【4】


 黒髪と言えども多くの場合多少は褐色がかっているものだが、アッシュの髪は少し珍しいほど純粋な漆黒だった。ルークと同じくらい長く伸ばされ、前髪と横髪を後頭部でまとめて三つ編みに編んだ束が真ん中に下がっている。それを括った鮮やかな碧の組紐は、漆黒の髪に良く映えていた。
「お前、キムラスカ人だよな? 結構良いとこの出だろ」
「……はい。おわかりですか?」
 髪の長さがな、と答えるルークに、アッシュは納得したように頷いた。最近はマルクトや常に流行の変わるケセドニアからの影響で短髪の男性も増えて来たが、キムラスカ貴族の男子は一般的に髪を伸ばすのが普通だ。
「家はもうありませんが……」
「ふうん」没落したり取潰された家の子がローレライ教団を頼るのは珍しくもない話だし、そもそもルークは付き合う人の家格になど興味が無い。気のない相槌を打った後はすぐに最初に目を引いたものに視線を戻した。「それ……髪縛ってる紐。髪の色によく似合ってんな」
「そうですか? ありがとうございます。身分の高い人に対面するのに、汚い革紐ではまずいのではないかと言われまして」
「そんなの気にするこたねえけど。汚い革紐よりはそっちのが似合ってんじゃねーの」

 本音ではあったが、それは会話を繋ぐ社交辞令のようなものだ。
 だがそう言った途端、ふっとアッシュの雰囲気が和らいだのがわかった。むろん彼は仮面を付けたままだったが、褒められて嬉しいのか表情を綻ばせた気配が感じられる。

 ──あれ、なんだよこいつ。ちょっと可愛くね?

 勝手に敵愾心を抱いてハリネズミのようにトゲトゲと警戒していた当初の気持ちなど、とうにどこかへ吹き飛んでしまっていた。ルークの前でアッシュがどこか遠慮がちにしているせいか、自分が大きくなった気がするような、小さな弟を護ってやらなければならないような、そんな気分にさせられる。記憶を失ったルークは稽古を再開してからまだ一年経っていないから、むろん剣の腕はまだまだアッシュの方が優れているのだろうが……。
(こいつを、おれの弟にしてやろう)
 同い年であること、アッシュの方が兄弟子であることなどは、都合良く忘れた。

 人の好奇心が執拗にまとわりつく軟禁生活に倦みきって、荒みかけていた気持ちがほんの少し上向いてくる。
 ルークはずっと兄弟が欲しいと思っていた。兄弟がいれば、軟禁され、生活のほとんどをがんじがらめのスケジュールに添って送らねばならないとしても、きっと耐えられる。

 ──兄弟って言えば……。

 それは十歳以前の記憶を失い、まるで赤ん坊のようになって帰って来た今のルークの、最も古い記憶だ。だがここ一年半より前の記憶は酷く曖昧で、こんな記憶があると思っても、それが事実本当にあったことかどうかは自信がない。
 そんな記憶の一つだ。

 その日、広大な外庭で、ルークは母と、ガイとに支えられ、歩く練習をしていた。支えがなくとも立ち上がり、わずかだが歩けるようにもなったが、転んでそこに咲いていた花を潰したのを憶えている。人参みたいな色をした、ヒナゲシに似た花だった。
 何時間も母は練習に付き合ってくれたが、元よりあまり身体の丈夫な人ではなく、侍女に小言を言われて部屋に戻っていき、ガイはルークを東屋へ運び、何度も転んで土の付いた手を洗い、薬を取ってくるついでにお茶とおやつを持ってくるといって屋敷へ戻った。
 その時のルークはもちろん、ガイの話など理解出来はしなかった。突然一人にされた理由などわからなかったから、心細さに泣き出しそうになっていたように思う。
 母やガイが戻ってこないのかと辺りを見回していると、右の肩越しに見える木立の中に、ちらりと赤いものが見えたような気がした。

 何もかもが靄に包まれたような当時の記憶の中で、その赤だけは、今なお鮮烈に蘇る。

 ルークはその深い真紅に心惹かれ、ふらふらと震えながら立ち上がった。東屋の壁伝いにその色の正面に向かうと、前方に突き出した両手でバランスを取りながら危うい足取りでそちらに向かう。
 その赤いものは、一歩だけ後退したようにも見えたが、ルークがバランスを崩し、前のめりになったとたん、今度は少しだけ前進した。
 それがルークから逃げようかどうしようかと迷っているのが、ルークにはよくわかった。まるで、自室の出窓に撒いてやるパンくずを狙ってくる雀のようだ。
 今思い起こせば、おそらく雀を触ろうと手を伸ばすときのように焦っていたのだと思う。飛んで行ってしまうまでに、この手で触れたい、と。
 そのとたんに、ルークは後ろにバランスを崩した。いつもは母かガイが目の前にいて、いつでもルークを受けられるよう両手を差し出してくれている。その手にいつでも掴まれるよう歩くルークも、少し前屈みになっていたのだろう。転ぶときはいつも前方だった。後方に倒れるのは初めてで、ルークは全く対処が取れなかった。
 両手を前に差し出したまま、ルークは雲一つない、真っ青な空を見た。

 そのとき、小さな叫び声が耳を打った。

 ルークは変わらず空を見上げていたが、その身体に痛い所は一つもなかった。その赤いもの──人が、地面に倒れ込むルークの身体を受け止めてくれたからだ。
 その人はルークに向かって早口で何かを言っていたが、もちろんルークには意味がわからない。その人の身体に触れた耳から、うるさいほどばくばくという鼓動が聴こえた。

 ──捕まえた。

 実際に掴まれたのはルークだったのだが、その時には自分がその赤いものを捕らえたような気がして嬉しくなり、ルークは驚いたように見下ろしてくる顔を見上げて、にっこりと笑った。そのとたん、その人は半分口を開けたまま無言になった。みるみるその髪と同じくらい赤くなった顔が歪み、顔を背けると、それでもルークを抱き起こして、母のような仕草で土を払う。
 その人は、次いで何かをルークに話した。その様子や口調から、きっと何かをルークに言い聞かせていたのだと思う。だがそのときのルークにはその人の言っているであろうことが何一つわからなかった。ややあって、その人もそれに気付いたのであろう、はっとした顔でルークを見下ろし──すっと立てた人差し指を唇に当てた。
 その仕草には、ルークも見覚えがあった。『静かに』という意味だ。ルークは慌てて両の手のひらで口を押さえ、きょろきょろと辺りを見回した。ルークとその人、ここには二人しかいない。なぜ静かにしなければならないのかわからなかった。
「──クさ──」
 そのとき、遠くからルークを呼ぶ声が聞こえた。反射的にそちらに顔を向け、声を上げようとしたルークの唇に触れるか触れないかのところに、すっと何かが翳される。それはさっきと同じように「しーっ」の形に立てられたその人の人差し指だった。
「ルーク様──!」
 ルークは一時、その人と見つめ合った。少しだけ困ったようなその翠の瞳に、ガイには内緒なのだと悟る。「わかった」の意を込めて、ルークはうん、と頷いた。
 するとその人は、くしゃりと泣き笑いのような顔をした。母に似ている、とルークは途端に哀しくなる。何もわからないまでも、自分が常に周囲の人々を悲しませ、失望させていることを、あのころルークは常に感じていた。
 その人は頷き、すっと指を引いた。それから──。

 それから、いきなり地面に踞り、ルークの履いていた柔らかな布靴の甲に口づけると、何かを呟いて立ち上がった。触れようと伸ばしたルークの指先を見つめたまま、避けるように数歩下がる。
「ルーク様! どちらです──?!」
 呼び声が、急に近くなった。
 ガイがルークを捜しているのだ。ルークは転ばないようぎくしゃくと後ろを振り返り、まだガイの姿が見えぬことに落胆した。次にその人の方に視線を戻した時、その人の姿はすでに目の前になく、最初にルークの目を引いた鮮やかな真紅の髪の先が、ちょうど視界から消えたところだった。

 ルークはあれから、その出来事を何度も脳裏で反芻した。
 彼が──後で思い起こせば、彼は自分と同じくらいの少年だった──あのときなぜ屋敷の外庭に現われたのか、ルークに何を言ったのか、今でもルークは尤もらしい理由を見つけられていない。ただ一つ良かったと思うのは、ルークが一人でふらふら動いたことを咎めたのであろうガイに、彼のことを何一つ説明することが出来なかったことだ。そのためその小さな不法侵入者に誰も気がつかず、彼は無事逃げ仰せることが出来た。しきりとルークが東屋の裏の茂みを差しているため、野良犬でも紛れ込んだのかと簡単な捜索はされたが、初めからいないものを見つけられようはずもなく、結局は「お可哀想なルーク様」が外庭に住み着く兎にでも気を取られたのだろうとうやむやにされた。

 ルークも時折、あれは誘拐されたとき使われたかも知れない薬品類による後遺症か、記憶をすべて失った上ぼんやりとしていた自分の白昼夢ではないかと思うのだ。なぜなら、その人──少年は紅い髪と緑の目を持って、自分と同じ顔をしていたからだ。ルークは初めて鏡に映るものが己の顔だと認識した時、信じられずに思わず後ろを振り向いてしまったものだ。それほど、鏡に映る自分の顔と少年は酷似しているように思えた。

 だが、本当に少年の顔が自分と同じ物だったのかも、今となっては断言が出来ない。ガイや白光騎士たちが外庭で野良犬の捜索を行ったことは確かなのだが、少年の顔は自分しか憶えていない。そして自分自身の記憶は、最も信用出来ないものの一つだ。
 少しずつ周囲の状況を飲み込み、自我を取り戻してからも、ルークは結局、あのとき庭に見知らぬ少年が入り込んでいたことを誰にも告げなかった。そのための「しーっ」であったと、しばらく経ってから気付いたせいでもあるが、同じ顔であったという記憶が、例え記憶の混濁による誤りだったとしても、あのとき、屋敷に小さな侵入者がいたことは事実だ。うかうかと誘拐されてしまったルークのせいで屋敷は未だピリピリしているのだし、侵入者があったと知ればなお一層警備は厳しくなり、ルークの生活は更に縛られ、息苦しくなるだろう。
 それ以上に、彼がもう二度とここへ来られなくなってしまうことが怖かった。彼は赤ん坊同然のルークに、何の見返りもなく優しくしてくれた。もう一度会って、転んだルークを受け止めて泥を払ってくれた礼を言いたい。あのとき、何を言ったのか、なぜ靴に口づけたのか聞きたい。彼の顔がルークと瓜二つであるという記憶が真実なのか確かめたい。
 そして問いかけたい。
 あなたは誰なのか?
 何のために屋敷に侵入した?
 …………。

 ……あなたは、おれの、何?

 だが、その真実かどうかもさだかではない記憶のお影で、ルークは兄弟というものにより焦がれるのかも知れなかった。

 遠い記憶に気を取られている間も、強い視線が体中を這っていた。まるで視姦されているようで、あまり気分の良いものではなかった。
 しばらく気付かないふりをしていたが、ちりちりと全身が灼け付きそうなほど熱く、焦がれるような視線は、一向にルークから移動することがない。
 男が男の顔を眺めたところで面白くもないだろうに、何をそう見つめるのか。
 そのあまりの熱心さに、憤りも呆れも通り越して苦笑が漏れる。彼の視線に籠る熱が、賛美であり、崇拝であり、他人がルークを見つめる時のように好奇心や下劣な妄想が欠片も感じられなかったからかもしれない。
「なあ、おれの顔になんか付いてる?」
 口角を上げたまま挑戦的な視線を向けると、アッシュは嗄れた声でいえ、と首を振り、顔を背けて俯いた。
 首筋がほんのりと朱に染まり、そのせいで火傷の痕は惨いほど赤黒くくっきりと浮き上がって見えた。


(2014.08.03)