【02】


「な……」

 その力は、思ったよりも強かった。そして、熱いほどに温かく、かすかに湿っていて、凍えきった指先にじんとした温もりを伝えた。
「は、はな、せ……」
 穢れが、移ってしまう。

 同じ体格と言えど、作られたばかりのレプリカは赤子同然。そんな手など簡単に振り払えた。だが、傷つけるのが怖くて、その体温が嬉しくて、ずっとこうやって繋がっていたくて──彼は手を振り払うことが出来ない。何が嬉しいのか、彼を見上げてしきりに笑い、何事か、言葉ではない部分で一生懸命話しかけようとしている。
 こんなに美しいものに、まともに触れられない自分。放しがたい、温もり。まっすぐに向けられた関心と微笑みに、どっと涙があふれる。

「……放すんだ。お前まで、穢したくない……」

 助けを求めて師を見上げると、あっけにとられたように彼の様子を見つめていた師がその泣き顔に眉根を寄せた。
「ルーク、それはどういう意味だ」
 彼は慌てて目を逸らし、レプリカに視線を戻した。師はまだ若く、なにかと青臭いが、まっすぐな人物だ。大人の男に恐怖心を感じるようになった彼が、肩に触れてくる師の手に体温以外のものを感じないのがその証拠だ。
「子どもは穢れなど持たぬもの。子どもにそう思わせるのは、大人の罪というものだ。そんなふうに考えるのはやめなさい」
 彼の細い肩を掴む手には慰めと思いやり、彼が受けてきただろう仕打ちに対する怒りの気配を感じる。
 彼はそっと目を伏せた。おそらく、勘付かれた。何をされているのかまでは知らなかっただろうが、師は彼が月に一度研究者たちに身体を調べられていることを知っている。
「もう少し早く連れ出してやれたら良かったんだが……」
 彼は俯いたまま首を振った。仮にも公爵家の一人息子を言いくるめて家を捨てさせるのだから、事は慎重に進める必要があっただろう。彼を何不自由ない貴族の子弟と思っていた師には、十歳はまだ早すぎる。だがあと少し遅ければ、彼はおそらく本懐を遂げていただろうから──死に場所はそれほど自由に選べなかったかも知れないが──おそらくここが最も良い時機だったのだ。
「感謝しています、ヴァン師匠。……こんなに綺麗なものを見せて下さったことにも」
「これを綺麗……というか……」
 師はレプリカに向けていた道ばたの石ころを眺めるような無機質な視線に苦笑を乗せた。その横顔に、ほっと息を吐く。深く追求しないのが師の思いやりだとわかった。良くも悪くも純粋な師は、きっと彼が受けて来た汚辱の半分も想像できないだろう。だが、それでいい。少なくとも師は、あの無限地獄から彼を救い出してくれた。

 弟子と同じものが見えるかどうか、訝しげにレプリカを見つめていた師は、ふと、その冷たくも見える薄蒼い瞳を懐かしげに和ませた。「照柿か」
「てり、がき?」
「そのレプリカの髪の色。私の故郷にあった、柿という果実の色だ。熟した柿の……皮の色だ」
「柿……。おいしいのですか」
「ああ。いろいろな名前のものがあったな。とても甘い。酒で渋を抜いたのが特に好物だった。あれほど甘い果実を、私は他に知らない」
「どこに行けば手に入りますか」
「あれは……ない。もうどこにも」
 そう言った後、師はバツの悪そうな顔をして黙ってしまった。ごく普通の会話のように思えたが、何か話すべきではないことが混じっていたのかもしれない。
 彼はじっと師を見上げていた視線を外し、レプリカに取られたままの手に戻した。
「すみません。詮索する気はありませんでした」
 彼はそう言い、甘い果実に似ているというレプリカの髪を見つめた。どうごまかしようもなく、王族に現れる真紅とはまるで違う。太陽に照らされたオレンジよりなお濃い。その柿という果実は、どのような味をしているのだろう。
「……何をしている、ルーク」
 呆れたような師の声にふと我に返ると、彼はレプリカの上にかがみ込み、その柔らかな照柿の髪を一房掬い取って口に含んでいた。
「……本当だ」
 甘い。
 彼の口の中をしゃらしゃらとくすぐる髪の感触を夢中で堪能していると、まるで真似をするように、レプリカが自分の上に降り掛かった真紅の髪を掴み、じゃりじゃりと食み始めた。
 彼は慌てて身を起こし、唾液でべとべとになった髪をレプリカから取り上げた。自分が含んでしまったところも同じように濡れているのに気付き、汚してしまったと青くなり、持っていた短剣でその一房を慎重に切り取る。
 すっかりよだれだらけになってしまったレプリカの口を拭おうとハンカチを探していると、レプリカがひくりと息を吸い込み、くしゃりと顔を歪めた。
 あ。──泣く。
「せ、師匠。抱いてやって下さい!」
「なに? ……」
 急いて頼むと、師は慌ててレプリカを抱き上げて、困ったようにその背を優しく撫でた。
「一体どうしたのだ、ルーク。これはただの模造品にすぎぬ。あまり情を移すな」
「この子は俺の模造品なんかじゃありません。こんなに綺麗でかわいいのに」
 複製にすぎないものなら、この子はもっと汚らしい、醜いもののはずだ。でも、この子に汚いところなど、一つも見当たらない。
 彼は陶然とレプリカの子どもを見つめた。
 この子は、自分の中にあった最上のものだけを集めて造られたのだ。穢されず、冒させず、これだけのものを護り通せた自分が誇らしい。まっすぐに彼を見つめる澄んだ翡翠の瞳より綺麗なものが、この世にあるとは思えなかった。
 彼は切り取った一房の髪を丁寧にハンカチに包み、ポケットに入れた。
「師匠。この子をあそこにやるのは、考え直してもらえませんか」
「なに? 馬鹿を言うな、ルーク。お前は秘預言の要、キムラスカにとっては繁栄の鍵なのだ。これを戻さねば、いつまでも捜索が行われるではないか」
 駄目で元々の願いは、やはりあっさりと一蹴された。当然だ、彼は預言の年まであと八年は死ぬはずがない。『未曾有の繁栄』の生け贄を探して、キムラスカはどこまでも手を広げてくるだろう。それはきっと、師の計画に支障を来す。
「お願いします。それではせめて刷り込みをしないで下さい。このままの状態であるなら……少しだけ、嫌なことを先に延ばせるかも……ほんの少しだけでも苦しみが先になるように……」
 記憶のほとんどがないとはいえ、刷り込み教育されたレプリカは早晩彼の代わりにベルケンドに向かい、この世の地獄を味わうことになるだろう。師がレプリカを必要とする日までそれを避けることができればいいのだが、おそらくそれは不可能だ。
 僅かに残っていた、彼の綺麗な部分から造られた奇跡のような子どもが、あのけだものたちに踏みにじられ、汚辱に塗れるのかと思うと、擦り切れてもう動くこともないと思っていた心がひどく痛む。
 目が合うと、レプリカの顔にゆっくりと無邪気な笑みが広がった。彼に触れようと伸ばしてくる手には、それ以外のなんの意図もない。

 この子を、護りたい。
 せめてこの無垢で純粋な瞳には、綺麗なものだけを映していて欲しい。

 生まれてきて初めて、生きようという強い意志が沸き上がった。

 国も、家名も、両親ですらこの子を守らないのなら、俺が護ろう──

 師を騙した形になるが、レプリカがバチカルに戻されたあと、彼はどこかに死に場所を見つけて速やかに命を絶つつもりでいた。
 それを撤回する。
 そうだ、レプリカの命もあと八年しかない。そのくらい先延ばしにしたって、今更なにも変わらない。すでに自由は得た。師の元にいて、これまで以上に悪いことなど起こりようはずもない。八年は長いが──この子を護るためにあと八年、生きよう。そしてこの子と一緒に、鉱山の街で死のう。

 ……その一瞬ならば、この穢れた身体で思い切り触れても、許されるかも知れない……。

「師匠。俺はあなたが何を目論み、どのように俺を利用するのかには興味がない。ですがこの子をこのままで返し、共に護ってくださるのなら──」
 師に抱き上げられていてもなお彼だけを熱心に見つめているレプリカから苦労して視線を外し、師を見上げる。探るような不躾な視線が、僅かな不審をまとい、彼を見下ろしている。
「──あなたのために、俺は何でもしよう。どんなに汚いことも、どんなにみじめなことも。決して許されざることでも。あなたの命とあらば、……それが親殺しであろうと、従うと誓う」

「『親殺し』とな」彼の覚悟を聞いたとたん、師は満足そうに哄笑した。「良い覚悟だ、ルーク!」
「……では?」
「いいだろう。レプリカはこのまま返す。親鳥のように見守ってやろうよ。再び剣術の指南に向かうようになれば、様子もいろいろ話してやれるだろう。そのぶん、お前には思い切り働いてもらうぞ」
「ありがとうございます。面倒なことをお願いして申し訳ありません」彼はほっと息を吐いた。
「髪の色の劣化は致命的だったが、幸いにもこのレプリカはお前の完全同位体だ。多少難があろうが、なに、押し通せるだろう」
「完全同位体? ……ではこの子もローレライの同位体なのですか?」
 そうだという師の声を遠くで聞きながら、彼の心は新たな感動で一杯になった。

 今、わかった。

 この小さな生神を人の世に降ろすためだけに、彼はローレライの同位体という業を背負って生まれてきたのだ。
 やはり、この子は自分の複製などではなかった。世界が真に望むのは、この罪なき無垢な命。造られた命は、人が生まれ落ちたときすでに持っているという罪を持たない。
 腐り朽ちていくばかりの己をずっと嫌悪して来たが、彼が汚辱に沈められていなければ、彼を利用しようと企む師の手など取りはしなかっただろう。そうなれば、この子は決してこの世に現われることなどなかったのだ。

 ほとんど崇拝にも似た歓びが起こり、彼は何が嬉しいのかにこにこと一心に彼を見つめる子どもを覗き込んだ。
「……ふ。お前もちゃんと笑えたのだな……」
「え?」
「お前だ、ルーク。笑っているところなど、初めてみたぞ」師は薄青の瞳に笑みを刷き、なあ、と子どもに話しかけた。「お前の被験者はいつも難しい顔をしていて、こんな風に笑ったりはしないのだよ。笑ったのは、お前のお陰だな」
 気付くと、師が子どもを見る目もずいぶん和んでいる。師にしてみれば、道具として使うつもりで造ったのだから、出来の善し悪しはきっと大切なことだったのだろう。
「……む。もう眠いのか」
 身体の大きな師にゆったりと抱かれ、いつの間にか子どもの目がとろんとしてきている。ぽわ、と可愛らしい口が小さく開いて、眠りの気配をまとった吐息が漏れた。
「そのようですね」
 どれ、少し寝かせてくるかと子どもを抱いたまま歩き出した師は、もう一度硝子の棺に寝かせる気はないようだ。
 彼は師の大きな背中を見上げながら歩き出し、少し笑った。彼に影響されてしまったのか、あるいは──師の思い出に強く残る果実の色をした髪が、心の琴線に触れたのか。
 後ろから、桜貝のような小さな爪が付いた子どもの足先だけが見える。それが師の歩みにつれて微かに揺れているのをじっと見つめながら、彼はレプリカの唾液に濡れて冷えた髪の先を銜えた。吸うと、くらくらするほど甘く冷たいレプリカの味が広がる。
 くらりと、酔ったように身体の重心が不安定になり、胸に熱いものが満ちていく。

 それは彼にとって、甘露に他ならなかった。


(2013.12.12)