名前を呼ばれたような気がして寝室を振り返り、ルークは慌てて炊事中の手を洗い流して濡れた手を拭いた。
「はいはーい、ここにいるよ!」
最初に呼ばれたのはおそらく確かなのだろうが、その後ルーク、ルークと何度も呼ばわる声が聞こえると思うのは、きっと焦りからくる気のせい……のはず。
「はいはい、待ってね、ちょっと待って……! すぐに行くから……!」
いつもは起こしに行くまで絶対に起きやしないのに、なんで休みの日になるとこんなに早く自分で目を覚ますのだろう。
「私は台所にいるからねー!」
大声を出して居場所の主張をしながら、あとで温め直すスープ以外の朝食をテーブルに並べ、ルークは慌てて寝室に向かった。
何度も呼ばれたと思うのが空耳であったのかどうなのか、アッシュはいつも通りおとなしく二度寝をしている様子だ。だが顔を覗き込んでみると、眉間には壮絶に皺がより、ルークが眠っていたはずの場所に、ゆっくりと腕を彷徨わせている。
ルークは髪を上げた髪留めを引き抜いてエプロンを外し、その横にするりと滑り込んだ。枕と首の隙間に腕を差し入れると、アッシュがこれも毎朝のように、ルークの胸にぬーっと顔を突っ込んでくる。
「おはよ、アッシュ。朝ご飯、出来てるよ」
アッシュの頭を抱え込んで、少し前に染め直したばかりの黒髪にキスをすると、アッシュの喉の奥からくぅ、という甘えたような声が聞え、おかしさと愛おしさとに口元が綻んだ。
「起きて食べよ? 今日は一緒に出かけるって約束でしょ」
すると、いつもは本当に起こすのに手こずるアッシュが、唸り声一つ漏らして薄目を開けた。「──起きたらいねえから……」
「ごめんね。ご飯作ってただけだよ。ちゃんといるから……ね?」
一度起こして腕の中からすり抜けたあと、二度目に起こしに行くときアッシュは大概二度寝に突入してしまっているのだが、休みの日に限って中途半端に自分で起きて、腕の中にルークがいないことに気付いて騒ぎ出すことがある。最初にルークがアッシュを起こす時は半覚醒状態なものだから、一度自分から手放してやったことなど憶えていないようなのだ。以前トイレに入っているときに何度も名を呼ばれ、窓から庭を覗き、クローゼットやシンクの下の戸棚を探し、果てはルークが入っているはずのない引き出しまでガタガタ開けて騒いでいたのは一生忘れることが出来ないだろう。
大声で居場所を知らせることが出来ず、真っ赤になってトイレから飛び出したときに本気で叱るべきだったのに、心底ほっとしたような汗だくの顔を見て、喉元まで迫り上がって来ていた文句を飲み込んだのが間違いだった。こんなことが起こる度にルークは、赤ん坊が眠っている間に家の様々な用事を済ませようと四苦八苦している友人たちを思い出す。お腹の子どもが産まれる前に、すでに赤ん坊を一人抱え込んだようなものだった。
アッシュを抱き締めたまま、トントン、トントン……と背中を叩いていると、「だっこ」の気の済んだころ、寝起きで掠れた声がよく聞き取れない「おはよう」を言い、ルークを見上げて軽いキスをする。今にも閉じてしまいそうな眠たげな翡翠の瞳が幾度か瞬いたあと、アッシュは唸りながらようやっと身を起こした。
数日前の夜、ルークが「明日、市街まで買い物に出るね」と言ったとき、少し考え込んだアッシュが、自分もちょっと用があるから、週末まで待てるのなら仕事も休み出し一緒に行くと言い出した。
数日を待てないほど急ぎの買い物でもなかったし、このところ二人でのんびりと出かける時間もなかったため、ルークは週末が楽しみで仕方なく、指折り数えていたのだが、こう、おとなしく起き出してきたところを見ると、アッシュもおそらく同じような気持ちでいてくれたのだろう。
思わずアッシュの首に腕を回し、すこしぼんやりしている目元や頬にキスをすると、アッシュはくすぐったそうに目を細めて、ようやく焦点の合った目で最愛の半身を見つめた。
卵形の小さな白い顔に、柔らかく描かれた眉、普段よりもほんの少し色味の濃い目元。髪の色味に近い茶で丁寧に引かれたラインは、元々大きな目元を更に強調する。小さな、ぷっくりとした唇もまた、普段とは違う色をして濡れたように艶やかな光を纏う。その顔は、ねじって上げられていたためにゆるやかに癖の付いた銀朱の髪が柔らかく彩っていた。
派手な駆け落ちの時に、染料を落とされたままの姿でケセドニアに戻ってきてしまったため、ルークの髪はもう自然のままの色なのだ。市井の人々はキムラスカ王族の髪色が紅であることなど知りもしないのだし、仲間たちにバレているのなら、今更わざわざ変える必要もなかった。変えるべきだとも思わない。この、毛先に行くに従って金色に色が抜けて行く焔の色は、アッシュが何より愛するものの一つだった。
その毛先がふんわりと零れる服は、家事で汚れるのを嫌ったルークが普段は決して着ない白。
そっと手を取って唇に当てると、綺麗にやすりの掛かった爪は淡い桜色に染められてツヤツヤと輝いていた。
夫との外出のために、普段と違う支度をしたのは明らかで、アッシュは込み上げる喜びと愛おしさにもう一度だけ強く妻を抱き締めて、ようやく洗顔のために立ち上がったのだった。
いつもは上げられた髪を流したままにして、少しだけ目立つようになってきた腹をゆったりと隠す白いシフォンを重ねたチュニック、七部丈のパンツにショートブーツのルークは、普段より三割増しで少女めいて見え、ずっと可愛らしく綺麗に見える。日に焼けた腕に、じゃれかかるようにルークの腕が回された瞬間、アッシュはほんの少し目元を和らげ、ルークを見下ろした。
きりりと上がった眉に対して、アッシュの切れ長の目尻はほんの少し下がっている。顔立ちからすれば遊び人風の優男とも言えるものを決してそう見せないのは、みっしりと隙なく張り詰めた筋肉と、板でも入れたように真っ直ぐな背筋だ。纏った雰囲気は、どこか固く、隙がない。幼少のころから神託の盾で叩き込まれた軍人気質はそうそう変わることはないのだろう。
端から見れば怒っているようにさえ見える厳しい表情の男の傍らに、ふわふわとした柔らかい雰囲気の、可愛い少女のような女が寄り添うと、常ならば一体どういう関係の二人なのかと人目を引くものなのだろうが、風がふわりと女の白い服を体に纏い付かせるとき、微かに目立ち初めた腹がどうしても真っ先に目につくことになり、二人が夫婦であることが容易に知れるのだった。一見釣り合わない夫婦のようにも見える彼らだが、ふと、傍らの女を見下ろす男の目が、優しい微笑みを佩いて和めば、見たものはなんだ、意外に似合いではないかとほっとすることになるのだ。
アッシュに気遣われながら、二人はゆっくりと歩く。中心地まではこのペースだと一時間半はかかるだろうが、別に急いでいるわけでもない。
「もっとお腹が大きくなったら、市街まで歩くのはしんどいかもしれないし、だからって馬車に揺られるのも良くなさそうだし、こんな風に二人で出かけるのは最後かも知れないね」
「──そうだな。歩くのはいいと先生は言ってたが、さすがにこの距離の往復は道中が心配だ。運動なら、近所をぐるぐる歩いてろ」
「えーっ?!」
つまらないことを言う夫に口を尖らせて不満の声をあげてみせたルークだったが、何か思いついたようで、すぐに顔を明るくする。
「それなら、今日は普通の恋人同士みたいなデートがしたいなあ。私たち、そんなのしたこと、多分無いよね?」
「……そうかもな。分かった」
そうルークが言い出すと、アッシュは少し驚いたものの、「普通の女の子」ならおそらく普通の要求なのだろうと二つ返事で頷いた。
ルークを連れて初めてバチカルから飛び出してここで生活していた時は、二人は夫婦ではなかった。恋人同士ですら。
大騒ぎの果てにここに戻って来た時には、港から直接聖堂に駆け込み、小半時後に出て来た時には二人はもう夫婦だったのだから、恋人期間など船の上だけのことで、本当に無かったのだ。
今日はノーム、週末のため、ケセドニアの中心地も人通りが多い。アッシュはともかく、ルークは普段この辺りまで出てくることは滅多にないので、楽しそうに、珍しそうに辺りを見回していて、ともすれば腕を離してふらふらと離れて行きそうになるのを、アッシュは注意深く捕まえていなければならなかった。
「買わねえといけねえと言ってたものはなんだ」
「あっ、えっとー……細工をお願いした釦……? あと、アッシュの剣帯とブーツ」
「ブーツ? 何足持たせる気だ」
「こないだ手入れしてて、一足、靴底が少し痛んでるなあと思って。古いの処分して、新しいの買おうよ」
「ああ……あれか。もう少しいけんだろ」
「だめ。靴底がすり減ってると戦闘になったとき踏ん張り効かなくて怖いから。いい加減買い替え時だよ。剣帯もそうだけど、アッシュの命を守ってくれるものだもん、ケチるとこじゃないだろ」
「履き心地は悪くねえが」
「少し革が薄いな。これは?」
「……動きやすいし、着脱が楽だ」
「少し短いな。臑は全部覆って欲しい。これは?」
「……つま先が動いて踏ん張りが効きやすい」
「色がもう少し濃ければ完璧だったのに! ──次、これは?」
「……」
ルークはほんの少しの妥協も許さなかった。履き心地や動きやすさ、丈夫さだけでなく、デザインまで吟味してルークがアッシュのブーツを買ったころには、アッシュは女性の買い物に付き合うのを嫌がる男の気持ちが少しわかったような気がしていた。もちろん二人は趣味が良く似ているため、最終的にルークが買ったものはアッシュも気に入ったのだが、自分一人ならここまで粘らなかったように思う。これがまた剣帯で繰り返されるのかと思うと気が遠くなりそうだったが、それでも楽しそうなルークを見ると文句が口を飛び出る前に萎んでいってしまうのだから、これが惚れた弱みと言うものなのだろう。
「そう言えば、アッシュも用があるって言ってたよね」
店の位置を考えると、次はルークの目的地が近い。靴屋を出たあとで左右の店を覗きながら歩き、香り付きのインクや封鑞などというわけの分からないものにうっとり見入っていたルークに、アッシュがそれを衝動買いしてやったりしながら店に近づいてきたころ、ふいにルークが思い出したようにアッシュを見上げた。
「ああ。お前を店まで送ったら、俺はそっちへ顔を出してくる。迎えに行くまでそこで時間潰していられるか?」
「う、うん。その方がいい、かな? 私もちょっと……一月ぶりだからおじさんと少し話したい」
「わかった。一人でふらふら出るんじゃねえぞ」
「わかってるってば」
銀細工師の店にルークを送ると、アッシュは急ぎ足で人混みの向こうへ消えて行った。ルークはアッシュの姿が完全に消えたのを見届けてから店の中に入り、更に少し外の様子を窺ってからようやく店の中に視線を戻した。
10.000を踏まれたKEI様のリクエストは、鉄壁淑女シリーズ(笑)「禍つ日の〜」設定での日常のラブラブ、ということでした。 それが意外に難しく(何でだ……)ちょっぴり特別な日仕様になってしまい、すみません>< (2011.07.02)