手の中の冷たい革袋が、からんと涼しい音を立てた。
「意地はってないで、ナタリアに治してもらえよ」
隣のベッドに腹這いになり、汚い字でなにか書き付けているらしいルークが、呆れたように言った。アッシュは返事をしなかった。
「言っとくけど、おれはアッシュモドキにチクったこと、全然わりいと思ってねえからな」
無視されたことで、アッシュがまだ怒っていることはわかったのだろう。しかしいつものルークならそれでも遠慮がちにアッシュの様子をうかがってくるのに、自業自得とばかりに一瞥すらよこさない。
だが何より腹立たしいのは、予期していたにも関わらず、壁際に吹っ飛ばされるほどの力で拳を振り抜かれ、ほんの一瞬、意識を失ってしまったことだ。そのわずか数秒で、アッシュは反撃の機会を逃した。アッシュモドキはいつまでもアッシュにかかずらったりせず、己の半身の元へさっさと駆けさってしまったのだ。
「……てめえはムカつかねえのかよ? 自分が、そう……」『ぃ、いやだ! アッシュやだっ……! はな、止めろって!』
突然、小さいがはっきりとした声が聞こえて、アッシュは横たわったまま目を見ひらいた。掛け布団から這い出て氷嚢を握りしめたルークが驚いたように起き上がる。
「っち。マジかよ……」
「なあ、アッシュ、おい」
呆然と呟くアッシュに、少しこわばったルークの声がかぶさった。ルークは注意を促すようアッシュに声をかけたあと、厳しい目をして隣室の様子をうかがっている。
「なあ……なんかもめてねえ?」
「ほっとけよ。さっき人のことを気にする俺がわからねえとか言ってやがったくせに」
ルークが裸足のままベッドからおりた。そのままこちらに──ドアの方に向かって来るのを見て、アッシュも慌てて起き上がる。「おい──」
「ちょっと様子見てくるだけだって」
「はあ?! おい!」飛び出して行こうとするルークの手首を、アッシュは慌てて掴んだ。「よせって! 踏み込んでどうすんだ!」
言い争う二人の声にかぶさるように、押し殺すことを忘れた悲鳴が聞こえ、二人は互いに捕らえ、捕らえられたまま凍り付いたように壁を見つめた。
『やっ、そこやだ、聞こ、聞こえる! 隣、に、聞か、アッシュ、やめ、おねが、や、ああっ!』
「ほら! やっぱただごとじゃねえよ。見てくる。仲裁くらい、おれにだってできるだろ」
「ただごとだって言ってんだよ!」
アッシュを押しのけて部屋を出ていこうとするルークを、アッシュは必死で押しとどめた。いくらなんでも『自分たち』の濡れ場に踏み込むなど。
止めようとするアッシュともみ合い、とうとう二人は掴み合ったままアッシュのベッドに倒れ込んだ。「──っ!」
その拍子にルークの手がしたたかに腫れた口元にあたってしまい、アッシュは激痛に顔を歪め、口穢くルークをののしった。
「ごめん、でも──」
『──、──』
『いッ、ああぁああああっ! ああ……っ、イあっ、ああっ、やめっ、止めて、く、ひぃっ……っ!!』
「い、今の声、だれだ? ルークモドキは?」
助けに行こうというのか、半分のしかかるかたちになったアッシュの胸を押しておき上がろうとしていたルークが、新たに聞こえた悲鳴に身体をこわばらせる。
「……今のがルークモドキだろ」
「ぐえっ」
アッシュはだんだん馬鹿らしくなってきて、ルークのみぞおちにわざと手を付いて起き上がってやった。横にころがってルークの手が当たった唇に触れ、その指に新たな出血のあとがないか確かめる。「ヤってるだけだ、ほっとけ」
「──なにを、」
「セックス」
「セッ、はあっ?!」
嫌がっているようにも聞こえるルークモドキの声を、ルークはしばらくじっと聞いていたが、ややあって顔を真っ赤に染め、納得したようにうなずいた。「なるほど……」
バカにしたように鼻を鳴らし、アッシュはルークが握りしめている氷嚢を引ったくった。今のでどっと疲れが出たというか、痛みが増した気がする。むろん気のせいではない。わざとでないにしろ傷の上を叩かれたせいだろう。
「宿に泊まったときとか……ああいう……こ、声、とか。何度か聞いたことがある。でもあんな感じじゃなかったしさあ……」
ルークがなにやら言い訳がましくぼそぼそと呟いている。
アッシュのベッドの上で、くったりと両腕を伸ばして伏せてしまったルークを横目に、アッシュはイライラと爪を噛んだ。ルークモドキにアッシュが何を言ったか、アッシュモドキは知っているはずだ。にもかかわらずわざわざこちら側の壁際でことをはじめたのはおそらく偶然ではあるまい。十中八九、嫌がらせだ。
『あっ……あっ……ああっ、もぉイく! い、い、イク、イク……っ!』
隣室から一際高い声が聞こえてきた。同時につっぷしているルークからもふう、と吐息が聞こえた。『ああ──あ、ん──アッシュ、あっ、ああっ、や、アッシュ……アッシュ……すき、すき……』
アッシュが立ち上がった気配を感じて、ルークが亀のように布団から首を出す。「アッシュ……?」『あっ──あっあっあっ、やだあっ、やだあっ……こんなカッコ、待って、アッシュ、待っ……や、や、やあああああああ──っ!!』
一拍空けて、絶叫としかいえない声が返ってきた。愕然として壁を凝視するアッシュの耳に、ルークの恨みがましい声が聞こえてくる。『あっ……あっ……また、イク、アッシュぅ、も、イク……イ、ク、イク、イクう! イクうっ! イ……っ!』
『──、──』
『や──あっ!? や、や、まだっ……』
達したばかりで過敏になった身体が治まるまで待ってもやらずに動き出したのだろうということが、声と、ごとごとと身体が壁にあたるリズミカルな音でわかった。アッシュは疲れ果て、片手で顔を覆った。ルークのようにみっともなく布団をかぶるならまだしも、この部屋に逃げ場などない。
これまで隣室に物音を聞かれまいとしていた努力を、なにもかも放棄したらしいルークモドキの声が少しずつ意味をなさなくなる。甘えたように濡れた声が、壊れた音機関のように『アッシュ』と繰り返し繰り返し呼び続けていて、まるでアッシュ自身が──。
『アッシュアッシュって鳴きながらきゅうきゅう締めてくるのが』
ふいにアッシュモドキのやに下がった声が脳裏に甦った。
何か言ってはいるようだが、アッシュモドキの声はぼそぼそと低くて聞き取りにくく、聞こえてくるのは高く、どこか甘い声だけだ。声だけを聞いていれば、肉が壁を打つ音に合わせて女のようにあえいでいるのが、隣で布団をかぶって丸まっているレプリカと同じものとは思えない。
『きゅうきゅう締めてくるのが最高に──』
熱く滾る屹立を潤みきった蜜の壷に押し込むと、雄の形に合わせて内壁が吸い付いてくる。生き物のように柔らかく蠢き、うねうねと締め付け──その感覚がふいに甦り、アッシュは狼狽して身を起こした。
「ちっ」
アッシュは舌打ちしてどさりとベッドに座り、着たままでいた詠師服を脱ぎ捨てて適当な服に着替え、マントを羽織って剣を掴んだ。
「どこ行くんだよ?」
逃げる気配を感じたか、ルークが起き上がって咎めるように睨みつけてくる。
「てめえにゃ関係ねえ」
『い、イイ、アッシュ、アッ、シュ、イイ、イイ……』
「……まあ、気になるのはわかる、けど。なんつーか……知り合いだと思うと、ちょっと……クるものがあるというか……」
真っ赤な顔で、目を羞恥に潤ませ、ルークが見上げてくる。
自分の声があげているものだと思えば、さぞ嫌なことだろうが、ルークモドキの声は高く、少しずつかすれてきてもいて、アッシュモドキが抱いているのが自分自身のようなものであるという感覚が薄いのだろう。アッシュモドキの声は低く、呼んでいたとしても『ルーク』の名が壁越しに聞き取れることはなかった。
だがアッシュは違う。欲情に濡れた声が何度も呼び、求めているのはアッシュ自身の名だ。
これ以上ここにいると、気が変になる──。
「俺が空けるから、一人で……」言いかけて、ふと視線を戻した。アッシュはほとんど一人での行動だが、ルークは必ず仲間と一緒だ。しかも、一人部屋になることなどほとんどないはず。「お前、今までどうしてた」
言われた意味がすぐには理解出来なかったようで、一瞬きょとんとしてから、ルークは視線を逸らした。「……一人部屋になったとき、とか……シャワーで音消して、とか……」
いろいろ苦労しているらしい。ため息が出た。「着替えろ。出かけるぞ」
「えっ? どこに」
「どこへでもいいだろうが。それともここにいてえのか」
「う、ううん、行く! 行くよ!」
ルークは赤い顔でもぞもぞとベッドから這い出て、上にマントを羽織った。さすがに居たたまれなくはあったようだ。
慌てた様子で、だがどこか嬉しそうに身支度を整える姿を見つめ、アッシュはふと、アッシュに比べてルークが少し鈍いように感じたのは経験がないからだと気付いた。十七にもなって、と思い、数ヶ月前まで屋敷に閉じ込められていたのだと思い出す。
ないものは、作らせればいい。
アッシュは共犯者を仕立て上げるべく、ルークを連れて静かに宿を抜け出していった。