そこは細工に使う様々な道具や材料、大きな作品などが雑多に置かれた、作業場のような薄暗い店内だった。
奥の窓際の作業台にだけ、差し込んだ明るい陽光が当たり、まるで置物のようにちょこんと座った老人がいらっしゃい、というように軽く会釈をし、面白そうな視線をルークに向けて道具を置いた。
「もしかして、旦那さんと一緒に来たのかい?」
「う、うん。久しぶりカウリッツさん。ライラから伝言貰ってたのに、なかなか来られなくって、ごめんね」
「ああ、いいよ。前金で貰ってるんだし、気にするこたあない。──ここにお座り」
少し腹の出て来たルークのために店主が出してくれた椅子に座ると、老人がルークの前に大きなペンダントトップのようなものを置いた。涙型の澄んだ新緑の色の翡翠の周囲を、老人の真骨頂である銀細工が縁取る。その意匠は具象化された何かの猛禽のようで、非常に細かいが、繊細ではなく、まるで大剣の飾りかなにかのように、どこか豪壮なおおらかさと無骨さとを持っている。
「わあ、さすがカウリッツさん! ……なんていうか、すごくうちのひとっぽい!」
「そりゃあ良かった」老人はにこにこと嬉しげに笑い、「お守りにして剣帯に付けるとあんたが言い出した時にはあんまりぴんとこなかったもんだが、色々描いてる間にこういう感じが一番アシュレイさんのイメージにぴったりかと思ってね」
「ぴったりだよ! うちのひとはどっちかって言うと虎とか狼みたいなイメージだなって思ってたのに……この鳥……本当にぴったり」
「お守りならフェニックスだと思ってねえ……」
「ああ、これが……」
ルークは目を見張ってその鳥を見つめた。それは香木と、己を燃やした聖なる灰の中から何度でも蘇るという不死の鳥。
「アシュレイ」の名が本当はアッシュ──灰であることなど知るはずのない老人が、ルークが候補に挙げたどの獣でもなくそれを選び取ったことに強い感動を覚えて、ルークは心の底からありがとうと告げた。
「えっとね……ほら、こんな感じ」
ルークは涙型の翡翠の上に付いている金具を摘み、腰のあたりで揺らしてみせた。
「ここなら邪魔にならないし、動くとゆらゆらしてすごくカッコいいと思うんだ──っていうか、うちのひとが仕事中絶対に側から離さないものっていうと剣くらいなんだもん、お守りを付けようと思ったら剣帯しかないんだよね」
「翡翠はあらゆる災厄から持ち主を護ると昔から言われるから、アシュレイさんに持たせるにはちょうどいいね。でも、内緒だったんだろ? 今日なんて言って来たんだい」
「えへへ……釦を取りにって。前も頼んだでしょ? だからへーって感じで何にも」
「そうかい」老人はこの若い夫婦の仲の良さに思わず相好を崩した。こういった業界は狭く、伝達や要請という形で様々な情報が回ってくるものだ。例えば、目の前で瞳と同じ色の宝石に見入っている可愛らしい奥方の知らない、夫の探し物のこととか。
「待っておいで。冷たい炭酸水を持って来よう」
「ありがと!」
ルークはしみじみと翡翠の美しい翠に見入った。
翡翠は持ち主から怪我や病を遠ざけるという。初めて見たとき、アッシュの瞳の色だと思ったが、老人はアッシュの目の色はもう少し濃いから、これはあんたの色だと言った。ルーク自身にはそのささやかな色の違いが良く分からないのだが、自分の色がアッシュを護るというのは、とても良い思いつきのように思えた。
ルークには全くわからないのだが、実は中心部の方が少し濁ってしまっていて一級品とは言えないのだそうだ。そのせいで値段はかなり落ちていたし、老人が更にお得意様価格にしてくれたのでルークにも買うことが出来たが、それでも宝石は宝石、かなりの値段であることには変わりがない。だが、危険な仕事に就いているアッシュに、ルークは気休めとわかっていてもお守りを持たせたかった。
何かの時のために、アッシュも知らないお金を少しずつ貯めているのだが、こういうことがあるとついアッシュのために使ってしまって、なかなか上手にへそくりの作れないルークはつい苦笑してしまう。
でも思い切って良かったようだ。老人の腕は一流で、感性もルークに近い。予想以上に良いものが出来た。
大満足で、柑橘類の果汁が加えられた冷えた炭酸水を頂き、老人ととりとめのない世間話をしていると、ややあって用事を済ませたらしいアッシュが、軽やかなドアベルの音をさせて中に入って来た。
休んだお陰ですっかり元気になったルークはまたも歩き回り、造りのしっかりしたシンプルな剣帯を買った。自分のもののはずなのに、ブーツ同様アッシュが口を差し挟むことも出来ずにルークが決めて行ってしまうことが、なんだかアッシュにはとても新鮮で、だが面映く感じる。男性上位社会である貴族の生活と比べて、こういったどこにでもいる市井の奥さん──ほんのちょっぴり亭主を尻に敷いている──っぽいルークを見ていると、「夫婦」という関係がより強く感じられるからかもしれない。
今日の目的をきっちり終えて、特に目的もなくぶらぶらと左右に並ぶ店や露天を素見して回る。
いつも以上に綺麗に装ったルークが楽しそうに目を輝かせて自分の腕にしがみついているのが、アッシュにはしみじみと嬉しい。通りすがりの男たちの感嘆の視線が集まれば集まるだけ鼻は高くなるが、反面心配の種が増していくのが唯一困ったところか。しかしこんな悩みは幸せの形の一つでもあるのだろう。
「なんだかデートっぽいね!」
「そうか?」
「あ。あれ美味しそう!」
日差しの強いケセドニアの街で、一際人だかりの多いアイスクリームの屋台を見つけて、ルークが顔を輝かせる。
「ね、アッシュ! 買って買って!」
小さな子どものようにはしゃいでいる姿に苦笑して、引きずられるように屋台に辿り着くと、ああでもないこうでもないとさんざん悩んで定番のバニラに煮詰めたバルサミコをかけたものを注文した。
「おいしいっ」
一匙を口に入れて、ルークが幸せそうに顔を綻ばせる。
「アッシュ」
ルークがスプーンをアッシュに向ける。
「俺はいい」
「一口だけ。……ね?」
苦笑して顔を寄せると、トロリと黒いソースの絡んだ卵色のバニラが口の中に差し入れられる。丁寧に作られたアイスクリームに、甘酸っぱいこくのあるバルサミコがとても合っていて、口の中でさらりと冷たく解けた。
「うん、うまいな」
「……うちで作ると、どんなにマメに掻き混ぜても氷の粒みたいのが出来ちゃうよね。なんでお店のはそうならないのかな」
「譜業でずっと混ぜてるからじゃねえのか。……俺は、お前の作るあのシャリッとしたのも好きだ」
ルークの髪が器に入りそうになっているのに気付き、伸ばした手で優しく後ろに流してやりながら、アッシュは独り言のように続けた。「……外で下ろしているのは久しぶりに見た」
「……アッシュが、髪、下ろしてるのが好きって言ったから……」
夫のために、自分の一番綺麗な姿を見せようとしてくれたルークに愛おしさが込み上げるが、今ルークが家事や仕事の邪魔になる長い髪を下ろすのがどういう時であるのか少し考えてみて欲しかったとアッシュは思う。
白の似合うルーク。
なにものにも染まらない真っ白ですべらかな体。小さな肩と、大きくまろやかな胸を、毛先が金に変じた髪が波打って覆う。その隙間から押し上げるように覗く、淡い紅色の乳首。その体が、他ならぬ自分だけに開かれているという優越感と喜び。そんなものを、解かれた髪は思い起こさせる。服が白であるからこそ余計に、明るい町中で見るべきではないもののようにも思えるのだ。──むろんそんなことを思うのは、すべてを知る自分一人だけなんだろうが。
ルークが器にスプーンを入れると、後ろに回してやったばかりの髪が、またさらりと零れてくる。反射的に手を伸ばし、再び後ろに流してやろうとしたのだが……。
「お前、腹減ってるか」
「えっ」
突然の質問にルークはきょとんとアッシュを見上げた。朝食が遅かったから、昼食は食べていない。こういう日は少し早めに夕食を摂るべきなのだが、それにはまだ早すぎる。
「ううん、まだ。アッシュはお腹空いた?」
アイスクリームを食べながら無邪気に問いかけたルークは、アッシュがルークの髪に触れたまま指を絡めたり解いたりし始めたのを見て、ああ、と頬を染めた。
「……今?」
「うちまで我慢出来そうにねえ」
「もう……」
「今回に限ってはお前が悪いだろ。髪、下ろしたりしてやがるから……」
言われるまで気付かなかったのも迂闊だったが、確かにもうずっと、家事や縫い物の邪魔になる髪を下ろすのは……。
真っ赤になって俯いたルークの顔を覗き込むように「嫌か」と聞くと、微かに、本当に微かに首が左右に振られた。
正面からこちらへ向かってくる人の姿が目に入ったとたん、ルークがびくりと竦み上がってアッシュにしがみつき、顔を隠す。二人はケセドニアの中心地でありながら昼でも薄暗い界隈へと足を踏み入れていた。
目的地が、男女がただ抱き合うために作られた宿なのだということがさすがに分からないルークではなく、おそらく自分たちがそこへ行こうとしていることも行き交う人には分かっているだろうと思うと、ルークは恥ずかしさに顔を上げることさえ出来ずにいる。
支払いも何もかもをアッシュの背中に張り付いたままで任せ、薄暗い部屋へ入ると、ほっとするあまり涙が滲むのと同時に、こんな入り組んだ場所に来るのに迷うことがなかったアッシュに腹立たしい思いも込み上げてくる。
「……もしかして、前にも来たことがあるの?」
「ここか?……いや」
「ここじゃないとこなら?」
「……結婚してからは、ねえぞ」
「……あるんだ」
アッシュは素人には一度も手を出さなかった。普通に、普通の女性とは付き合ったことがないということだ。そんな時間も心のゆとりも無かったし、万が一のしくじりを恐れたため、娼婦を買ったり娼館に足を運んだ回数もおそらく両手で足りるほど少ない──いや、同じ年頃の極普通の男からすると平均レベルなのだろうが、戦いの興奮を女の肌で鎮めようとする傾向にある軍にあっては驚異的なほどに少ないと言えるだろう。
「私は一度もないのにー。ずるいよ」
「前……男の時もか?」
ちょっと驚いたようにアッシュが言うのにルークはふて腐れてそっぽを向いた。
女のルークが男を知らないと言うことは疑う余地もなかったし実際そうだったけれど、まさか男の時からまっさらなままであったとは完全に想定外だったため、アッシュは一瞬言葉を失ったが、すぐに笑って口を尖らせているルークを抱き寄せて、髪を柔らかく掴んだままの指先でうなじを撫でる。
「……ありがとう」
「ふん、だ」
ぷりぷりしているにも関わらず、抱き寄せると柔らかく添ってくる。顔を上げさせても抵抗する力はなく、顔を寄せると静かに目を閉じる。甘い唇はいつでもアッシュを待っているように、艶やかで赤い。
肩を、胸を、膨らみ始めた腹を撫でるように少しずつ服を脱がせて行くと、ルークもキスに答えながらアッシュのシャツのボタンを一つずつ外していき、胸に小さな手のひらを這わせた。いつもはどちらかと言えばひんやりしているルークの手がこの時ばかりは燃えるように熱い。彼女もまた欲しがっているのだと、言い知れぬ興奮を覚えた。
ルークの手は、エルドラントでアッシュを貫いた大きな傷の痕を愛しむように何度も辿り、飾りでしかない乳首に触れる。気持ちがいいような、くすぐったいような感覚に思わず息を飲み、吐息のような小さな喘ぎをひとつ落として、アッシュはルークの左手を取って口に入れた。
且つてのルークは、こんなところでも性的な興奮を呼び覚ますことが出来ることなど知らなかった。指の一本一本、指と指の間までを丁寧に舐められていると、そしてその舌の動きを見つめていると、心地よさと同時に、まるで自分がアッシュの雄そのものを口で愛撫している時のような興奮が襲ってくる。
息を乱しながらアッシュの胸に唇を這わせていると、ふいに指に固いものが通った。
「……?」
とろりと酔った目でアッシュを見上げると、アッシュの舌の間に何か鈍く光るものが見え隠れしている。
「……なに……?」
手を軽く引くと、さした抵抗もなく戻ってきたその手の薬指には、先ほどまではなかった白金の華奢な指輪が嵌っていた。