打つ。内心、口で言えと思うこともしょっちゅうだが、子供の躾け用の鞭は皮膚を破ることもないし、腫れて赤くなる割にはそれほど痛みも強くない。それよりも至らずに腫れるまで鞭打たれていることを好敵手に知られたことが恥ずかしくて、ルークは顔を背けてそそくさとグローブを填め、その赤い痕を隠した。
「打たれた……?」
だが、表情のない白い仮面の奥から、嗄れた、軋るような声が聞こえ、ルークははっと顔を上げた。
「鞭で、打たれたと、おっしゃるのですか……?」
感情が昂っているせいか、聞き苦しい嗄れ声は、ほとんど息も絶え絶えに途切れがちだった。ルークは硬く握ったアッシュの拳がぶるぶると震えているのに気付き、苦笑して宥めるために口を開いたが──
「……誰が、あなたを、傷つけるような真似を?」
中庭に植わった木々から、一斉に鳥が飛び立った。
その突然の羽音に飛び上がり、彼の放つ異様な気配に飲まれ、ルークは思わず一歩下がって距離を取る。
アッシュの喉は、大きな声を出すのが難しいのだそうだ。ただでさえ聞いているルークの喉も痛くなるような気がするほど掠れているのに、任務中になにか大声で指示したり返答しなければならないことがあると、必ず喉を痛めてしばらく声が出なくなるのだと雑談の折りにヴァンから聞いた。
やや俯き加減に身を震わせている少年は、だからいつもゆっくりと静かに話す。仮面で顔が見えないのもあって、その感情は非常にわかりにくいものだ。
だが今は、まるで地の底で吼え哮る魔物の王の息吹のような、黒い炎を纏っているように見えた。ルークが癇癪を起したときの、爆発するような怒りとは違う。それは、物理的な圧力さえ感じさせながら、周囲の空気を足下からどす黒く、どろどろと浸食して行くような、濃密で粘ついた憎悪だった。
いつもは淡々と話す低く嗄れた声は、憤怒に詰まり、より低くなって、その呼吸とともに呪詛と憎悪と殺意が溢れ出して来るようだ。
「──っ! アッシュ!」
なぜだか理由はわからない。
けれども捕まえなければ屋敷に飛び込んで全員を斬って回りそうなほど物騒な気配を感じ取り、ルークは慌てて飛びかかるように距離を詰め、アッシュの両腕を掴んだ。
「──?!」その瞬間、滑稽なほどびくりとアッシュは飛び上がり、息苦しいほど渦巻き、広がりつつあった冥い情念がぱちんと消えた。「ルーク様っ……!」
「見た目は派手だけど、大して痛くもねえんだよ、鞭っつっても躾け用のだし、騒ぐな。こんな痛みは一瞬で終わる」
打たれる数が多いから本当は今もひりひりと痛むが、大した痛みでないのは本当のこと。ルークは未だ怒りを漲らせたアッシュを宥めながら、冷たい水をグラスに注いで渡し、飲んで落ち着くよう促した。
どうやらアッシュという少年の性は、当初ルークが思ったようにおとなしい小動物のような、または可愛い弟のようなものではないようだ。犬だと思ってじゃれていたら実は狼だったというような、裏切られた気分だ。
身分もあって、これまでルークの前で殺気を纏うほどの怒りを見せたものなどいない。アッシュの激昂は、これまでに見た誰の怒りよりルークを怯えさせた。
だが同時に……彼の怒りがルークを気遣ってのものであることに、薄らと感動さえ覚えていた。
「……来いよ。ちょっと話そうぜ」
すぐに稽古に入る気には到底なれず、ルークは宥めるように掴んでいた二の腕をぽんぽんと叩き、アッシュに背を向けた。
歩き出すとおとなしく付いて来る気配がする。いつ感情をむき出しに牙を剥くかわからない魔物のような少年に背を向けることが怖くないと言えば嘘だったが、それを悟られるのも侮られそうで屈辱だ。誰彼かまわず、また理由なく向けられる感情ではないはずと己に言い聞かせながら、ことさらにゆっくり鷹揚に歩いて、ルークはアッシュを外庭へと誘った。
中庭を抜けて外庭へ出、森を模して植林された木々の間を抜けて東屋へ向かう。緑の濃い香りの風に当たりながらテーブルに向かい合って着き、ルークは師匠から聞いてるかもしれないけど、と前置きした上で、かつてマルクトに誘拐され、そのせいで記憶をすべて失ったという表向きの話を聞かせた。
屋敷に出入りする以上、いずれアッシュも噂を知ってしまうのだろうが、自分の口から、男の身でありながらおぞましき欲望に曝された、穢れた身体なのかもしれないということを語りたくはない。
「ま、教師も馘がかかってんだろーし、いつまでもおれがこんなんじゃ焦りもすんだろ。昔は出来が良かったんだそうだし、思い出しさえすりゃなんとかなんのにって苛々すんのも仕方ねーさ」
アッシュは仮面の顔を俯けて、じっと話を聞いていた。頷きはしたが、納得はしていないのだろう。怒りに熱くなった首筋に覗く火傷の痕がいつもより色濃く見え、脈動に合わせてまるで蠢いているように見えた。
「それでしたら……もしもルーク様がお嫌でなければ……」アッシュは膝の上で強く拳を握ったまま、嗄れ声を絞り出した。「……俺が、わからないところをお教えします」
「……え?」
「士官学校で、一通りのことは教わりますから……」
アッシュの身体が緊張にぶるぶると震えているのを見れば、彼なりに決死の申し出だったのだろう。ルークは力を込めすぎて真っ白になった拳を見つめながら、なぜこいつはおれのことでこんなに必死になるのだろうと考えた。
弟分にしてやろうと思っていた好敵手の少年から哀れまれることは、ルークを惨めにもさせたが、同時にひどく冷静にもさせた。
「いらねーよ、お前と勉強なんかしてたら、稽古が出来ねえじゃん」
その言葉にアッシュは少し首を傾げて何かを考え込んだが、ややあって「夜も来ます」と言った。
ヴァンは剣の師としてファブレ家が招いているわけだが、ヴァンもアッシュも、誰がなんと言おうと断固として屋敷に滞在はしなかった。必ず宿をとり、稽古を終えたら引き上げる。
「でも……それじゃお前、せっかくバチカルに来たっていうのに遊ぶ暇ねーじゃん」
「夜は寝るだけです。──来ます」
その嗄れて掠れた声に思わず頷いてしまったのは、彼の必死な嘆願に否と答えてがっかりさせたくなかったのもむろんある。勉強はできないよりできたほうがいいだろうという理由もあるし、この謎の多い少年のことをルークも少しは知りたいと思ったのもある。
だが第一の理由は、彼の見せた激烈な怒りが、ほんの少しばかり怖かったからだ。
「じゃあ……教わってもいいけど」
それでも矜持ゆえに、感じの悪い言い方になってしまったのだが、アッシュはほっとしたように返答を待って詰めていた息を吐いた。
このことがあって以降、アッシュはヴァンと来るときも、一人で来るときも、稽古が終わって一度引き上げたあと、夜更けにルークの部屋を訪れた。
てっきり正面から訪ねてくるものと思っていたら、ヴァンにも黙ってこっそり忍んで来たというのでルークは仰天したものだ。
勉強もそっちのけでおれもその道から連れ出して欲しいと詰め寄ったが、屋敷の警備は非常に厳重で、ルークの身のこなしではすりぬけが難しいというようなことをその百倍の言葉を使って遠回しに遠回しに訴えてきたので一旦は引き下がった。いずれアッシュに実力が追いつけば、まだ一度も見たことのないバチカルの街を見に連れ出してくれるかもしれない、そう信じて。
アッシュが稽古の日の夜に忍んでくるようになってからしばらく経ったある日、礼儀作法の教師が亡くなった。家族からの知らせによると、どうやら酔って昇降機の乗り場から転落してしまったらしい。
ルークを鞭打つこの教師がルークは苦手で、到底その死を悼む気になどなれなかったが、さすがにせいせいするとも思えない。思えば身近にいた人の死は初めてのことで、多少は気分も塞いだ。家庭教師の死といえど軟禁中のルークは葬儀に参列することが許されないため、代わりにその日一日、黒い服を着て過ごした。
それから一月も経たぬ間に、修辞学の教師が姿を消した。妻と幼い娘二人を残して、バチカルを出奔したものらしい。
どうやら妻よりひとまわりも若い女と手に手を取り合っての逃避行であるようで、そのような下世話な話をルークの耳に入れてはならぬと思われたか、当初「職を辞した」とだけ伝えられていた。何一つ教わったことを思い出せない出来の悪い生徒では教師もやる気を失うだろうとルークは達観したが、このときばかりは屋敷中の者が好奇心も露にそこかしこでひそひそと話していたため、ルークの耳にもすぐに知れた。いくつか聞き覚えのない単語を辞書で引き、ルークなりに修辞学の教師が辞めた経緯を理解すると、さすがにルークも苦笑いしたが、おれのせいではなかったのかと、ほんのちょっぴり安堵もしたのだった。