Mark Like Mine IF 5話

 手の中の冷たい革袋が、からんと涼しい音を立てた。

「意地はってないで、ナタリアに治してもらえよ」
 隣のベッドに腹這いになり、汚い字でなにか書き付けているらしいルークが、呆れたように言った。アッシュは返事をしなかった。
「言っとくけど、おれはアッシュモドキにチクったこと、全然わりいと思ってねえからな」
 無視されたことで、アッシュがまだ怒っていることはわかったのだろう。しかしいつものルークならそれでも遠慮がちにアッシュの様子をうかがってくるのに、自業自得とばかりに一瞥すらよこさない。

 アッシュは己のレプリカの反抗的な態度にますます怒りをかき立てられながら、それも無視して、腫れ上がった頬に氷の入った袋を当てた。何もかもが忌々しく、腹立たしい。朝、倒れたルークモドキを抱き上げたルークに「お前のレプリカだってことが恥ずかしい」と吐き捨てられたことも、少し前に顔を出したアッシュモドキに何があったと問われてルークがすべて話してしまったことも。そして話を聞いていたナタリアに悲しげな顔をされ、「あなたは変わってしまった」と呟かれたことも。

 だが何より腹立たしいのは、予期していたにも関わらず、壁際に吹っ飛ばされるほどの力で拳を振り抜かれ、ほんの一瞬、意識を失ってしまったことだ。そのわずか数秒で、アッシュは反撃の機会を逃した。アッシュモドキはいつまでもアッシュにかかずらったりせず、己の半身の元へさっさと駆けさってしまったのだ。

「……てめえはムカつかねえのかよ? 自分が、そう……」
 苛立ちに食いしばった歯の間からきしるように声を絞り出すと、「んー」と何かを能天気に考えるような声がして、部屋には再びさらさらとペン先が紙面をすべる音だけが聞こえた。カラ、と革袋の中の氷が音を立てる。
「お前がなんでそんなこと気にすんのかわかんねえんだよな、おれ。人のことじゃん。あの二人にはすげー興味あるけどさ。ほら、よその世界でのおれたち、っていうわりにはあんまり違うし。アッシュモドキはいいヤツだし、おれは好きだな」
 仰向けに横たわり、口元にも氷をあてながら、本当に何も気負った様子のないルークを横目でみた。時おりペン先を迷わせながら、子どもっぽく腿の裏を振り上げたかかとで左右交互にたたいている。
「止めろ。インクがこぼれるだろうが」
「慣れてんだよ」ルークはにこりともせずに言い返したあと、「大体さ、アッシュモドキが別の世界のお前だって言ったって、全然違うじゃん。ルークモドキはあんまり話してねえからまだわかんねえけど、多分同じくらいおれとは違うんだよ。だからアッシュモドキが一目で見分けたんだろ。お前もそうだろうけど、おれだってお前のこと女の子好きになるように好きになったりできねえんだし、もう他人でいいじゃん。男同士で付き合ってるやつらをオールドラント中探しまわって「気持ちわりい」って言って歩きたいわけじゃないんならさ」
「やっぱりてめえは屑だな!」
 気持ち悪いのは、彼らがアッシュたちモドキであるからだ。アッシュたち自身のようなものであるからだ。いわばアッシュ自身が隣のベッドでふて腐れている劣化レプリカを組み敷くようなものだからこそ気持ち悪いのに、なぜそれがわからないのだ。
 それともルークは、自分に押し倒されたとしても気持ち悪くなどないというのか。
 その考えに改めてゾッと悪寒が走り、体中の肌が泡立ったのがわかった。
「はっ。乳首舐められて情でも移ったのか。それならあいつが言うよう、お前モドキと交互にしゃぶってやったらどうだ?」
「……はあ?」
 痛みをこらえて唇を歪め、ルークを嘲ったが、やはりアッシュを見ようともせず、ルークは怪訝そうに答えた。
「意味わかんね。あれだって突然でびっくりしたけど、別にたいしたことじゃねえし。くすぐられたようなもんじゃん──っと。終わり。さって、おれは寝るぜ。お前も夜中にほっぺた疼いて目を覚ましたくなかったら、ナタリアに頭下げてこいよ。おやすみー」
 寝るのにはずいぶん早い時間だったが、片手に足りるほどだが宿が重なることもあり、ルークの就寝がおそろしく早いのは知っていた。
 だが今日のような日には、それが彼があの二人にアッシュほどの不快感を持っていないことの証明にも思われ、腹立たしかった。この怒りが収まるまで、アッシュは眠れそうになどないのに。
 憤りをぶつけるものもなく、胸に重くもやもやしたものを抱えたままで舌打ちしたとき、壁際に小さく何かがぶつかる音がした。「今なんか──」
 巣穴のように潜り込んだ掛け布団の中から、ルークがもそもそと這い出て隣室に耳をすませた。何か物音がするわけではないのだが、隣室では確かに人が動く気配がしている。
「ルークモドキ、起きたみたいだな」
 ルークが今夜はじめてアッシュと目を見交わし、ほっとしたように呟いた。再びもぞもぞと布団に入る。「明日、少し話ができればいいな。──お前、苛めるつもりならさっさと発てよな。そのほうがお互いのためだろ」
「うるせえ!」
 いつもは何かとアッシュを引き止めたがるルークの、邪魔だと言わんばかりの言い草に、カッとして氷嚢を投げつける。直接当たればたいしたダメージをくらわせることができただろうが、生憎とルークがすっぽりと掛け布団に潜り込んでいたため、胸のすくようなことにはならなかった。
「なんだよ──」

『ぃ、いやだ! アッシュやだっ……! はな、止めろって!』

 突然、小さいがはっきりとした声が聞こえて、アッシュは横たわったまま目を見ひらいた。掛け布団から這い出て氷嚢を握りしめたルークが驚いたように起き上がる。
「っち。マジかよ……」
「なあ、アッシュ、おい」
 呆然と呟くアッシュに、少しこわばったルークの声がかぶさった。ルークは注意を促すようアッシュに声をかけたあと、厳しい目をして隣室の様子をうかがっている。
「なあ……なんかもめてねえ?」
「ほっとけよ。さっき人のことを気にする俺がわからねえとか言ってやがったくせに」

 ルークが裸足のままベッドからおりた。そのままこちらに──ドアの方に向かって来るのを見て、アッシュも慌てて起き上がる。「おい──」
「ちょっと様子見てくるだけだって」
「はあ?! おい!」飛び出して行こうとするルークの手首を、アッシュは慌てて掴んだ。「よせって! 踏み込んでどうすんだ!」
 言い争う二人の声にかぶさるように、押し殺すことを忘れた悲鳴が聞こえ、二人は互いに捕らえ、捕らえられたまま凍り付いたように壁を見つめた。

『やっ、そこやだ、聞こ、聞こえる! 隣、に、聞か、アッシュ、やめ、おねが、や、ああっ!』

「ほら! やっぱただごとじゃねえよ。見てくる。仲裁くらい、おれにだってできるだろ」
「ただごとだって言ってんだよ!」
 アッシュを押しのけて部屋を出ていこうとするルークを、アッシュは必死で押しとどめた。いくらなんでも『自分たち』の濡れ場に踏み込むなど。
 止めようとするアッシュともみ合い、とうとう二人は掴み合ったままアッシュのベッドに倒れ込んだ。「──っ!」
 その拍子にルークの手がしたたかに腫れた口元にあたってしまい、アッシュは激痛に顔を歪め、口穢くルークをののしった。
「ごめん、でも──」

『──、──』
『いッ、ああぁああああっ! ああ……っ、イあっ、ああっ、やめっ、止めて、く、ひぃっ……っ!!』

「い、今の声、だれだ? ルークモドキは?」
 助けに行こうというのか、半分のしかかるかたちになったアッシュの胸を押しておき上がろうとしていたルークが、新たに聞こえた悲鳴に身体をこわばらせる。
「……今のがルークモドキだろ」
「ぐえっ」
 アッシュはだんだん馬鹿らしくなってきて、ルークのみぞおちにわざと手を付いて起き上がってやった。横にころがってルークの手が当たった唇に触れ、その指に新たな出血のあとがないか確かめる。「ヤってるだけだ、ほっとけ」
「──なにを、」
「セックス」
「セッ、はあっ?!」
 嫌がっているようにも聞こえるルークモドキの声を、ルークはしばらくじっと聞いていたが、ややあって顔を真っ赤に染め、納得したようにうなずいた。「なるほど……」
 バカにしたように鼻を鳴らし、アッシュはルークが握りしめている氷嚢を引ったくった。今のでどっと疲れが出たというか、痛みが増した気がする。むろん気のせいではない。わざとでないにしろ傷の上を叩かれたせいだろう。
「宿に泊まったときとか……ああいう……こ、声、とか。何度か聞いたことがある。でもあんな感じじゃなかったしさあ……」
 ルークがなにやら言い訳がましくぼそぼそと呟いている。
 アッシュのベッドの上で、くったりと両腕を伸ばして伏せてしまったルークを横目に、アッシュはイライラと爪を噛んだ。ルークモドキにアッシュが何を言ったか、アッシュモドキは知っているはずだ。にもかかわらずわざわざこちら側の壁際でことをはじめたのはおそらく偶然ではあるまい。十中八九、嫌がらせだ。

『あっ……あっ……ああっ、もぉイく! い、い、イク、イク……っ!』

 隣室から一際高い声が聞こえてきた。同時につっぷしているルークからもふう、と吐息が聞こえた。
「仲良くしてるんだな……よかったー」
「よくねえよ! てめえ、とっとと自分のベッドに帰れ!」
「んー」ルークがのろのろと身を起こす。情けなく眉の下がった顔は真っ赤になっていて、アッシュが睨む視線の先でとぼとぼと自分のベッドに戻り、ごそごそと中に潜り込んだ。
 ルークの頭が布団の中に完全に消えてしまってから、アッシュは再び仰向けに横になり、傷に氷嚢をあてた。

『ああ──あ、ん──アッシュ、あっ、ああっ、や、アッシュ……アッシュ……すき、すき……』

 アッシュが立ち上がった気配を感じて、ルークが亀のように布団から首を出す。「アッシュ……?」
 唐突に怒りが脳を焼いた。アッシュはずかずかと壁際へ歩み寄り、思い切り脚を振り上げた。
「──るっせえんだよ!!!」
「あっ、バカ!!」
 怒鳴り、壁を蹴り上げるのと同時に、ルークの制止の声がかかった。何がバカだ。隣が角部屋のため、被害はこの部屋だけだが、もしもこの部屋がナタリアの部屋だったらどうするのだ。それなら嫌がらせをしなかったか? いや、隣が女性陣の部屋だとしたらあの男、それはそれで面白がりそうな気もする。
 どうあってもあの男のだらしのない下半身を止めることなどできそうにない気がしたが、気付けば聞こえてきていた声が収まっていた。人が動く気配は変わらず感じる。だが、アッシュはどこか勝ち誇った気分でせせら笑った。
「へっ。ざまあみやがれ。で? 誰がバカだと、」

『あっ──あっあっあっ、やだあっ、やだあっ……こんなカッコ、待って、アッシュ、待っ……や、や、やあああああああ──っ!!』

 一拍空けて、絶叫としかいえない声が返ってきた。愕然として壁を凝視するアッシュの耳に、ルークの恨みがましい声が聞こえてくる。
「あーあ……そんな挑発したら、アッシュモドキが余計反抗的になるだろうって予想できねえのかよ……。可哀想に、ルークモドキ……」

『あっ……あっ……また、イク、アッシュぅ、も、イク……イ、ク、イク、イクう! イクうっ! イ……っ!』
『──、──』
『や──あっ!? や、や、まだっ……』

 達したばかりで過敏になった身体が治まるまで待ってもやらずに動き出したのだろうということが、声と、ごとごとと身体が壁にあたるリズミカルな音でわかった。アッシュは疲れ果て、片手で顔を覆った。ルークのようにみっともなく布団をかぶるならまだしも、この部屋に逃げ場などない。
 これまで隣室に物音を聞かれまいとしていた努力を、なにもかも放棄したらしいルークモドキの声が少しずつ意味をなさなくなる。甘えたように濡れた声が、壊れた音機関のように『アッシュ』と繰り返し繰り返し呼び続けていて、まるでアッシュ自身が──。

『アッシュアッシュって鳴きながらきゅうきゅう締めてくるのが』

 ふいにアッシュモドキのやに下がった声が脳裏に甦った。
 何か言ってはいるようだが、アッシュモドキの声はぼそぼそと低くて聞き取りにくく、聞こえてくるのは高く、どこか甘い声だけだ。声だけを聞いていれば、肉が壁を打つ音に合わせて女のようにあえいでいるのが、隣で布団をかぶって丸まっているレプリカと同じものとは思えない。

『きゅうきゅう締めてくるのが最高に──』

 熱く滾る屹立を潤みきった蜜の壷に押し込むと、雄の形に合わせて内壁が吸い付いてくる。生き物のように柔らかく蠢き、うねうねと締め付け──その感覚がふいに甦り、アッシュは狼狽して身を起こした。
「ちっ」
 アッシュは舌打ちしてどさりとベッドに座り、着たままでいた詠師服を脱ぎ捨てて適当な服に着替え、マントを羽織って剣を掴んだ。
「どこ行くんだよ?」
 逃げる気配を感じたか、ルークが起き上がって咎めるように睨みつけてくる。
「てめえにゃ関係ねえ」

『い、イイ、アッシュ、アッ、シュ、イイ、イイ……』

「……まあ、気になるのはわかる、けど。なんつーか……知り合いだと思うと、ちょっと……クるものがあるというか……」
 真っ赤な顔で、目を羞恥に潤ませ、ルークが見上げてくる。
 自分の声があげているものだと思えば、さぞ嫌なことだろうが、ルークモドキの声は高く、少しずつかすれてきてもいて、アッシュモドキが抱いているのが自分自身のようなものであるという感覚が薄いのだろう。アッシュモドキの声は低く、呼んでいたとしても『ルーク』の名が壁越しに聞き取れることはなかった。
 だがアッシュは違う。欲情に濡れた声が何度も呼び、求めているのはアッシュ自身の名だ。
 これ以上ここにいると、気が変になる──。
「俺が空けるから、一人で……」言いかけて、ふと視線を戻した。アッシュはほとんど一人での行動だが、ルークは必ず仲間と一緒だ。しかも、一人部屋になることなどほとんどないはず。「お前、今までどうしてた」
 言われた意味がすぐには理解出来なかったようで、一瞬きょとんとしてから、ルークは視線を逸らした。「……一人部屋になったとき、とか……シャワーで音消して、とか……」
 いろいろ苦労しているらしい。ため息が出た。「着替えろ。出かけるぞ」
「えっ? どこに」
「どこへでもいいだろうが。それともここにいてえのか」
「う、ううん、行く! 行くよ!」
 ルークは赤い顔でもぞもぞとベッドから這い出て、上にマントを羽織った。さすがに居たたまれなくはあったようだ。
 慌てた様子で、だがどこか嬉しそうに身支度を整える姿を見つめ、アッシュはふと、アッシュに比べてルークが少し鈍いように感じたのは経験がないからだと気付いた。十七にもなって、と思い、数ヶ月前まで屋敷に閉じ込められていたのだと思い出す。
 ないものは、作らせればいい。
 アッシュは共犯者を仕立て上げるべく、ルークを連れて静かに宿を抜け出していった。


上手く切れずに長くなりました。(2012.06.15)